1月23日

・来週からテストだけど、勉強は明日からすることにして、今日は借りてきたDVDを消化することにした。『中二病でも恋がしたい!戀』の11、12話。昨日の続きで七宮問題をどう解決するか、というところだったけど、丹生谷の奮闘ぶりというか、周りの人間に対する愛がすごくて感動した(この素晴らしく立派なキャラは「ユーフォ」の吉川に受け継がれている)。七宮と丹生谷がくっついているシーンに良いタイミングで、凸守が入ってきて七宮に対して嫉妬するシーンも良かった。凸守ー丹生谷のペアは最初から最後まで素晴らしかった(特に凸守が立花を勇太に取られてから、2人が延々とイチャイチャしてるのが良い。作品のなかに異なるリズムが生まれるというか)。丹生谷と違って、一歩引いて周りの人間のことをよく見ているけど積極的に介入することはないくみん先輩が、丹生谷や中二病に対して「うらやましい」と述べる場面があるのも印象的だった(くみん先輩は主要人物のなかで唯一中二病という性質を過去にも現在にも持たないために、誰ともカップルを作ることがない。凸守が丹生谷とも立花ともラブラブなのとは対照的)。まあ、七宮問題の上に、伏線的に仕掛けられていた立花と勇太の問題が重ねられることで、七宮の方の問題がわりとうやむやというか強引に解決されてしまったのが少し引っかかるのだけど。七宮が陥った問題はそんなに簡単に解決されてしまって良いものなのか、七宮は本当にそれで良いのかという。最後に若干謎を残す感じになったけど、これはこれで良かったという気もする。

・最終話は立花が勇太とキスするのかしないのかというお話で、問題になっているのは、世間一般の「恋愛」に流されないで立花と勇太がいかに固有の関係を築くことができるのかという点だろう。流石にここまできて最後普通にキスをして終わるという締め方はしないだろうとは、こちらも信頼しているから安心して観ることができた。立花と勇太の顔が近づいて最大限に高まった緊張が、勇太の妹のキメラに赤ちゃんが生まれた、という電話で緩められるというのは良かった。そう来たか、っていう。結局最後までこの作品は、恋愛が恐怖の対象であり続けていて、中二病にとって最も恐るべき「現実」はまさに恋愛となっている。それがなんともリアルだと思った。個人が社会とどう折り合いをつけるのか、みたいな問題は別に「中二病」を題材にする必然性は生じないが(いわゆる「中二病」でなくたって日々思い悩むことなのだし)、「中二病と恋愛」というテーマになると切迫したものが生じ、まさにこの作品でしか問えない必然性が存在する。七宮と立花にとって問題だったのは、勇太を好きになることによって自らの能力を失い「中二病」でなくなってしまうことであり、それこそが最大の脅威であった。この作品では社会はもちろん学校も父としては機能せず、あくまでも同好会というドメスティックな領域における「恋愛」あるいはメンバーの人間関係だけがすべてかのように話が展開する。それはこの作品の欠点ではなくて必然性だろう。社会的なものを恋愛が代替しているとさえ言えるから。立花と七宮は(社会的な)恋愛関係に収まることで「中二病」という自分の固有性や、自らが大切にしてきた世界観(地)が底抜けに崩壊してしまうことに対してつねに防衛せざるを得ない。この作品では中二病が学校のなかでそれなりに受け入れられる優しい世界であるにもかかわらず、「恋愛」というリアルなものが安定的な世界の亀裂として存在するがゆえに、現実世界とは別のかたちで中二病であり続けることに困難が生じる。だからこの幸福な世界においてすら、現役中二病の3人のなかで安全な位置に存在するのは凸守だけとなる。この作品が最後まで問題にしていたのは、中二病と恋愛という相容れないものが同時に成立するとすればそれはいかなる関係においてなのか、ということであり、そこが分からないと勇太と立花の純情な関係をただ観客が消費するだけになってしまう(制作側がそれを狙ってもいるという面は否定できないけど)。これ以上行ったらつまらない作品になってしまうというとても危ない橋を渡っているのだけど、この作品はギリギリで持ち堪えていて、その緊張感がとても良かった。

・『ストーカー』(タルコフスキー)を観た。タルコフスキーってめっちゃ真面目なイメージがあったけど、この映画を見ると結構ユーモアも散りばめられてて良かった。一旦、教授が消えて、あいつはもうダメだなってなった後に、普通に登場してくるところは笑った。今回は樫村晴香の文章を読むために観たから、この映画に対してどんなことが書かれているのか楽しみ。

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1月22日

・『中二病でも恋がしたい!戀』の9、10話。ようやく物語がグッと深い部分に入ってきたという感じ。現実と虚構の対立という問いがそもそも偽の問題であるがゆえに、それを安直に主題化した作品は大抵おもしろくなかったり陳腐だったりするわけだけど(「中二病」の一期は当然そんなに単純ではなかった)、「中二病」ではその対立が中二病を維持することと恋愛感情の相入れなさという問題に重点がシフトしている。そして、これも作られた偽の問題であるとは言えるのだが、同じ偽の問題でもこっちの方がよっぽど面白いと思う。それは、人が自分を支える地だったり、わたしを捉えて離さないリアルなものは、実は恋愛や性的なものがもつ強度には太刀打ちできないのではないか、それほど人間にとって性というものはままならないものなのではないか、というような意味で(性愛の破壊的な側面)。より抽象度が高くて、まさに「中二病」だからこそ踏み込める領域と言える。二期では「恋愛」と「中二病」をまさに対立する問題として捉えてしまった結果、どちらかを捨てて片方を選択せざるを得なかった(決断せざるをえなかった)キャラとして七宮が登場し、今度は立花に対してかつての七宮が直面した問題が投げかけられることになる。9話では立花が恋愛と中二病の対立を止揚し、二つを同時に肯定するに至るが、それは同時に七宮に「抑圧されたものの回帰」、すなわち勇太への恋愛感情の強烈な揺り戻しを引き起こす。そして、転換点となった9話に続いて10話では七宮の葛藤が描かれることになる。七宮は勇太への恋心を殺そうとするが、回帰してきた外傷を自らの力で治すのは(物語上でも現実でも)不可能に近い。そして、劇中では丹生谷(とおそらく十花)だけが七宮が置かれている状況の深刻さを認知している(「そんな簡単じゃないわよ、きっと」)。この作品はタイトルから予想されるのとは違って、恋愛は幸福をもたらすというよりは、むしろ人に対して襲いかかり、強制的に何か大切なものを奪ってしまう面が強く描かれる(一期の立花においてもそうだった)。この作品においては通俗的な「恋愛」は単純に肯定的なものではないが、しかし完全に否定すべきものでもない(人間である限り否定しようがない)、という風にかなり複雑に捉えられていて、そこが面白いのだけど(恋愛アニメに見せかけて、実は反恋愛アニメなのではないかと思う)、次の展開でこの作品が七宮の状況をどう解決するのだろうか、という感じ。

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1月21日

・カメラのキタムラから写真が届いた。お弁当箱みたいな箱で届いた。現像されたものを見るとこんなに良い写真だったのかと驚く。

・せっかくなので卓上に並べてみた。写真と絵は定期的に入れ替える。

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・『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(伊藤亜紗)、「第二章 装置を作る」から面白いと思ったところをテキトーに引用する。

ラシーヌの古典悲劇について述べられているところをアニメ論として(も)読んだ。

 《登場人物がその個性によってではなく配置によって重要性をもつとき、物語において読み取るべきは、もはや彼らの心情のようなものではありえない。個々の場面は、人物たちの関係の構図を読解すべき「判じ絵」であり、その構図の変化こそ、物語を読みすすめる読者の関心を占めるものとなる。ラシーヌの作品を読む読者は、まさにチェス盤の傍らにいる観戦客のように、「駒」が織りなすゲームの展開を見守るのである。これは明らかに、描写的な文学もその一つである、登場人物を「要素」とするタイプの作品の享受とは異なる態度であろう。「わたしは《関係》を見る。あいだを、操作を——場面を、状態を見る」。》

アニメはここで言う登場人物を「要素」とするタイプの作品が多いが、一方でアニメを見るときも関係や構図、操作を見るという面が強い気がするし、そうやって観るほうがおもしろくなるというか。

《読者は人物に対して感情的な同一化をすることもないし、再現的・視覚的な興味を抱くわけでもない。人物は「操作されたもの」であり、読者の意識は、人物そのものではなくそれを動かす「操作」へと向かう。人物たちがどのように関係づけられ、そこからどのような全体の構図がうまれ、いかなるゲームがそこに展開されているか、「操作」を見る読者の意識には、「読み取る」という能動的な契機が含まれている。そして重要なのは、この読み取りが、静的なものではなく、諸力のおりなす構図の漸次的な変化というきわめて動的なものを相手にしているということである。》

アニメは古典悲劇と違って、再現的・視覚的な要素の力が強いため、観る者の意識は圧倒的な受動性に晒されるが、他方で観る者に対して「読み取る」という能動的行為の可能性を開いている。それは作品に登場する「キャラクター」が持つある性質によってもたらされる。

・古典悲劇/アニメのキャラクター論

《(ヴァレリーの分析)「古典主義の登場人物の心理は、ある一貫性、単純さ、分析的機能——、彼らを科学的にみれば、実は偽りで、ありえないが、美的には真実な存在にする法則をそなえている。人は彼らの存在を要約し、性格と役割を定義することができるし、欠かさずそうしてきた。そこにこそ、登場人物たちを抽象的で現実的でないものにするが、——しかし演劇的な意味では組み合わせ可能で、描くことが可能で、芸術的にはありうるものにする可能性がある。」》

ラシーヌの登場人物たちは、「存在を要約し性格と役割を定義することができる」。たとえば『フェードル』に登場するイポリットであれば、「アリシーを恋し、フェードルの権力のもとにあり、彼女によって求められ、しかも性の汚れを知らない男」といった具合に。(…)しかしヴァレリーのここでの強調点は、ラシーヌの登場人物の場合はそのような記述しつくせなさにあるのに対し、「駒」的な登場人物の場合には、その存在を記述しつくすことができる、確定記述の束によって代理させることができるのである。》

存在論的に見れば、先の断章にあるように、彼らは「科学的に見れば偽り」であり、「抽象的」で「非現実」な存在である。しかしヴァレリーによれば、その非現実性は組み合わせの妙味を引き出すための単純化であり、彼らを「美的には真実な存在にする」。彼らは「構図の変化」をダイナミックにするための、抽象的な「点」なのである。》 

アニメにおけるキャラクターの紋切り型にはある程度のメディウム的必然性があり、それ自体では必ずしも欠点ではない。問題になるのは個々のキャラクターの紋切り型というよりも、それぞれのキャラの《関係》やフォーメーションの操作、全体の構図の紋切り型の方だということになる。使い古されたキャラクターでも他のキャラとの関係や、それが全体のなかで占める位置によって面白くなることもあるし、また逆にどれだけ魅力的なキャラでも組み合わせによっては魅力が殺されてしまうことがある。

・「変換」によって新たに生じる抽象的な空間

ヴァレリーにとって古典主義悲劇とは、関係をとりだすために現実をまるごとディスクールに「変換」した結果に他ならない。ヴァレリーの好んだ比喩によれば、数理物理学が現象を数量と方程式に置き換えるように、古典主義演劇もまた人生を言語によって置き換えるという変換の操作によって成立している。》

《チェスに加えてここでは数理物理学とのアナロジーが導入されているが、いずれの場合でも問題は、古典主義演劇が、いかにしてそれじたい自立した一種の表記システムをつくりだしているか、という一点に向かっている。自律性は排他性を伴っている。古典主義演劇は現実を表象するのではなく、現実を並行的に置き換える。変数を限定することによって、数理物理学やチェス盤のような、現実とは別の閉じた空間を形成するのである。》

《ある人物のディスクールが状況の構図を変え、別の人物を動かす。(…)人物そのものではなく人物の向こう側にあるものをまなざす読者の関心が諸力のおりなす構図の漸次的な変化という「動き」に向けられていたことを思いだそう。このリズムは、状況の構図を読み解こうとする者にとって、対立や葛藤、反転やどんでん返しといった物語的運動そのものであり、チェスでいうところのゲームそのものである。》

優れたアニメにはまず第一にここでいう「動き」の面白さがあるのだと思う。対立や葛藤→解決という最もシンプルな物語であっても、その物語を動かしている「動き」である→の部分での工夫や展開の密度によって作品のクオリティがまったく変わってくる。その「動き」を能動的に読み取ることがアニメを観ることの一番の面白さなのだと思った。本文の文脈は完全に無視しているけど、まあいいや。

・『若きパルク』の冒頭(著者訳)

 

そこで泣いているのは誰、ひとすじの風でないとしたら、こんな時間に

ただ、あるのは究極のダイヤモンドだけ……いったい誰なの泣いているのは

こんなにもわたしのそばで、泣き出しそうなときに。

この手、わたしの顔に触れようと夢みながら、

ぼんやりと、何か深い目的にでも従っているのか、

この手は待っている、わたしの弱さから涙がひとしずく溶けて流れるのを。

そしてまた、私の運命からゆっくりと分かれ出てきた、

もっとも純粋なものが破れた心を黙々と照らしだしてくれるのを。

 

ここだけ読んだときずっとわたしのすぐ近くに幽霊がいるのだと思いこんでいたが、その後の解説を読むとそれは「勘違い」らしかった。ここで言われているのは私の二重化であり、いかにもヴァレリー的な主題らしい。ぼくはこの辺の常識を全く知らないから勝手に幽霊をつくりだしてしまったわけだけど、自分の「誤読」の方がおもしろいと思った。それで図書館で中井久夫訳のも読んでみたけど、こっちは幽霊が出にくかった。読みづらいし。最近気づいたけど、どうしても小説や詩のなかに幽霊が宿っていてほしいらしくて、『ビリジアン』(柴崎友香)を読んだときも勝手に語り手と愛子を幽霊認定してしまった。まあ、誰が何と言おうとあの小説に幽霊が出てしまっているというのは揺るがないけど。

・その他おもしろいと思ったところ(文脈不問)

《(『若きパルク』における)こうした代名詞の執拗な使用が不自然に思われないのは、そもそもこの詩においてはパルクが、睡眠と目覚めのあわいという非視覚的で身体感覚が流動的な状態に置かれていることも重要な要因となっている。この設定は他の詩にも頻繁に登場するヴァレリー好みのものである。本来ならば、睡眠と目覚めはそれぞれ互いに相容れない身体の状態、ヴァレリーの言葉を使えば二つの相容れない「相」である。しかしこれらは連続し混じりあうこともあるのであり、このあわいにおいて、私たちの身体はさまざまな状態を経巡る。このひとつの相から別の相への移行を、ヴァレリーは「転調」と呼ぶ。(…)転調はひとつの移行であるが、しかしそれはまったくの断絶ではなく連続性をも保っている。つまり「存在するが、他の特性が隠していたある特性のあらわれ」という、発見的で出来事的な性格を持つのである。》

《(注釈より)興味深いことに、「転調」は『若きパルク』を書くうえでヴァレリーが探求しようとしたひとつの形式的なテーマでもあった。「『若きパルク』は、音楽において《転調》と呼ばれているものに類するもので、詩において扱いうるものについての、文字通り際限ない探求であった」。つまり「詩においていかに調子を変化させるか」という形式的な探求と、「睡眠と目覚めのあわいにおける身体のさまざまな状態を記述する」という主題に関する探究とが、ヴァレリーにあっては同じ「転調」の問題として不可分なものになっているのである。》

《(ヴァレリーの言葉)マラルメはある点で革新を起こす。ランボーは他の点において。(…)ランボーでは視覚。マラルメでは音楽的な展開、すなわち運動の連節、コントラスト、詩句によって意味を区切るしかたの組み合わせ。それは結果として、まるでそれじたいによって作りだされ、それじたいで存在しているような詩句、非常に見分けやすく、ひとつづきの列の主要な部分を成し、平衡がなく、ひとつづきの列とその後の歌を呼び寄せるようなメロディないしメロディの端緒と同じくらい記憶するのに適している詩句を与えるのである。

 この方式を明確にするためには、歩幅と歩数の複雑な関係を思いだすこと。

 倒置、畳韻、組み合わされた明白な対象。

 マラルメの曖昧さは必然的結果であり、その詩句の構造の明晰さのために支払われねばならない代償である。》

《みずからの行為を「練習」とみなすこと、つまり自分の書いた語を、自分の実存と結びついた必然的な表現とはみなさないことは、逆に、偶然思いついた表現をあたかも自分で選んだ語であるかのように積極的に引き受けていくことにもつながる。偶然の語であったとしても、作詩をゲームと捉える以上、その語は自分の今後のゲームの展開を導く「問い」に他ならないからである。それはちょうど、カードゲームにおいて最初に配られたカードを自分のものとして引き受けるのと同様である。

 

心的偶然そのままに組み合わせるこの術

思いついたものを、在るものとして、最初の概算として、みなすこと

そしてある種の条件を維持すること——瞬間にまるごと身を委ねることを差し控えるような条件を

 

「瞬間にまるごと身を委ねることを差し控える」とは、先に見たように、置かれた語と自分の思考のあいだに距離を保ち、全面的には没入しないことを指すと考えられる。プレイヤーとして振る舞う限り、個人的な記憶と密接に結びついた語であろうと、反対に喚起力の弱い語であろうと、詩人はあらゆる語をただの駒として、自分から距離をとって扱う。偶然思いついた語であっても、それを一つの条件として、「在るもの」として引き受けなければならない。》

これは「引き受けなければならない」みたいな作家の意志の問題ではなくて、「引き受けてしまっている」という言い方の方が暑苦しくなくていいんじゃないか。

《つまり自我をそこから表現が取りだされるような「源泉」とみなして探求するのではなく、さまざまな問いに対してひたすら応答を返す。空虚な反射板のようなものとして用いたのである。反射板としての自我は、過去の記憶のような個人的な内実があるとしてもそれを括弧に入れ、完全に一般的・普遍的なものとして振る舞う。(…)すべての語を可能的にせよ等—差のものとして、駒として対等に扱うことは、自我をこのように抽象化することと相関的なのである。》

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1月20日

・バイトの帰りで京都河原町行きの電車に乗っていた。中学生に英語を教えていた。受験問題を解くのはとても疲れる。いまは夜の11時で、座席はそこそこに埋まっていた。両端に長い座席があってお互いに向き合うタイプの車内だった。同じ車両の遠くの方まで見えた。窓を見つめている人もスマホを見ている人も、夜遅くの電車にふさわしい感じで座っている。

・『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』の第二章を読んだ。何か書こうと思ったけどバイト終わりで疲れたから、また明日かくかも。

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1月19日

・午前中に『響け!ユーフォニアム2』の4、5話を観た。相変わらず至るところが素晴らしくて最初から最後まで揺さぶられっぱなし。先輩の吉川が立派な人物すぎて泣ける。どの場面も良いけど、とくに好きなのは5話の演奏前のシーンで、みぞれとのぞみがゆりゆりしいやり取りをしていて、それを見た久美子と麗奈が真似してイチャイチャし始めるシーン。こういうほんの少しの距離のとり方が表現を上品なものにするのだと思う。もちろんかなりヤバい関係なのだけど、麗奈の本命は滝先生であり、久美子は事なかれ主義で人間関係にのめり込むことはない(吉川なんかとは真逆で、久美子はむしろあすか先輩に近い)、という仕方で絶妙な距離をとっている。決してベタな百合展開には転がっていかず、極めて抑制的で上品なんだけどヤバいっていう関係の描き方がとてもすごい。これまで京アニはむしろ下品というか、製作側とオタクが共有している性癖に沿って、恥ずかしげもなく堂々と生産ー消費するという印象が強くあったけど、この作品でその印象は完全に塗り替えられた(まだ観てないけどおそらく『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』も「ユーフォ」路線ぽいし)。あと、5話のラストの結果発表で、今までだったら久美子よりも麗奈の方が感情を爆発させて(泣いて)喜び、久美子は全国出場という出来事に対して一応喜びながらも一定の距離を保つ、という感じだったはずが、今回は麗奈よりも久美子の方がボロボロと泣いていた。そこが本当に感動的で、久美子にもいろいろと変化があったんだなあと思って(成長とはまたちょっと違う)、しみじみとした。良すぎる。

・おニューのヘッドホンで聴いたら改めて良すぎて感動してしまった。

sora tob sakana flash

https://youtu.be/PKwQD0DO1JA

 

ロックの曲をピアノで演奏する動画がすごく良い。Rick Wakemanという人の動画。

Space Oddity

https://youtu.be/u4PxjNE7zv4

Help

https://youtu.be/ojQaOejYkhE

 

「ユーフォ」で聴いてからハマった。

ボロディン オペラ「イーゴリ公」より「韃靼人の踊り」

https://youtu.be/Uq984sKqokI

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1月18日

・午前中時間があったから、年始に買ってた蓮實重彦の新書『見るレッスン 映画史特別講義』をざっと読んだ。実は蓮實さんの本をちゃんと読むのははじめてだったのだけど、たくさん笑わせてもらった。勝手に嫌らしくていじわるな人なのかと思っていたけど、この本読む限りでは口は少し悪いけど話はおもしろくて、こういう先生高校とかにいたよなあって感じ。溝口健二を見ていないやつは反日だとかいうくだりとロメールとバザンを殺人リストに入れているというくだりはゲラゲラ笑った。最近、映画に対するモチベーションが全然なかったけど、この本を読んだら映画を見たくなってきた。そういう意味でいい刺激剤になった。

・それで前からずっと観たいと思っていて、ちょうど蓮實さんの本にも出てきた、三宅唱の『きみの鳥はうたえる』をamazon primeで観た。めちゃくちゃ良かった。まさに映画でしか成立し得ない貴重なものがそこにあるという感じ。すごく好き。良かったなぁ。

・昨日の山本浩貴と保坂和志トークを聴いてから、何故か『カンバーセイション・ピース』がとても読みたくなって、夕方に読みはじめた。あまりこういう長い小説を読んでいる場合ではない時期だけど、ゆっくりと少しずつ読む。この世界からいなくなった叔母や猫の匂いが、かつて住んでいた、そして今住んでいる家にかすかに残っていて、それが残っているかぎりそれらの存在も消えきっていないのではないか、というくだりで少しグッときた。たぶん昨日保坂さんの話を聴いたというのもあると思う。めっちゃ良い。

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1月17日

保坂和志×山本浩貴 「猫は思い通りにならない」 『猫がこなくなった』 刊行記念トークイベントを観た。保坂さんが50代後半くらいから、自分が子ども時代のことをこんなに覚えているのか、という感触、子ども時代が存在したという事実がよりリアルになってくるという話をしていた。20代、30代のときはむしろそういうことを忘れる時期だから、この感じを若い世代に伝えたい感じがある、と。そういうことを知っておくと、日常や世界に対して別の感触を持つことができるのではないかと。この話の流れで、猫と人間が同じリビングにいてもそれに対して違う関わり方をするように、60代の人と2、30代の人は違う世界を見ている、と言っていたのが印象的だった。保坂さんの言葉って、保坂さんが言うからこそ異様なリアリティが生じるときがある。同じ言葉でも、それを発する人の生や思考の蓄積、声やしぐさ、受け手のその人への信頼などのさまざまな条件によって全く違うふうに響く。言葉は生きものだってよく言われる比喩があるけど、たしかに言葉は決して固定的なものではなく、そのようなさまざまな条件によって異なる効果を生じさせる。それは保坂さんが言う(同じ人間なのだけれど)20代の人と60代の人は異なる時間の流れのなかにいる、ということと似ているんだと思う。『猫がこなくなった』でも出てくるクローンの問題と関連するけど、同じように見えるものでもその内に抱え込んでいるものはそれぞれに全く異なることがあり(山本さんがデュシャンの「極薄」概念の例で挙げていたように、大量生産品、例えばまったく同じ二本のボールペンであったとしても)、それが顕在化しない場合もあれば思わぬかたちで効果を発揮する場合がある。これは、文脈によってモノや言葉の意味が変化する、というのとはまたちょっと違うはずだ。とりあえずはこれだけ。またいつか思い出したように今日のトークについての話をするかもしれない。

・昨日の『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』に出てきた、「火をください」という語句の話もそうなのだけど、こういう話を読んだり聴いたりするとやっぱりデュシャンの作品が思い浮かぶ。

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・ついでと言ったらなんだけど、toi booksのチャンネルで放送された滝口悠生と大滝瓶太の対談を続けて聴いた。これもすごく良い対談だった。最初の方で人称や語りの問題および小説内の空間に対してどう視点を設定するかのなど、技術的なことについて結構話している。こういうナラティブの問題を作家が話すのって実は貴重なのではないかと思う。「書けなくなった時に読む本」という話題で大滝さんがパワーズの『ガラテイア2.2』、ケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』、ウルフ『灯台へ』、ガルシア=マルケスの『族長の秋』の4冊を挙げていた。書けないときは小説そのものへの不信感があるときだから、そういうときは小説というジャンルを信じることができた本に立ち返るという話をしていて、良いなと思った。

アーカイブはこれ

https://youtu.be/pXpL5ifnnWc

・対談を聴いて読みたい小説が一気に増えて、ほとんどAmazonでポチッてしまった。

滝口悠生『愛と人生』

フローベールボヴァリー夫人

円城塔『プロローグ』

横田創『落としもの』

大滝さんがおすすめしていたケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』も。

ボラーニョの『野生の探偵たち』も書いたかったけど高くて断念した。

・今日もたくさん写真を撮った。

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