2月18日

・『西荻窪シネマ銀光座』、movie2『キャリー』(ブライアン・デ・パルマ)。最後の方までずっとふーん、って感じで見てたのだけど、ラストシーンで死んだ母親の顔の絵画的な美しさに衝撃を受けた。実写でこんな画面が成立してしまうのか…すげえ…。こういうハッとする瞬間が一瞬でもあると見て良かったなって思う。

・『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(伊藤亜紗)、Ⅱ 時間 第三章「行為の法則化ーリズムをめぐって」より。前章が作品の現実からのズレに関する議論、すなわち作品の現実に対する異化作用について、作品が主体にもたらす不安の側面の話だったのに対し、この章はその逆の作品が主体にもたらす心地よさ、現実とは別種の秩序に関する議論になっている。

・リズムと拍子の違い。拍子は同一のものの反復にかかわるが、リズムは方向を持ち、順序を持つ。その意味でリズムは変化を含んだ規則性である。

≪規則が変化を含んでいるとき、あるいは多様であるにもかかわらず規則性が見出されるとき、リズムが存在する。分割できないひとつづきの列を分割するのがリズムである。この「分割」はしたがって、主体の側の行為である。≫

・分割不可能な例、一斉射撃。一斉射撃においては多様性が過剰すぎる。完全なアナーキーな状態には主体が能動的に関わることができない。主体が作品と関係を結ぶためには必ずなんらかの秩序が必要である。

≪(ヴァレリーからの孫引き)好き勝手に撃つ一斉射撃を聴くとき、射撃手の多さと多様さは銃声の間隔の不規則さ、つまりほぼ連続性といってよいものによって推測される。相次ぐ二つの銃声のあいだに、媒介的行為のために用いられる、ここの人為的な間隙を挿入させることができないのである。≫

≪したがってこの乱射は、継起する銃声を予期することができないということによって特徴づけられる。(…)私たちは、出来事を知覚することと産出することを同一のこととして可能にするようなメカニズムを組み立てることができないのだ。リズムとはこの組み立てのことである。産出のメカニズムと知覚を同一なものにする(隠された)組み立てを見出すことが問題なのだ。≫

≪逆に間隙が等しい長さをもつならば、予期が可能になる。そして予期されたタイミングと次の銃声が一致するなら、つまりタイミングが合うなら、そこにリズムが存在することになる。間隙は単なる無音の時間ではない。引用にあるようにそれは「挿入」されるのであり、「人為的な間隙」であって、相次ぐ二つの銃声を「媒介」するという重要な役割を果たす。逆に言えば、主体によって適切に予期された間隙に媒介されることを通じてはじめて、まったく無関係であるのにまはずの音と音が関係づけられるのである。≫

・強迫は、自身が不在になることによって、主体を間隙の産出という能動性へと巻き込む。強迫それ自身は、産出ないし予期の正しさを示す解答のようなものにすぎない。そして、リズムにおいては行為は法則化し、人はなかば機械的な状態になる。

≪行為が法則化するということは、その行為が主体にとって「容易」になるということを意味する。強迫の「産出」をつぎつぎ連鎖させていくことは、行為のシステムの確立を促し、行為に伴う苦労を減少させる効果をもっている。(…)リズムが始まると、私たちは「使用しうる可感なエネルギーの保存の状態」へと変化し、「より確実に、より明瞭に、骨を折らずに生きる」ようになるのである。≫

≪リズムのこうした自発的自動的な展開は、その継起に「必然性」を感じさせる。時間のあり方を特殊なものにするのは、この必然性である。リズムが時間にもたらすのは、「継起的なものと同時的なものを介在させる直感」である。つまりリズムは、継起でありながら、継起するサイクル同士のあいだに密接な結びつきがあるため、ひとつのサイクルが常にそれ以前のサイクルの記憶や引き続くサイクルの予感とともにあり、あたかも同時に存在しているかのように感じられるのである。(…)こうしてリズムは主体のうちに行為のシステムを確立させることを通じて、継起的、同時的という時間にまつわる常識的な区別を混乱させてしまうのである。≫

≪さらに、必然性を伴うリズムの自発的自動的な運動の展開は、決められた継起の「方向」を感じさせるものである。「方向」は、すでに連繫された諸要素のなめらかなつながりとして示されるだけでなく、その延長に新しい要素を連繫させる「勢い」でもある。いったん方向が定まれば、「この方向に沿って引き続く諸要素が次々と触発されていく」のであり、「系列の萌芽」が活発に生み出されていく状態になる。≫

・形式が孕むリズム。作者ではなく形式が生み出す創造性。古典主義者として詩を作ること。規則は作品の流れに対して切断をもたらす。

ヴァレリーによれば、脚韻とは、「規則が思考に対して周期的に与える暴力」である。「脚韻のもつ規則上の策略が(決してあらかじめ考えられた計画ではないが)、意識のつくるさまざまな偶然の、素朴で絶え間ない連鎖を、約束によって体系的に再生産することを狙い、要するに、私たちの本来の連続にとってありそうもないことを思い起こさせる」。詩を作るないし読む精神のうちには、詩の文脈にしたがって、自然な観念の連合が形成されている。この観念の連合を、脚韻はいったん破壊し、その外に出るようにと強制するのである。私たちは「私たちの≪観念≫の外に連れ出」され、「≪観念≫の周囲にある無数なものに触れる」ように刺激される。この破壊と解放をもたらすがゆえに、脚韻は、観念の連合に対して不意打ちのような効果を持つ。もっとも、不意打ちといっても脚韻は規則の範囲内での不意打ちであり、主体を動揺させ混乱させるような種類のものではない。むしろそれは、硬化した予期をずらすこころよいものだろう。脚韻は、「私たちの精神の歩み」を逸らす、「きまぐれなカーブ」である。それはおおいに創造的なきまぐれである。「脚韻は(…)一群の観念、すなわち夢想だにしなかったような一群の組み合わせを生じさせるという魔力を持っている。人は、自身にまったくなじみの無い思考を作らされるのである」。第Ⅰ部で見たように、古典主義者として詩をつくることは形式の可能性を汲み尽くすという歴史的な営みに参加することに他ならないが、ヴァレリーの詩作は、まさに定型詩という形式の創造性を見出すための創作である。創造性を支配するのは、詩作ではなく形式のほうなのである。リズムの強制力はこの形式的創造力の別名に他ならない。≫

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