2月12日

・『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(伊藤亜紗)、Ⅱ 第二章 「抵抗としての「持続」ー注意をめぐって」より。

・注意の対象と注意のシステムの分離不可能性

≪この分離不可能性は、主体が非ー注意の状態とは異なるある「体勢」をとることによって実現されている。(…)ただ予期に従っただけの行為であったならその行為を実現するための諸機能の結合、すなわち「隠された構築物」の組み立ては、半ば自動的になされるだろう。しかし注意においては、諸機能は意志的に組み立てられる。諸機能にとって必要なのは、そうした意志による組み立てを受け入れるような「体勢」を整えておくことである。≫

・注意=持続の創造。言われてみれば、この日記も注意=持続を作り出すために書かれてるんだなあ、と思った。

≪非ー注意の状態における変化は、夢の状態を考えると分かりやすいが、不可逆である。起こった変化をもとにもどし、はじめの状態にかえることはできない。しかし注意においては、要素が保持されているために、変化をさかのぼることが可能である。(…)注意とは、「不可逆なものから可逆的なものへ移行する試み」なのである。≫

≪注意が持続の創造であるというのはこの意味においてである。「注意とは、明確なもののなかで延長し、連続させようとする努力である」。それは偶然的で無秩序な私たちの生のなかに、可逆変化が成り立つ特殊な時間領域を作り出す。(…)ヴァレリーにとって持続とはむしろ「自然な流れ(le cours natural)を宙づりにすること」である。そして詩とは、ひとつの持続の創造であるとヴァレリーは言う。装置としての詩が読者に「より完全な行為を要求する」とき、詩は読者をある持続のなかに巻き込んでいる。「詩的な≪領域≫の創造。〔それは〕持続の領域の創造〔である〕ー緊張と引力を備えた。斥力もまた〔備えた〕」。≫

・「主体」も「対象」も消滅する次元。作品?

≪認識がつぎつぎと更新されていったその果てにあるのは、「対象の変形」である、とヴァレリーは言う。じっさい、ドガの仕事のすばらしさを支えているのは、その注意深さゆえの現実からの解離である。それは、現実との出会いであるはずの注意が、その持続の果てに見せ始める、病的な様相というべきかもしれない。認識の対象と認識する主体が相互に呼び合うように更新されつづけるこの極限的な状況においては、「これらの事物がわたしの注意の関数なのか、それとも私の注意がこれらの事物の関数なのか、わたしは言うことさえできない」。対象と主体の分離不可能性という注意の本質が極まることによって、もはや「対象」も「主体」も消滅してしまうような次元があらわれるのである。≫

・『パパパ!』MV CRCK/LCKS(クラックラックス)。やば。

https://youtu.be/e3Wp_2X6nUo

・最近、歩いていると室外機ばかり目につくようになってしまった。どの建物でも収まりが悪くはみ出ている。

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