1月15日

・『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(伊藤亜紗)、「序ー創造後の創造」より引用。

これまでのヴァレリー研究史では、社会から閉ざされた創造行為としての「書くこと」(「自分に向かって言う」こと)の意義が強調されてきた。その大きな要因として『カイエ』がある。

≪『カイエ』は、「自分の形成作用」の記録たるその内容においても、また書き手の死によって中断されたというその形式においても、まさに壮大な「未完のエクリチュール」である。しかもそれは早朝の数時間という、いわば一日のうちでいちばん「非社会的」な時間に、孤独にこもった状態で書かれている。(…)しかしながら、その習慣の「異様さ」が「未完の作家」「書くことに没頭する作家」というイメージをヴァレリーに付与したことは想像に難くない。つまり、ヴァレリーは作品を世に発表することよりも創造のプロセスをこそ重視したのであり、そうであるならば、作品はまずもって創造行為の記録として読まれるべきだ、と考えられてきたのである。≫

≪しかし、われわれはあまりにも、ヴァレリーを「書くこと」に閉じ込めすぎたのではないか。確かに、何ができあがるのかもわからないまま無心に作ることは楽しいし、作ることの魔術的な側面や理知的な側面について考えをめぐらすこともまた魅力的だ。しかし、ヴァレリーにはもうひとつのプロジェクトがあった。ヴァレリーはかならずしも「創造に閉じこもる」ばかりの作家ではない。たしかに、出版に対して過剰なまでに慎重な態度を示すことがあったが、それは創造のプロセスに固執したからというより、詩を書くことそれが「作品」という社会的な存在になることのレベルの違いに意識的であったことの裏返しに他なるまい。作品が社会に流通して読者のもとにとどくという事実にヴァレリーはきわめて自覚的であったし、この事実について思考をめぐらした結果、自らの創造性を、この創造以降のプロセスに賭けていたようにさえ見える。別の言い方をすれば、ヴァレリーの創造行為は、書くという狭義の創造が終わったあとの過程をも含むと考えるべきではないのか。もちろんそれは作者の手のおよばない領域だ。しかし、手がおよばないからこそ可能であるような想像もあるのではないか。ヴァレリーの「もうひとつのプロジェクト」とは、そのような創造後の創造に関わるものだ。≫

≪このプロジェクトにおいては、作品とは「装置」であるとヴァレリーは語っている。そして、この装置の目的は、「身体的な諸機能を開拓すること」であるという。(…)さらにヴァレリーは、作品によって身体の諸機能を開拓することは、結局、身体を「解剖」することであると言う。身体解剖をモチーフにした作品ではない。作品がわれわれの身体を解剖するのだ。もちろん作品はわれわれを殺しはしない。内臓や骨が取り出されるのはもちろんない。作品は生きたままわれわれを解剖する。それはいったいいかなる解剖なのか、いかにして作品が身体を解剖するなどというのが可能なのか。これらの問いに答えることが、「芸術哲学」に課された任務である。≫

≪本書の構成はきわめてシンプルである。ヴァレリーの「芸術哲学」を明らかにするためにわれわれがとる方法は、ヴァレリーの「作品」論と「身体」論を接続させる、というものである。≫

・今日初めて聴いた曲。動画のなかにベーシストがいないのにめちゃくちゃカッコいいスラップベースが聴こえてくるからビックリした。

水中、それは苦しい「農業、校長、そして手品」

https://youtu.be/ozbgCyMdciU

・写真をいっぱい撮った。

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