1月16日

・カメラのキタムラのプリントサービスをはじめて使ってみた。スマホで撮った写真の現像されたものを郵送で送ってくれるらしい。たのしみ。

・『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(伊藤亜紗)「第一章 装置としての作品」より引用。

ヴァレリーの小説における描写(レアリスム)批判。

《ここであらためて想起しておきたいのは、描写が批判されるべき理由として、「現実のイリュージョン」を作り出すべく、読者に「信仰、信じやすさ、自己の破壊」を要求する、という点が挙げられていたことである。この理由に関して注目すべきことは、作品の質と同時に、その質が成立するために必要な読者像について語っている、ということである。つまり描写批判は、ヴァレリーにとって、どのような読者像を設定して書くか、つまり作品を発表するにあたって読者をどのような存在として振る舞うかという作者の倫理の問題でもあるのである。一人の文学者として「信じやすい読者」の存在を前提にして書くこと、またそうした読者を大量生産することは、ヴァレリーにとって倫理的に許すことのできない行いだった。別の言い方をすれば、「信じ込ませるために書く」という行為につきまとうやましさ、恥ずかしさをヴァレリーは決して看過することができなかった。そしてこのやましさや恥ずかしさに鈍感でなければのうのうと描写などできないはずであり、ひいては小説など書けないはずだ、と言うのである。》

・このようなやましさ、恥ずかしさは「読者を意識して振る舞うこと」に由来する。そして「書くこと」は観客としての他者を完全に排除することはできない。

《要するに、人は作者でありかつ誠実であることはできない。》

《しかしそうであるならば、解決の道は、この他者を排除するのではなく、むしろ適切に設定することによって、複数性を表現の条件として積極的に受け入れていくことこそにある。(…)信じやすい存在として想定された「他者」ではなく、今ここにいる自己を、自らに反論する可能性をもった他者として想定して書くこと。ヴァレリーの求める誠実さは、「自己に閉じこもって孤独のうちに制作せよ」という命令ではないし、「最も内的な存在が作り出すものをそのまま提示せよ」という要求でもない。ヴァレリーにとって重要なのは「他者といるように自分自身といる」ということであって、他者の視点が排除されるどころかむしろ積極的に必要とされるのである。この他者の視点は、ものを書く際には不可欠な判断の審級でもある。アンチ・ロマン主義者であったヴァレリーはしばしばこの点を強調する。「その仕事のあいだ、精神は「自身」から「他者」になったり戻ったり絶えずしている。そしてその最も内的な存在が作り出すものをその第三者の判断の特殊な感覚によって修正するのである」。》

・作者→読者という「伝達」の構図それ自体の批判。また、「伝達」批判としての散文批判。

《散文は「伝達」を目的とする文学であり、それゆえ「散文は理解されるや否や消滅する」。ヴァレリーのあげる例。たとえばわたしが「火をください(Je vous demande du feu)」と言ったとする。散文であるならば、このフレーズは「火を渡す」という行為によって置き換えられ、フレーズじたいは消えてしまうだろう。「あなたは私に火をくれる。あなたは私を理解したのだ」。つまり、フレーズが発信者の意志を「伝達」するための媒体となったのである。一方、「火をください」というたまたま口にしたフレーズのもつ響きや抑揚が、詩人の気に入ったとしよう。彼はその数語を繰り返す。「フレーズが一つの価値を帯びた。それはその価値を有限の意味を犠牲にすることによって帯びたのである」。》

《この例が意味しているのは、同じフレーズが散文にも詩にもなるということ、両者を区別するのはそれがやり取りされる発信者と受け手の関係の違いなのだ、ということである。もっとも、同じフレーズを何度も舌の上でころがす詩人の振る舞いは、目の前の受信者を拒絶しているようにも見える。しかし、拒絶を含むとしても、この受信者が詩の読者となるとき、そこにはある種の関係が成立しているとヴァレリーは言うだろう。詩が生まれるのは、作者と読者が「伝達」ではないしかたで結びつくときである。詩の創造とは関係の創造である。そのとき、どのような関係が創造されているのか。》

・作品は作者と読者を結び付けつつ、しかし両者のあいだに割り込んでそれぞれを別のシステムとして成立させる媒介=切断項であり、作者からも読者からも自律している。「装置(machine)」としての作品。

《装置とはまさに、人の手を離れて自立的に——というより自動的に——作動する構成物である。さらに装置は、決められた特定の働きを遂行する。「装置」の側からみれば、「効果」とはつまりこの「働き」のことだろう。(…)詩人の仕事は、まさに技師のように、そうした様々な仕掛けの具合を工夫しながら、もっとも働きのよい装置を組み立てることにある。詩の完成度とは装置の働きの完成度なのだ。こうした作品のあり方は、創造の行為じたいを目的化し、作品をその産物とみなすロマン主義的な考えとは截然と対立する。作品は「生み落とされる」ものではなく、厳密に計算され、構築されなければならない。「わたしはつねに芸術と、自然発生的な産物をしっかり区別してきた」。》

・装置がもたらす読者の「行為」およびそれによって達成される「大きな目的」

《(ヴァレリーの1937年のテクスト「ある詩の回想の断片」より引用)それゆえわたしは、「文学」よりもむしろ、なにも再現せず、何の振りもせず、まったく現実に働く(actuelles)私たちの諸特性のみを用いる諸芸術のうちに満足を見いだし、想像的生活を営む私たちの能力やそれに安易に与えてしまう偽の正確さに頼ることはしないだろう。これら《純粋な》様式は、観察可能な現実から、現実の提供するあらゆる恣意的なものや表面的なものを借り入れてしまう、登場人物や出来事に熱中することがない。というのも模倣しうるのは、恣意的なものや表面的なもののみであるから。《純粋な》様式は逆に、あらゆる指示作用や記号のあらゆる機能から解き放たれた、私たちの感性のそれぞれの力の価値を開拓し、組織し、組み立てるのである。こうしてそれじたいに還元されたとき、一連の感覚はもはやクロノロジックな順序を持っておらず、次から次へと起こる固有の刹那的な順序を持つのである。》

ヴァレリーは感性を、私たちの世界に対する反応の仕方を刻々と変化させる、諸力の身体的な配置としてとらえる。「感性のそれぞれの力」という言い方がされているが、これは「感性のもつ能力」という意味ではなく、感性というものがそもそもある仕方で配置され組み立てられた諸力である、と理解すべきである(「能力<faculité>」ではなく「力<puissance>」の語が使われている)。要するに、詩が関わるのは、力の配置のありようであり、力が配置される場としての身体である。読者を行為させることを通じて、ヴァレリーは、身体を活性化させ、身体を場として展開される諸力の価値を「開拓し、組織し、組み立て」ようとしたのである。これが、装置としての作品がもつ「大きな目的」に他ならない。》

 《小説の読者がただ精神のみに生きる「あやまった現実」を課せられるのに対し、詩を読む人は身体を持つその存在全体が、詩によって秩序づけられている、どの力も遊ばせておかないつまりすべての力が巻き込まれる状態とは、いわば詩によって支配され、自らを作り変えられているような事態だろう。それゆえ、ヴァレリーのプログラムにおいて読者が行う「行為」とは、単なる能動的な行為とは異なる、それは「装置」によって促された能動性であり、ある種の「拘束」を、「捕獲状態」を伴う能動性である。》

《逆に言えば、そのような受動と能動の境界が曖昧になるような次元においてようやく、「能力の価値の開拓」ということは起こりうるのだ。「私たちが私たちの自由を作品に譲り渡す代償として、作品はそれが私たちに課す捕虜状態への愛と、直接認識に伴うある種甘美な感情を私たちに与えてくれる」。装置としてすぐれた詩とは、読者の諸力を活動させ秩序づけるよう巧みに構成されている詩である。「私たちはあまりに見事に所有されているのに自分自身が所有者であると感じる」。》

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