2月2日

・必要があって『ボヴァリー夫人』(河出文庫)に入っている蓮實重彦の解説を読んでいた。この解説は冒頭の自習室のとらえどころのない空間についての記述に終始している。一般にレアリスムと言われる作家が、どうしてあのような不思議な空間を描いてしまったのか。フローベールの言葉。

≪ぼくにとって美しく思えるもの、ぼくの書きたいもの、それは何についても書かれたのではない小説。外に繋がるものが何もなく、地球が支えられなくても宙に浮かんでいるように、自分の文体の力によってのみ成り立っている小説、出来ることなら、ほとんど主題を持たないか少なくとも主題がほとんど目につかない小説です≫

≪ぼくが書きたいのは、生きているためには空気を呼吸するだけでいいように、ただ文章を書くだけでよい(とそんな言い方ができたらのことですが)、そのような作品です。≫

蓮實重彦の解説より引用。

≪ここでの問題は、書くことの「正当性」が見失われ、「ただ文章を書くだけでよい」ものとしての散文に作家が素肌で対峙しているという非ー歴史的ともいうべき歴史意識である。それは、典拠すべき「規範」が存在する「叙事詩」や「詩」と異なり、それを持たない「散文」は必然的に「文体の苦悩」を生きざるを得ず、ひたすら書くことを通して、また書くことによってしか書き終える瞬間は訪れず、しかも、書き終えることの「正当性」を保証するものは、「生きているためには空気を呼吸するだけでいいように、ただ文章を書くだけでよい」という体験でしかないという書くことの背理だといってよい。≫

ボヴァリー夫人』の冒頭で、レアリスムを基準とすれば下手な空間描写をあえて書き加えているのは、フローベールがこのときすでに「文体の苦悩」(正当性の不在)に直面していたからにほかならない、と。こうして見れば、やっぱりフローベールは歴史的に極めて重要な作家であって、近代という時代が含む二重性を抱え込んでいるように思う。捏造された正当性(規範)としてのレアリスムと、正当性を支える根拠ー無知の不在。近代以降、芸術は作品の正当性が保証され得ない不安と無縁ではいられず、絶えず回帰してくる疑心に対する防衛として、正当性ー規範が捏造される。文化における権威はそのような不安や疑心に対する防衛装置としても機能するが、どのような防衛手段も芸術家および民衆の不安や疑心にはいずれ敗北する運命にある(価値の不在、ニヒリズム)。だとしてもそんな歴史的法則とは無関係に、良い作品、ある作品を個人が良いと感じる感覚の質だけは疑いようもなく存在するのだし、それだけを信じて作品を観たり作ったり、それらについて考えたりしたい。

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