2月6日

・imdkmさん主催のポプミ会(ポップ・ミュージック読書会)に参加した。文献は西村紗知「椎名林檎における母性の問題」(すばる2021年2月号)。椎名林檎は良い曲だなって思ってもどうしても素直に好きになれなかったけど、このテクストを読んでそのふわっとした印象がすこしかたちになった気がする。著者も椎名林檎に対して愛憎ある感じで、その屈折というか複雑さがテクストにも表れていて、それが論考をスリリングなものにしていると思った。

・『勝訴ストリップ』までの椎名林檎

≪最初のアルバム『無罪モラトリアム』は、若い女性の一人称視点の、いわば自分語りの音楽であったが、『勝訴ストリップ』では語る自分が「複数」であり「多重」である。声のサンプリングやエレクトロニクスの多用による効果であろうが、「別のもの」となるとは、あるいは「椎名林檎は複数になり、多重になり、わたしを、複数にし、多重にする」とはどういうことか。≫

≪最も歌が「別のもの」になっている<ストイシズム>は、主体が二元論的世界に無防備に身体を捧げた結果、解離をきたしてしまった、そういう作品に思えてならない。歌の解離は人間の解離によるもので、さらに解離はリスナーにまで仮想的に波及する。互いに「複数」「多重」になるのだ。ところで<ストイシズム>はアルバム中で、文字数のシンメトリー構造の点では<アイデンティティ>と対になる。この目の回るような自問自答と「複数」「多重」という解離は同じ出来事の表裏であると思う。<アイデンティティ>の歌詞に「此の先も現在も無いだけなのに…」とあるのに注目されたい。恒常的な記憶喪失が兆している。<ストイシズム>は<アイデンティティ>の別人格のように聞こえる。≫

・この椎名林檎の楽曲に、江藤淳吉行淳之介の小説に対する評の記述が重ね合わせられる。初期の椎名林檎には「母」(包含する力)と「父」(切り分ける力、すなわち善に悪を、物質に精神を、男に女を…を対置する力)が存在しない。

≪抹消的な感覚。視点を自由に操作することによる、ストーリーや主題の解体。文学と音楽では表現の手法をそのまま比較することはできないが、一つの統覚がばらばらになった事態として、吉行の表現は椎名の表現の参照先となりうるだろう。≫

≪確かに、<アイデンティティ>で自問自答の回路にはまった主体は(同じコード進行の繰り返しでサビはおおよそ事足りている!)、<ストイシズム>において、「あなた/きれい/すてき」などももはや貧しい言葉しか持たず、人間にとどまることができない。≫

≪椎名の方にも「父」と「母」がいない。いるのは、いつも違う恋人だけだ。

 つまり、内面化された権威もろとも、椎名は、そして彼女の音楽を聴く者は、解体してしまった。これは一興の快楽である。この作品を聴いている間だけ、リスナーは権威から自由でいられる。≫

しかし、『勝訴ストリップ』までの楽曲に存在していた「人間」からの自由、肯定的な解離性は「非常に危ういバランス感覚のもとに存在していた」ものであり、それまでの作品が必然的に抱え込まざるを得なかった「空虚」に、「母」が回帰してきたとき、母性原理はより強力に効力を発揮してしまう、と。

椎名林檎「ストイシズム(「勝訴ストリップ」より)」

https://youtu.be/dwz_EHH-kYs

f:id:moko0908:20210207001318j:image