2024-1

月末に大きく体調を崩してしまい、なにかを用意する時間がありませんでした。ザンネン。幸い、今月は新年から心機一転、ちゃんと毎日日記書いてました。日記っていうかほとんどうんち落としていっただけみたいな日もあるけど、今月はそれでよしとさせてください。tumblerで読めます。毎日更新中(予定)。

https://www.tumblr.com/blog/inuimoko

今月描いた絵

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2023-10 ドーナツの穴はドーナツの夢を見るか?

 

こんばんは。Twitterでペンギンが人間に対してレジストする動画が流れてきてカッケェ…となりました。ある水族館がコスト削減のため安魚に変えたとかだったのですが、ペンギンたちはその魚を断固として口にしようとしませんでした。わたしもペンギンたちみたいに強くならなければと思います。

 

そういえば、わたしも食べ物に関してずっと社会に憤っていることがあります。マックの月見バーガーが過大評価されている件についてです。この時期になると毎年強いられているかのように、みんなマックの月見バーガーの話をするので、数年前にそんなに言うならと食べてみたことがあります。口にした感想は「なんですか、これ」(滝先生の言い方で)でした。こんなのがもてはやされてしまうから社会は良くならないんじゃないかと思ったのを覚えています(小さいときおばあちゃんと毎週末マックに行ってた思い出があり、マック自体は好きです)。

 

きっとわたしたち人間にも、不味いものは不味いと正直に言えるペンギンたちのような勇気が必要なのです。それもこれも、わたしたちが所詮どこまでいっても人間であり、ペンギンになることができないせいです。もしTwitterのアイコンが青い鳥のままだったら、Twitter社が定期的に鳥類のレジスタンス動画をタイムラインにばら撒いているといった空想にも現実味があったのですが、もうあの青い鳥もいないのです。

 

10月に入ってから、ペンタブを買って絵や漫画を描き始めました。ずーっと絵を描くことには苦手意識があって避けていたのですが、えいっと始めてみるとすごく楽しくて今月はずっと絵を描いていました。その甲斐あって、40pの漫画の下書き原稿が完成しました。

 

ここからもすごく大変なのはわかっているのですが、それでもいったんコマ割りやセリフの打ち込みが終わって、一通り読める状態になってわーいとなっています。下書き状態で絵は見づらいですが、もし読みたい方がいれば連絡ください。

 

というわけで?今月の日記は、漫画回にしようと思います。ここ最近で読んだ漫画について覚えている範囲でいろいろと。

 

げんしけん』(木尾士目

結構前の作品ですが、すこし前に「二代目」まで全巻買って最後まで読みました。「げんしけん」は現代視覚文化研究会の略で、いわゆる大学のオタサーの話。名前はカッコいいですが、漫研のように創作活動をするほどではないが、とりあえずオタク文化が好きとという理由で集まっているゆるく雑多な集まりです。最初はそうでもないのですが、物語が進むにつれてラブコメ色が強くなっていき、「二代目」に入ってからはげんしけん元会長、班目晴信を中心とした五角関係?になります。

 

班目先輩はげんしけんの中でもかなり純度の高いオタクで、他のメンバーが大学から離れて社会に出ていくなか、彼だけは卒業して就職した後も大学の近くに住み、サークルに頻繁に顔を出しています。そんな、学生時代の延長のまま過ごしている班目さんに突如「モテ」(四人からの)の状況が発生し、彼が二次元(空想上)ではなく現実の女性のなかから誰かを選びとることでモラトリアム(+童貞?)から卒業するという幾度となく繰り返されてきた、男の子が「一人前の男」になるための物語が本筋になっていきます。女性を媒介にして男性が主体性を獲得するというよくない構図。

 

班目さんのことが好きな人のなかに波戸賢二郎という、BL好きで女子と一緒にBL話をするために女装してサークルに参加している腐男子がいて、その子のことを応援しながら読んでいたのですが、最後の最後で、ここまで引っ張っておいてそりゃないよという形で決着がついてしまうことになります。

 

班目先輩は最終的にこのなかの誰とも付き合わないという決断をします。ここまででも結構えぇ〜?なのですが(なんだかんだラストのシーンでは先輩に誰かを選択することを期待してしまっていました)、そのあと元同サークルの春日部咲の鶴の一声によって一度は振ったスージーと付き合うことになり、さらにええええぇ〜〜!??となりました。

 

誰とも付き合わないと決めたのかと思えば、母親のような存在(春日部さんは班目先輩がずっと片想いしていて、一度振られた相手)の手ほどきによってなんかうまくいってしまい、結局班目先輩は「大人」になれないオタクのまま終わります。この決着のつき方にはかなり戸惑ったのですが、こうした戸惑いは身に覚えがあります。例えば「ハウル」の終盤、ソフィー(母)ーハウル(子)の関係がソフィー(妻)ーハウル(夫)へと移行し、ハウルの青年から父になろうとする試みが失敗する場面。

ソフィー「逃げましょう、戦ってはだめ」

ハウル「なぜ?ぼくはもう十分逃げた」「ようやく守らなければならないものができたんだ」

しかし、「ハウル」の世界では大人になることは怪物になることを意味するため、結局ソフィーはハウルを逃すことを選択します(「あの人は弱虫がいいの」)。その後、物語は逆行し、ソフィーが大人=怪物になったハウルに少年の心(少年の頃の心臓)を取り戻す話になります(この辺については前に載せた卒論で詳述しています)。

 

あるいは新劇場版「エヴァ」の、ずっとウジウジしている少年だったシンジくんが、自ら進んで行動しようとする意思によってかえって友達の死と世界の破滅を招いてしまう悲劇も…(結局シンジくんはウジウジから抜け出せず、アスカやマリが慰めるかたちに)。

 

これらの物語に共通しているのは、男の子が周りの状況によって大人になることを強いられ(複数人からのモテ、戦争、世界の危機)、その出立の契機において失敗する話だという点です。この種の作品は、男の子たちの「成長の失敗」とともに、ビルドゥングスロマンとして建てられた物語の構造を最後にポッキリと折ってしまうため、うまくまとまってない、破綻しているなどの批判を受けがちです。

 

ハウル」とかはその破綻っぷりが徹底されてて好きなのですが、この作品に関しては、波戸くんと班目先輩の関係を結構踏み込んで描いてくれている分、個人的には、波戸くんエンドできっちり終わってほしかったとは思います(スージーもすごく好きなキャラなので複雑ですが)。逃げることは肯定されるべきだと思いつつも、やっぱりこの終わり方だと、『げんしけん』は徹底して「オタク」の物語に留まろうとした結果として、二次元のなかで同性愛やトランスジェンダークロスドレッサーを積極的に受容しつつも、現実に生きるマイノリティに対しては向き合うことができない(結局ネタとして消費することしかできない)「オタク」の限界を露呈させてしまったのではないかと、すこし考えてしまいます(書いててわたし自身にも返ってくるのでううっ…となります)。ただ、班目先輩が真摯に波戸くんと向き合っていなかったとは思いません。

 

『違国日記』(ヤマシタトモコ

たしか、8巻くらいまで読んだ気がする。両親が死んじゃって、叔母と暮らすことになる話。最初の設定の類似から『海街diary』(吉田秋生)を思い出しながら読んでいました。序盤は叔母の槙生さんがシリアスな顔をしていることが多いのですが、物語が進んで子ども側(田汲朝)の視点が中心になっていくにつれて、槙尾さん本来の?他者に無関心でどこかとぼけててゆるい感じが強く出てくるのが良いなと思います。

 

『スキップとローファー』(高松美咲)

いま連載している中で続きをいちばん楽しみにしてる漫画です(ワールドトリガーと同列一位)。みつみ、ミカ、ゆづ、まことの四人が好きすぎて、7巻で2年生になってクラスがバラバラになったとき本気で悲しくなったのですが、新キャラの八坂さんと氏家くんもすごく良いキャラしてて、毎巻よすぎ〜〜!とかうわああああああんとか感情が爆発しながら読んでます。特にゆづとまことの関係性が大好きで二人が話しているだけで泣いてしまいます。7巻のあのシーンを読んだ後、二人の尊さを咀嚼するためにすぐ家の外に出て、小一時間夜道をうろうとしました(卯月コウのブルアカ配信で、良いものを見たあとすぐ夜風にあたりに行くのはおかしなことではないと学びました)。

 

子供はわかってあげない』(田島列島

ここからは短編。すこし前、3年ぶりくらいに読み返して、そのときのメモに明ちゃんLoveとだけ書いてあります。話の大枠はボーイ・ミーツ・ガールで、ボーイの方の門司くんの元兄、性転換手術をうけて現在は姉なのが明ちゃんです。明ちゃんは探偵(何でも屋)をやってて、明ちゃんのところにとある教団の教祖が莫大な金をもって失踪したから捜索してほしい、という危険な香りのする依頼がやってきます。その教祖はガールの方の朔ちゃんの元父親です。ただ設定を記述しただけですでに面白そうですし、実際にすごく面白い作品でたまに読み返しています。明ちゃん大好き。同じ作者の次作、『水は海に向かって流れる』にもちょこっと登場しています。

 

『夜とコンクリート』(町田洋)

建物の話し声が聞こえる青年、団地の駐輪場のすみで目を閉じると現れる島、人間を連れさる発光体と、その人間が望む世界をつくりあげるドーム。日常は幻覚に侵食され、日常だと思っていたものは突然夢へとひっくり返ります。こういう作品が一番好きなので、同じ作者の別の作品も読んでみたいと思います。

 

『児玉まりあ文学集成』『ガールズレコグニション 三島芳治選集』(三島芳治)

比喩は遠く離れた存在を結びつけ、言葉は実際に目の前の世界を組み替えてしまう。そんな言葉の力が強すぎる世界で、文学部の児玉まりあと笛田くんが交わす不思議な会話を楽しむ漫画です。後者は作者がコミティアで出した同人誌時代の作品が読めます。すごく漫画が描きたくなります。

 

『銀河の死なない子供たちへ』(施川ユウキ

人類滅亡後の地球にて、死なない子どもたちの前に死んでしまう子どもが現れる話です。電車の中で読んでいたのにめちゃくちゃ泣いてしまいました。

 

『光と窓』(カシワイ)

過去の小説をいくつか漫画化した短編集です。ものすごく細い線の絵柄なので、瞬きしたら飛んでいってしまいそうでドキドキします。

 

『さめない街の喫茶店』(はしゃ)

今月の日記はこの作品について書こうと思って書き始めました。ようやくサブタイトルのドーナツの話になります。主人公のスズメがルテティアという不思議な街の、小さな喫茶店キャトルでマスターのハクロさんとともに働く話です。最初はほとんど客がいないのですが、すこしずつキャトルに訪れる人が増え、だんだんと賑わっていきます。ただ、ルテティアのある世界はスズメが眠っているあいだだけ存在する夢の世界です。スズメには現実を生きていた頃の記憶は残っていますが、何らかの理由で目覚めることが出来ない状態です。

 

この作品は、どのエピソードも「料理を作って食べる」という同じ形式によって構成されています。繰り返される穏やかな日常はたしかに心地よい世界ですが、そこには僅かながら不穏さがあります。ふとした瞬間に想起される妹との思い出、夢の世界だと自覚していることからくる、ここに居続けていいのだろうかという不安、そしてだんだんと薄れていく現実の記憶…。しかし、そうした不穏さも決して前面には出てこず、毎話同じことが繰り返される夢の形式と楽しい生活のなかでかき消されていきます。そのため、読み進めていても物語が進んでいるという感覚はほとんどなく、お決まりの流れが繰り返される心地よさのほうが強いです。いつ崩れてもおかしくないサザエさん時空といった感じかもしれません。

第一話の一コマの再現

それでも確実にそうした不定形の不穏さは夢の世界に浸透していきます。キャトルによく顔を出していたメンタさんがルテティアから消え、またそのような人物が存在していたという記憶そのものがルテティアから消えてしまう場面で、不穏さは一度ピークに達します。しかし、やはり夢での生活は何事もなかったかのように続いていきます。ハクロさんはコーヒーを淹れ、スズメは美味しそうな料理を作り、みんなで集まって食べます。この繰り返される穏やかな日常と不穏さの拮抗具合がすごく好きで、最後の方でこの世界ができた理由やどうしてスズメがルテティアにいるのかが判明するのですが、それまでのじわじわと広がってくる恐怖の感触こそが、この作品における最も貴重な経験でした。

このフワフワとした感じのままいつのまにか終わってしまっても、良い感じの作品だったな、となっていたと思うのですが、最終話での決着のつけ方がとても鮮やかだったのでぜひ紹介したいです。

 

先述の通り、どのエピソードでも必ず何かしら料理を作り、漫画の最後に材料や作るときのコツが紹介されます。作られる料理はお菓子が多く、第一話の料理はドーナツ、そして最終話の料理は、それを反転させたドーナツの穴です。最終話ではついに現実に戻るのですが、スズメは妹と切り盛りしている喫茶店で、サービスとしてドーナツの穴を提供することを発案します(ドーナツの穴という名前だけど、別で新しく作っているそうです)。そして、ドーナツとドーナツの穴の関係はこの作品の構造とパラレルになっていると考えられます。

この作品におけるドーナツとドーナツの穴の関係

 

こうしてみると、現実はいとも簡単に夢の領域に入ってこれるのに、現実を生きている時に夢のほうへ入っていく道は基本的に閉ざされていて、あくまでも想像によってその別様な世界を仮定することしかできないように見えます。実際、この夢の領域はスズメが丸い形の揚げ菓子に「ドーナツの穴」と名をつけることではじめて仮想的に形成されました。しかし、忘れてはならないのは、ドーナツの穴もまたドーナツの存在があって初めて存在し得るということです。ここには、一度現実がずっと変わらない盤石な世界に映るようになってしまえば見えなくなる自家撞着が存在します。このことは今あるドーナツの穴以外にも、別のドーナツの穴を際限なく想像可能であることを意味します。

無数に存在する、別のドーナツの穴の可能性




この作品は、スズメにとってルテティアでの経験はどのようなものとして位置づけられるのかに関して、ドーナツによってそのモデルを提示しています。階層を変えれば、この作品とそれを読むわたしの関係、あるいはフィクションと現実の関係についての重要なモデルにもなります。

 

言ってしまえば、スズメは現実世界での傷を癒すためにルテティアに閉じこもっていました。これだけだと、スズメの夢は現実をつつがなく生きていくための気晴らしといった、あまりに現実で生きていくことに重きを置いた意味づけをされて終わってしまいます(これは『げんしけん』にも通ずる問題で、「卒業」といった言葉を持ち出してしまうと、わたしたちは空想を生きるか現実を生きるかといった二者択一に追い込まれてしまいます。斑目先輩がそうだったように、こうした「卒業」モデルでは、「オタク」の問題は解決しようがありません。)。

 

しかし、スズメはドーナツのループから抜け出したあと、この世界とあの世界に関係を見い出すように「ドーナツの穴」を作ります。こうして生まれた新たな関係によって、ドーナツとドーナツの穴の間に潜在的なループが発生します。そしてこの作品は、スズメが去ったあとのルテティアの情景とともに、「ルテティアで過ごした日々が 本当にあったかどうかは関係ない あの穏やかでたゆたう湯気のような時間を 抱きしめて前に進めたら あの街は永遠に眠らず コーヒーはさめないのだ」という語りによって締め括られるのです。

 

この作品が教えてくれるように、この世界はこの世界自体よりもずっと大きな夢を見ていてるはずです。この世界は閉じていると、勝手にそう思っているけど実は穴だらけで、いつか得体の知れない光景や出来事に襲われるかもしれません。この作品とは逆に、現実がじわじわと空想に侵食される感触を体験できる文章を最近読んだので、それを紹介して終わりたいと思います。

 

『ファミレスを享受せよ』という神ゲーを作った「月刊湿地帯」というゲーム制作サークルのホームページで読める文章です。

oississui.com

「いるか日記」

http://oississui.com/bunsyo/pages/20230508.html

「左手薬指の指輪跡について」

http://oississui.com/bunsyo/pages/20230521.html

「アルバイト・たまねぎ」

http://oississui.com/bunsyo/pages/20230531.html

「アシカは四則演算ができない」

http://oississui.com/bunsyo/pages/20230711.html

 

日記はがんばらないことが一番重要だというのに、がんばってしまいました…。来月からは、わたしががんばっていないか監視してくれる人が必要になりそうです。今月から日記にサブタイトルをつけるようにしました。ついでに先月のにもつけてます。日記なのにものすごい分量になってしまって後悔しています。かといってもったいないので消すわけにはいきません。30日分あるので、読んでくださっている皆様につきましても、30日くらいかけてゆっくり読んでいただければと思う所存です。

ではまた来月…。