2月25日

・帰省して、家族と焼き鳥屋に行った。親子丼を頼んだらセットのみそ汁を後ろからぶっかけられるというドラマチックなことが起こった。一張羅のコートが…。

・『季節のしっぽ』(武田花)、「夏」。相変わらず文章がすごい。写真もめちゃくちゃ良いし。このエッセイで語られる「母」が面白すぎて、武田百合子の文章も読んでみたくなる。

≪千葉の海岸で、いい景色を見つけた。白い石の山と、赤錆びた大きな機械がどどーんと転がっている埠頭。石や機械のてっぺんにカモメがいっぱいとまっている。夏、ぎんぎら太陽の下、こういう場所に立っているのは気持ちいい。機械を触ってみたら、熱したフライパンのよう。カモメはよく平気でとまっていられると思う。

 人が居ないのを見計らって写真を撮っていたら、「何を撮ってるんだね」後ろから作業服を着た男。「あっ、すみません。ここの景色です」。「こんなもの、面白いのかねえ。何がいいの?」。……ええと、例えば映画で、銀行強盗したばっかりのギャングがこういう所に車で乗り付けたりして、それでもって……なんて長々と話したって、わからないだろうし、くどい。

 花も紅葉もない、だけどいい景色について一言で説明してするのは難しいのだ。「なんか、夏って感じで、いいなあって思って。かっこいいような気もして……」なんていうしかない。≫

 京都〜姫路間の電車に乗って、たまにこの本のページをめくりながら、ずーっと車窓を眺めていると、車窓を2時間近く眺め続けるのはヨユーなのに、映画を見るというのはいまでも多くの場合苦痛をともなうということに思い当たった。それに、小説を読むよりエッセイや日記を読むほうがずっと好きだ。嘘っぽさがダメなんだろうか。でも、武田花の文章はエッセイという形式なのに、どことなく非現実的で小説の特権的な場面を読んでいるかのよう。小説のかったるいところを飛ばして、盛り上がる部分だけを取り出してきて集めたような本なのでとても贅沢。どうもこの「かったるさ」がアヤシイ。映画や小説にはどうしてもこの「かったるさ」がつきまとう。それでも車窓やエッセイ、日記などによって切り取られる現実とはまた別のものを求めてしまうのは、「作品」という近代的な概念をどこかで信じているからなんだろう。

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