1月21日

・カメラのキタムラから写真が届いた。お弁当箱みたいな箱で届いた。現像されたものを見るとこんなに良い写真だったのかと驚く。

・せっかくなので卓上に並べてみた。写真と絵は定期的に入れ替える。

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・『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(伊藤亜紗)、「第二章 装置を作る」から面白いと思ったところをテキトーに引用する。

ラシーヌの古典悲劇について述べられているところをアニメ論として(も)読んだ。

 《登場人物がその個性によってではなく配置によって重要性をもつとき、物語において読み取るべきは、もはや彼らの心情のようなものではありえない。個々の場面は、人物たちの関係の構図を読解すべき「判じ絵」であり、その構図の変化こそ、物語を読みすすめる読者の関心を占めるものとなる。ラシーヌの作品を読む読者は、まさにチェス盤の傍らにいる観戦客のように、「駒」が織りなすゲームの展開を見守るのである。これは明らかに、描写的な文学もその一つである、登場人物を「要素」とするタイプの作品の享受とは異なる態度であろう。「わたしは《関係》を見る。あいだを、操作を——場面を、状態を見る」。》

アニメはここで言う登場人物を「要素」とするタイプの作品が多いが、一方でアニメを見るときも関係や構図、操作を見るという面が強い気がするし、そうやって観るほうがおもしろくなるというか。

《読者は人物に対して感情的な同一化をすることもないし、再現的・視覚的な興味を抱くわけでもない。人物は「操作されたもの」であり、読者の意識は、人物そのものではなくそれを動かす「操作」へと向かう。人物たちがどのように関係づけられ、そこからどのような全体の構図がうまれ、いかなるゲームがそこに展開されているか、「操作」を見る読者の意識には、「読み取る」という能動的な契機が含まれている。そして重要なのは、この読み取りが、静的なものではなく、諸力のおりなす構図の漸次的な変化というきわめて動的なものを相手にしているということである。》

アニメは古典悲劇と違って、再現的・視覚的な要素の力が強いため、観る者の意識は圧倒的な受動性に晒されるが、他方で観る者に対して「読み取る」という能動的行為の可能性を開いている。それは作品に登場する「キャラクター」が持つある性質によってもたらされる。

・古典悲劇/アニメのキャラクター論

《(ヴァレリーの分析)「古典主義の登場人物の心理は、ある一貫性、単純さ、分析的機能——、彼らを科学的にみれば、実は偽りで、ありえないが、美的には真実な存在にする法則をそなえている。人は彼らの存在を要約し、性格と役割を定義することができるし、欠かさずそうしてきた。そこにこそ、登場人物たちを抽象的で現実的でないものにするが、——しかし演劇的な意味では組み合わせ可能で、描くことが可能で、芸術的にはありうるものにする可能性がある。」》

ラシーヌの登場人物たちは、「存在を要約し性格と役割を定義することができる」。たとえば『フェードル』に登場するイポリットであれば、「アリシーを恋し、フェードルの権力のもとにあり、彼女によって求められ、しかも性の汚れを知らない男」といった具合に。(…)しかしヴァレリーのここでの強調点は、ラシーヌの登場人物の場合はそのような記述しつくせなさにあるのに対し、「駒」的な登場人物の場合には、その存在を記述しつくすことができる、確定記述の束によって代理させることができるのである。》

存在論的に見れば、先の断章にあるように、彼らは「科学的に見れば偽り」であり、「抽象的」で「非現実」な存在である。しかしヴァレリーによれば、その非現実性は組み合わせの妙味を引き出すための単純化であり、彼らを「美的には真実な存在にする」。彼らは「構図の変化」をダイナミックにするための、抽象的な「点」なのである。》 

アニメにおけるキャラクターの紋切り型にはある程度のメディウム的必然性があり、それ自体では必ずしも欠点ではない。問題になるのは個々のキャラクターの紋切り型というよりも、それぞれのキャラの《関係》やフォーメーションの操作、全体の構図の紋切り型の方だということになる。使い古されたキャラクターでも他のキャラとの関係や、それが全体のなかで占める位置によって面白くなることもあるし、また逆にどれだけ魅力的なキャラでも組み合わせによっては魅力が殺されてしまうことがある。

・「変換」によって新たに生じる抽象的な空間

ヴァレリーにとって古典主義悲劇とは、関係をとりだすために現実をまるごとディスクールに「変換」した結果に他ならない。ヴァレリーの好んだ比喩によれば、数理物理学が現象を数量と方程式に置き換えるように、古典主義演劇もまた人生を言語によって置き換えるという変換の操作によって成立している。》

《チェスに加えてここでは数理物理学とのアナロジーが導入されているが、いずれの場合でも問題は、古典主義演劇が、いかにしてそれじたい自立した一種の表記システムをつくりだしているか、という一点に向かっている。自律性は排他性を伴っている。古典主義演劇は現実を表象するのではなく、現実を並行的に置き換える。変数を限定することによって、数理物理学やチェス盤のような、現実とは別の閉じた空間を形成するのである。》

《ある人物のディスクールが状況の構図を変え、別の人物を動かす。(…)人物そのものではなく人物の向こう側にあるものをまなざす読者の関心が諸力のおりなす構図の漸次的な変化という「動き」に向けられていたことを思いだそう。このリズムは、状況の構図を読み解こうとする者にとって、対立や葛藤、反転やどんでん返しといった物語的運動そのものであり、チェスでいうところのゲームそのものである。》

優れたアニメにはまず第一にここでいう「動き」の面白さがあるのだと思う。対立や葛藤→解決という最もシンプルな物語であっても、その物語を動かしている「動き」である→の部分での工夫や展開の密度によって作品のクオリティがまったく変わってくる。その「動き」を能動的に読み取ることがアニメを観ることの一番の面白さなのだと思った。本文の文脈は完全に無視しているけど、まあいいや。

・『若きパルク』の冒頭(著者訳)

 

そこで泣いているのは誰、ひとすじの風でないとしたら、こんな時間に

ただ、あるのは究極のダイヤモンドだけ……いったい誰なの泣いているのは

こんなにもわたしのそばで、泣き出しそうなときに。

この手、わたしの顔に触れようと夢みながら、

ぼんやりと、何か深い目的にでも従っているのか、

この手は待っている、わたしの弱さから涙がひとしずく溶けて流れるのを。

そしてまた、私の運命からゆっくりと分かれ出てきた、

もっとも純粋なものが破れた心を黙々と照らしだしてくれるのを。

 

ここだけ読んだときずっとわたしのすぐ近くに幽霊がいるのだと思いこんでいたが、その後の解説を読むとそれは「勘違い」らしかった。ここで言われているのは私の二重化であり、いかにもヴァレリー的な主題らしい。ぼくはこの辺の常識を全く知らないから勝手に幽霊をつくりだしてしまったわけだけど、自分の「誤読」の方がおもしろいと思った。それで図書館で中井久夫訳のも読んでみたけど、こっちは幽霊が出にくかった。読みづらいし。最近気づいたけど、どうしても小説や詩のなかに幽霊が宿っていてほしいらしくて、『ビリジアン』(柴崎友香)を読んだときも勝手に語り手と愛子を幽霊認定してしまった。まあ、誰が何と言おうとあの小説に幽霊が出てしまっているというのは揺るがないけど。

・その他おもしろいと思ったところ(文脈不問)

《(『若きパルク』における)こうした代名詞の執拗な使用が不自然に思われないのは、そもそもこの詩においてはパルクが、睡眠と目覚めのあわいという非視覚的で身体感覚が流動的な状態に置かれていることも重要な要因となっている。この設定は他の詩にも頻繁に登場するヴァレリー好みのものである。本来ならば、睡眠と目覚めはそれぞれ互いに相容れない身体の状態、ヴァレリーの言葉を使えば二つの相容れない「相」である。しかしこれらは連続し混じりあうこともあるのであり、このあわいにおいて、私たちの身体はさまざまな状態を経巡る。このひとつの相から別の相への移行を、ヴァレリーは「転調」と呼ぶ。(…)転調はひとつの移行であるが、しかしそれはまったくの断絶ではなく連続性をも保っている。つまり「存在するが、他の特性が隠していたある特性のあらわれ」という、発見的で出来事的な性格を持つのである。》

《(注釈より)興味深いことに、「転調」は『若きパルク』を書くうえでヴァレリーが探求しようとしたひとつの形式的なテーマでもあった。「『若きパルク』は、音楽において《転調》と呼ばれているものに類するもので、詩において扱いうるものについての、文字通り際限ない探求であった」。つまり「詩においていかに調子を変化させるか」という形式的な探求と、「睡眠と目覚めのあわいにおける身体のさまざまな状態を記述する」という主題に関する探究とが、ヴァレリーにあっては同じ「転調」の問題として不可分なものになっているのである。》

《(ヴァレリーの言葉)マラルメはある点で革新を起こす。ランボーは他の点において。(…)ランボーでは視覚。マラルメでは音楽的な展開、すなわち運動の連節、コントラスト、詩句によって意味を区切るしかたの組み合わせ。それは結果として、まるでそれじたいによって作りだされ、それじたいで存在しているような詩句、非常に見分けやすく、ひとつづきの列の主要な部分を成し、平衡がなく、ひとつづきの列とその後の歌を呼び寄せるようなメロディないしメロディの端緒と同じくらい記憶するのに適している詩句を与えるのである。

 この方式を明確にするためには、歩幅と歩数の複雑な関係を思いだすこと。

 倒置、畳韻、組み合わされた明白な対象。

 マラルメの曖昧さは必然的結果であり、その詩句の構造の明晰さのために支払われねばならない代償である。》

《みずからの行為を「練習」とみなすこと、つまり自分の書いた語を、自分の実存と結びついた必然的な表現とはみなさないことは、逆に、偶然思いついた表現をあたかも自分で選んだ語であるかのように積極的に引き受けていくことにもつながる。偶然の語であったとしても、作詩をゲームと捉える以上、その語は自分の今後のゲームの展開を導く「問い」に他ならないからである。それはちょうど、カードゲームにおいて最初に配られたカードを自分のものとして引き受けるのと同様である。

 

心的偶然そのままに組み合わせるこの術

思いついたものを、在るものとして、最初の概算として、みなすこと

そしてある種の条件を維持すること——瞬間にまるごと身を委ねることを差し控えるような条件を

 

「瞬間にまるごと身を委ねることを差し控える」とは、先に見たように、置かれた語と自分の思考のあいだに距離を保ち、全面的には没入しないことを指すと考えられる。プレイヤーとして振る舞う限り、個人的な記憶と密接に結びついた語であろうと、反対に喚起力の弱い語であろうと、詩人はあらゆる語をただの駒として、自分から距離をとって扱う。偶然思いついた語であっても、それを一つの条件として、「在るもの」として引き受けなければならない。》

これは「引き受けなければならない」みたいな作家の意志の問題ではなくて、「引き受けてしまっている」という言い方の方が暑苦しくなくていいんじゃないか。

《つまり自我をそこから表現が取りだされるような「源泉」とみなして探求するのではなく、さまざまな問いに対してひたすら応答を返す。空虚な反射板のようなものとして用いたのである。反射板としての自我は、過去の記憶のような個人的な内実があるとしてもそれを括弧に入れ、完全に一般的・普遍的なものとして振る舞う。(…)すべての語を可能的にせよ等—差のものとして、駒として対等に扱うことは、自我をこのように抽象化することと相関的なのである。》

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