2月26日

・実家にいると喉が渇いたらとりあえずビールを飲んでしまう。良くないな…。

・帰ってくる前に、図書館で『カフカのヴィジュアルな語り』(吉田眸)を借りてきていて、それをすこし読んだ。へー、とかなるほどとか思ったところを引用。第一章「『判決』の眼差しゲーム」より。

≪窓辺は放心にうってつけである。そもそも窓枠は近代的装置として外界と内界との根本的な不連続を分節した、つまりいわば風景と内面を同時に発見した。視線だけがぼんやりと窓外に向かうのは、屋内の孤独な内面性の重苦しさからおのずと逃れようとしているからだ。≫

これと、≪遠近法は恐怖や神話に打ち勝つべき啓蒙的性質のものである≫というのが出てくるのだけど、ここを読んだときに、古谷利裕さんの偽日記のアールブリュットについて書かれた記事を思い出した。前に読んだときは思い当たらなかったけど、あの記事でいう超越的なものは遠近法の成立と関わっている。それでもう一回読み直してみると前より書かれていることがだいぶわかるようになった気がする。(言及した記事はこちら→ https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20120807 )

 『判決』では少ない道具が多目的に使用される。

≪「権力の身体」が猛威をふるい始めるとき、息子としてはベッドが頼りとなる。(…)ベッドは、生じた問題を寝かしつける場なのである。

 だが突然、父は毛布をはねのけベッドの上に「直立した」。「生理的身体」を無視した「権力の身体」の力一杯のみ身ぶりなのであり、このとき、ベッドの水平的な機能が垂直的なものへと改変されて、裁きを下す「高み」となら変わる(空間は病室から法廷へと隠喩化される)。≫

・都市と芸術の応答体2020「RAUフェス2020-2021」の1日目の作品ビューイングをZOOMで視聴した。2日目もあるのでまた明日感想を書く(かも?)

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