2月3日

・『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(伊藤亜紗)、Ⅱ 時間「第一章 形式としての「現在」」より。この章は小説を書くときとかに普段から考えていることが上手く言語化されていて、とても読みやすかった。てきとうに引用。

ヴァレリーの時間論。相対性理論の簡単な解説とかをかじっていれば理解できるような内容。

≪さてヴァレリーは、この比較不可能であるという性質を、むしろ積極的な時間の本質としてとらえる。つまり、一方が他方によって表現されることのない無縁な二つの瞬間を、にもかかわらず含んでいることこそ時間の本質だと考えるのである。「時間は、わたしには、矛盾の可能性、互いに矛盾するものの接触可能性であるように思われる」。相互に相容れない二つの瞬間AとBも、時間のもとではひとつの変化によって結びついてしまうだろう。時間は同一でないものの同一性を運ぶ。(…)このように時間とは矛盾するものを接触させることであり、言い換えればすべてのものを結びつけ、包括するものである。≫

・「予期」(行為の組み立てと不意打ち)

≪予期とは、過去を手がかりに未来に起こりうる出来事を想定することであり、現在を過去と未来という二つの方向に結びつける契機である。わたしがいる地点はつねに「現在」であるが、わたしが予期を携える存在であるからこそ、現在はその前後に「過去」と「未来」を生み出す。「現在として選ばれた点は、つねにそれと関連する過去と未来を所有しているのである」。≫

≪(ヴァレリーからの引用)私たちのうちであれほど強力に作用するのは、出来事そのもの(それがどんなものであっても)では少しもなく、ーーたとえば、多かれ少なかれ隠された構築物の崩壊、実現せず打ち砕かれた「予期」である。多かれ少なかれ以前から存在し、深いものであったこれらの予期が、理解するにあたっての私たちの可能性やーー外界の事物や出来事の可能性を考慮するにあたっての私たちの可能性を、知らぬ間に修正しているのである。≫

≪もっとも、私たちは普段の生活の中において、こうした予期に伴う身体的な構築物の存在をつねに意識しているわけではない。(…)それはなかば習慣化した形で、私たちの世界との出会い方を調整している。つまり私たちは、意識的な予期なしに予期を行っているのである。そしてこの調整のおかげで、私たちは意識せずとも世界と円滑に出会うことができているのである。≫

≪普段は意識されないこうした構築物の存在が自覚されるのは、むしろ不意打ちのような、予期が外れる状況である。不意打ちにおいては、まさに「行為の機械」がやられる。そしてその破壊を通じて、実はそれらが組み立てられていたことを私たちは実感させられるのである。(…)予期されていたのと異なる出来事に出会うことは、世界と主体のあいだの「ずれ」に出会うことである。主体は不意に打たれた直後、すぐにこのずれに適応することはできない。それは「遅れ」の感覚である。遅れにおいて、主体は迷い、混乱し、ためらう。この迷いが二つの観念のあいだでの迷いとちがって強い抵抗感を伴うのは、それが身体的な分裂を伴うものだからである。予期が「行為の機械」という身体的な準備としてなされていたために、まずはこの無効になった「機械」を挽回しなければならない。再構成=適応はそのあとである。「不意打ちは存在しようとしているものを存在するものに結ぶ絆を襲う」。≫

≪この分裂は、過去と現在のあいだでのわたしの分裂でもある。(…)「遅れ」は、過去に結びつけられたわたしを断ち切り、現在を立て直すのにかかる時間である。「遅れ」を「一致」させるためには、まずこの準備されていた「行為の機械」の抵抗にあらがってそれを解消し、適切な行為の機械を新たに組み立てなければならない。≫

・わたしの状態によってつねに変化する出来事の価値。

≪意識されているか否かにかかわらず、覚醒している限り予期は常になされている。予期することは必ず、その出来事の生起に向けて身構えること、応答するための行為を身体的に準備することを伴っている。そしてこうした身構えが、私たちと外界の出会い方を大きく左右するのである。予期しだいでは、同じ出来事であったとしてもその価値はまったく別のものに変わってしまうだろう。ヴァレリーが重視するのは、出来事それじたいの価値ではない。あらかじめ予期によって状態づけられた私たちにとっての、その出来事の価値である。≫

≪主体の側の条件として、ヴァレリーは具体的には「個人の過去全体」と「瞬間的なつながり」をあげている。(…)むしろ、重視すべきは二つ目の条件、「瞬間的なつながり」の方であろう。これは一人の個人における時間的な偏差をつくりだすものである。たとえば文章を書いている人は、その語彙のなかですべての語が使えるようになっているわけではなく、その文章を書いている流れのなかで予期される語の範囲で言葉をつづっていきがちである。(…)文章を書いているなかでの予期の流れが、その主体のなかのつながりを瞬間瞬間で変化させ、それが観念の集まり方、動員することが可能なものを変化させるのである。≫

≪このように、予期は出来事の刺激としての価値を左右することを通じて、私たちが世界と出会う出会い方を規定する。しかも予期は一瞬ごとに複雑に変化していく。一瞬ごとに予期を修正して隠された構築物を変形させながら、人はそのつど準備を整えつつ外界と出会うのである。「個人によって可能なものは時によって異なるーー(…)同一の刺激であったとしても、その結果は時間Aと時間Pにおいて同一ではない」。≫

≪ちなみに、このように瞬間瞬間の現在のあり方を期待する身体的な準備を、ヴァレリーはしばしば「disposition」と呼ぶ。この語は、日本では「配置」「準備」「気分」「傾向」「能力」などさまざまな意味を持ち、(…)すなわちこの語は、「準備」することと「秩序」ないし「整えられていること」を同時に意味し、さらにそれが「使用しうる」という状態に通じる、ということを示しているのである。≫

≪感性は、「disposition」によって各瞬間にその状態を決められている。単なる五感の能力でないとすれば、ヴァレリーにとって「感性」とはどのようなものか。それは、私たちの身体を場として展開するさまざまな力のありようである。≫

・離隔(わたしと世界の出会いに伴う限定性)

≪離隔とは、「全体=自由」と「特殊=準備され、使用中となっているもの」とのあいだの緊張である。この緊張は、言い換えれば行為に参加しているものと、していないものの対比である。そしてこれこそ時間の感覚である。≫

≪つまり私たちは常に時間の感覚を持っているわけではないのである。この感じられなさは、私たちの行為の準備がうまくいっているかぎり、つまり予期が大きく外れることなく私たちが世界に適合できているかぎり続くだろう。私たちが時間を感じるのが「離隔」という形であることは、時間を感じるということが、そもそも主体におけるある種の不具合の兆候に他ならないことを証している。≫

≪私たちの現在は、常に予期と不意打ちをともに含んでいるものである。予期はだいたいほどほどに当たっており、しかし完全には当たっていない。重要なのは、その時の私たちにとって、この一致の部分が意味をもつか、それともずれの方が意味をもつかである。そのいずれに注目するかによって、私たちと世界の関係は、つまり私たちにとっての時間のあり方は、変わってくるだろう。≫

≪一致が意味を持つ典型的な事例は、「リズム」である。リズムは単なる反復とは違うが、しかし予期の成功こそが私たちをリズムの状態にする。そこにおいて、私たちの行為は法則化している。≫

≪反対にずれが意味をもつ場合は「持続」である。先に不意打ちのように世界が主体にとってすでに抵抗として現れている場合もあれば、むしろ主体が積極的に世界とのずれを見出し、世界に対抗する場合もある。≫

ヴァレリーにとって注意とは、ずれの発見であり、持続の創造なのである。そして結論を先取りするならば、詩は、この両方に関わる。つまり詩はリズムを持ちながら、かつ持続を創造するのである。≫

the band apart "free fall" PV

https://youtu.be/A2sZ4NcownU

・くつをかたちんぼで履いたまま外に出ていた。意図せずずれを生み出してしまった。

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