9月2日

久しぶりの更新。

 

朝、今日は9時前に起きた。部屋の窓から見えるマンションの屋上にはなぜか雑草のような植物が生えていて、雑草が傾く方向に雲が流れていくのが見えた。マンションと雲の背景には夏の朝の青色があった。

 

最近、映画ブームらしく1日に二、三本見ている。ものすごく今更かよって感じだけど、小津安二郎のことが気になっている。昨日、今日で『宗方姉妹』と『小早川家の春』を観た。図書館で観たので、ついでに蓮實重彦『監督 小津安二郎』と吉田喜重小津安二郎の反映画』を借りてきた。出町座で4日から『れいこいるか』(いまおかしんじ)が公開。この映画はもう一回観ようと思っている。

昨日、柴崎友香の小説原作の『寝ても覚めても』(濱口竜介)を観た。唐田えりかが演じる朝子が小説で出てきた朝子のイメージにガッチリとハマって、すばらしかった。前半に、亮平が外付けのマンションの階段から朝子を見下ろすシーンが3回くらいあるのだけど、3回目に雨が降ってきて、朝子が空を見上げたところで亮平の視線に気づくという一連のシークエンスがこの映画の中で1番良かった。

 

昨日、今日と満月がとても大きく見える。何度も立ち止まって見てしまった。歩道橋に登ってしばらく月を眺めた。その歩道橋は、渡りきるまで全部で23歩。

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7月23日

・最近、生きていてあんまり現実感がない。たぶんそれは一気に興味のあることが増えて、自分が(ある程度は)安住できるような足場で思考をすることを一旦放棄せざるを得なくなったのと関係していると思う。映画、アニメ、絵画、音楽、漫画とか、まだまだ自分の感覚が信頼できないような領域に足を踏み入れるのは怖いけど楽しい。最近、ようやく小説で自分の好みというかある程度地のある趣味判断ができてきたところなのだけど。それで、メディア・スペシフィックな問題を越えたところで思考して、小説を制作できるようになればと漠然と考えている。

・ここ数日は映画のことをいろいろ調べたり、DVDをレンタルしたりしている。

・古谷利裕さんの偽日記を読んでいるとセザンヌの絵が見たくなってきて、部屋で画集をみていたら、とても内側から何かが揺さぶられる感覚があって、いつか生で見てみたいなあと思った。古谷さんとあと保坂さんは制作について語っているとき、ほんとに素晴らしくて、とにかく何かを作るということに憑りつかれた人たちなんじゃないかと思う。古谷さんが作品をつくる、制作するというのは表現やコミュニケーション、思考の伝達には還元されない、「モノをつくることの目的はモノをつくることだ」ということを言っていてとても励まされた。何かを伝えるためにモノを作るのではなくて、孤立し、それ自体では閉じているモノをつくる。コミュニケーションの手段ではなく、ゴロっとした、異物のような何かをつくる。

7月12日

・1週間ぶりの日記になった。なんとなく書く気がしなくて、今日も別に書く気はしなかったけどそろそろ書かないと一生書かなくなると思ったから、書きはじめた。書こうと思えたのは、今日、柴崎友香の『きょうのできごと』を読んで、これはめちゃくちゃすばらしい小説だと思って、すばらしいと思ったのを書き残して記録しておかないといけないと思ったからだった。柴崎友香はじめての単行本なのだけど、最初からこんなにおもしろい小説が書けていたなんてビックリした。特に好きなのはけいとと中沢と豊野が駅のホームでじっとしているシーンと西山がシンメトリーなものをたくさん発生させるシーン(なにを言っているかわからないと思うけど)だった。

・日記書いていないあいだにゴダール『彼女について知っている二、三の事柄』、タルコフスキーノスタルジア』を見た。二つとも映画っていいなぁって思わせてくれる作品で、とてもよかった。あと、アニメの『響け!ユーフォニアム』を見はじめた。面白くなりそうで、これから続きを見る。

・最近面白い写真をたくさん撮ったのであげる

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7月3日

・今日は午前中で授業が終わって、昼ごはんが食べ終わったら映画を見ようと思っていたのだけどいざ映画を見ようとなると気が重くてなかなか見れなかった。大学の食堂のコーンとブロッコリーのバター和えというメニューがおいしくて、家でも作りたいと思うくらいで、毎日食べている。それで、映画は再生ボタンを押してしまえばあとは見るだけなのだけど、再生ボタンを押すまでにめっちゃ時間がかかる。

・昼から映画を見るのは止めて、見る気になるまで保坂和志『小説の誕生』を読んでたのだけど全然読むのが止められなくて、この章読み終わったら終わろうと思っていても次のページを見るとつづきが読みたくなってしまう。そんなこんなで結局夜の7時くらいまではずっと読んでいた。今日は雨ががっつり降ってて散歩にもランニングにも出かけられなくてずっと家に引きこもりっぱなしだった。『小説の誕生』を読んでいると、小島信夫をめちゃくちゃ読みたくなってきて、高いけど『寓話』を購入しようか迷っている。

・夜になってから『マイマイ新子と千年の魔法』(片淵須直)をDVDで見たのだけどめちゃくちゃよかった。見たばかりであまりちゃんとした感想は言えないのだけどとにかくよかった。一つだけ思いついたことを書き残しておくと、新子の振る舞いはそのまま現実における「作品」のそれなのではないか。新子は現在と過去の相が相互浸透する世界を空想によって直接生きるが、キイコは新子の存在を通して、千年前の時代にかろうじて触れることができること。そして新子自身は、厳しい現実の中ではとても弱い存在であること(物語の終盤で徐々にこの側面が強調される)。そんなことはおいといて、とにかくめちゃくちゃいい映画だった。

7月2日

・ひさしぶりにミスドのドーナツを食べた。ダブルチョコとイチゴリング。おいしかった。今日は鹿が見れなかった。ざんねん。

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・『トップをねらえ!』最終話まで見た。名作だなあって感じで今見ても全然おもしろかった。特殊相対性理論が生み出す世界観、いわゆるウラシマ効果を利用している。このアニメが重要なのは、世界に相対性理論が流通するようになっても結局ぼくらはニュートン力学的な世界しか経験できないからだと思う。特殊相対性理論によると同時性、という概念がフィクションによって成立しているのだけど、いずれにせよ日常の経験はわたしとあなたが同じ時間を共有している、という世界観の外に出ない。ぼくらは相対性理論的な感情や経験を、現実を形成している常識からある程度自由なフィクションの領域においてのみ経験できる。

・今日も保坂和志の『小説の誕生』を読んでいた。ひたすらおもしろい。感動してしまった文章があるので引用。

 アキちゃん、という保坂さんの知り合いのはなし。アキちゃんは川原を歩いているときに、まず長い竹の棒を拾って、それでまわりを突っつきながら歩く。次にハンカチを見つけると、「これをおれたちの旗にしよう。」と言って竹の先にハンカチを挟んで先頭を歩き始めた。が、二十メートルも歩かないうちにハンカチが落ちてしまう。アキちゃんは落ちたハンカチを棒でつんつんつついて「ダメだ、はさまんねえや。」といってそのまま行ってしまった。

≪ この、全体としてすべてがいい加減にできている光景が、いかにもアキちゃんらしくて私は事あるごとに思い出す。≫

≪あのときの光景と比べて、小説にはなんと常識にかなった意志が充満していることか!--しかし、この「常識」自体がそもそも、小説として描くのに都合のいい一貫性という意味であって、現実の人間はそんなに「常識」どおりではない。つまり、ここで私がつい書いてしまった「常識」という言葉自体が、現実の側でなくて虚構の側についていることになる。≫

≪アキちゃんはあのとき、存在が芸術だった。あのときのアキちゃんを思い出すと、気持ちがふだんと違う方に向かってパーッと開かれる感じがする。≫

ここを読んだときに、あまり使いたくないけど「わかる!!!」ってなってしまった。このわかるは共感っていうよりも、ぼくと保坂さんのあいだでたまたま一致するところがあった以上のことではないのだけど、たまたまそういうことが起こってしまうということが芸術の根底にあるのだと思う。

・今日聞いていた音楽のひとつ

kiki vivi lily「AM0:52(Sweet William Remix)」

https://youtu.be/L36Ac2F6spY




7月1日

・6月が終わって7月になった。日記をつけてていいなと思うのはひと月ごとにちゃんと時間が区切られるごと。4月くらいから別のところで日記を書いていたのだけど、月末くらいになると今月はだいたいこんな月だったなーって確認できるのがいいと思う。6月は夕方にたくさんきれいな景色が見れた月だった気がする。

・ぼくは夏になるとチョコミントと名のつくものはなんでも買いたくなってしまうのだけど、今日はこれ。

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・チョコミントは商品によってあんまり味のブレがなくて、どのチョコミント食べてもだいたいあ、チョコミントや、ってなる安心感がいいと思う。あと、バカ食いしてもチョコよりも罪悪感ない。チョコミントはチョコのカロリーをミントが冷却するのでカロリーは0。カロリーって熱量やし。

・今日も鹿がいた。

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・『トップをねらえ!』の3.4話を見た。DVDには1枚に二話ずつ収録されていて、1枚目に3.4話の次回予告もまとめて収録されている。これが思いがけない罠で3話を見ていない状況で4話の次回予告を見せられて盛大なネタバレをくらうという事故があった。全6話だから展開がとても早い。それで2枚目にも第5話の次回予告が収録されていたのだけど、今回は逆にまだ作ってないので未定でーす、みたいな次回予告で、こういうのが許されていた時代だったんだな、としみじみと思った。

・今日は午前中に久しぶりに本を読んだ。保坂和志の小説論三部作の二作目『小説の誕生』。つい熱中して読んでしまうから、『小説の自由』はすぐに読み終わってしまった。二作目も面白い。引用。

《芸術家は社会的に価値のある存在である必要はないが、社会の側から芸術家の存在意義を問うてきたら、返答は、社会の流れと別のことをしていることが芸術家の価値なのだ。》

このことと関連して、おとといくらいに現代詩手帖の7月号に載っていた鈴木一平(いぬのせなか座)「無症候性の形象」という文章を本屋で立ち読みした。コロナウイルスから表現における「無症状感染」を捉えなおす試みだったのだと思う。コロナ禍において、以前と一見変わらない表現活動を続けていたとしても、無症状感染という形での感染がありうる。そして、それはコロナ禍における表現活動という一時的な問題ではなく、表現活動においてつねに問題になることだと思う。

実は保坂さんも上の引用の後すぐに《というようなことが、しかし本当に可能なのか?》と留保を置いている。社会の流れとは別のことをする、ことばの見かけほど容易ではない。それは社会の圧力があるから言うのではなく(そういうことを言う人のことは無視していればいいだけの話だから)、まさに無症状感染としかいえない状態で表現行為に干渉してくる…ということをどう考えるか。

・今日フィロのスのメンバーの一人が弾き語りの配信をしてて、そこでやってた曲がよかった。ハロプロっていつまでもハロプロで超時間的ななにかだと思う。

youtu.be

 

6月30日

・今日提出までのレポートがたくさんあって昨日今日とそれに時間取られてたけど、とりあえずなんとかなった。明日からは借りてたDVD見る。kindleで漫画は読んでたのだけど。


三好銀『もう体脂肪率なんて知らない』を読んだ。三好銀の作品はどれもめちゃくちゃいいのでこれも当然めちゃくちゃよかった。ぼくがこれから何かの表現にかかわるときに、絶対影響を受けずにはいられないだろう作品たち。つい三好銀を小説でできないかなあ、とか考えてしまう。というか、6月に書いた小説も相当影響を受けている。漫画と小説は違うのだけど三好銀と似たところがあるなっておもうのはカフカ柴崎友香の『ビリジアン』や『ドリーマーズ』ともわりと読感は似ているかもしれない。直感的な類似だからそんなに信用出来ないけど。

・昨日、ヨギボーのバカでかいクッションを抱えながら自転車漕いでる人がいて、すげえなって思った。

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