11月3日

今日、休日でかなりひさしぶりに小説を読むことができてうれしかった。読んだのは保坂和志の『もうひとつの季節』(夏休みに読んだ『季節の記憶』のつづき)。普段の面倒な用事とかからいったん切り離されて、作品世界に入り込むこと、そのなかでゆったりとした時間を味わうことはとても幸福なことだと再確認した。久しぶりに読んだのが、保坂和志の小説でよかった。どうしても授業のある平日に小説を読む頭に切り替えることができない。夏休みが終わって授業が始まって以来、小説は何もしなくていい休日に読むものといつのまにかぼくの脳は認識してしまっている。

この作品は、『季節の記憶』とは作品内部での時間の流れ方がだいぶ違うのではないかと読みながら思っていた。それは連載という形式がもたらしている部分も多くあるのだろうけど、今作を読んでから前作のことを思い出してみると(とはいっても、前作を読んだのはだいぶ前だからかなりテキトーな所感)、前作は作品世界の地盤固めというか場づくりのところで終わっていて、そして今作は前作があることによって、前作よりも小説として「動いている」感じがある。いわば『季節の記憶』が地で『もうひとつの季節』が図である、というような。

この作品に限らず保坂和志の小説において最も重要なのは、作品のなかで時間が流れるというそのことなんだと思う。おそらく、一つ一つの場面の充実や豊かさなどにはそれほど興味はなくて、時間とともに形成されてくる共同性、思考のための地が彼にとって最も描かれるべきことなのだ。そして、ヴェンダースの映画のような停滞した時間の流れやそこで形成されるゆるやかな共同性は、「考えること」のために要請される。それらはすべて不可分なのであり、自然に発生するようなものではない。保坂的なゆるやかな共同性は彼特有のものであり、人工的で抽象性の高いものとなっている。そのことは次のような夕食のシーンに現れている。

《・・・イカ巻きやゴボウ巻きのような筒の中に何か入っているのと袋と卵だけを食べて、大人三人は息子にあれ食えこれ食えと言うのと並行して、食事の支度のあいだにしていた、僕にとっての「世界」や「時間」というものが、定義できないものという意味で、「死」と同じものなんじゃないかと松井さんが言ったということを美沙ちゃんに話したりしていたのだけれど、おでんというのは・・・》

このような空間はまさに作家である保坂和志によって人工的に形成されたものであり、現実にこのような場所に入ることのできる資質を持った人物は多くないだろう。実際、『季節の記憶』のナッちゃんのような人物は今作では完全に排除されていて、排他的な空間でもある。でも、おそらく保坂和志の小説をいくつも読んできているような読者は、保坂的「資質」をゆるく共有しているような人たちであり、彼らが話しているようなことをまるでその場にいるように聞いたり、それを読んで自分で考えることができるのだと思う。

久しぶりに小説を読んで感想を書いてみたのだけど、やはり「言語化」によっては、その作品に実際に触れているときの時間や気分をどうしても再現することはできない。それは作中の語り手が「世界がある」という感じを言語化できないのと同じだ。

《もちろん猫だって犬だってみんな僕がこの世界に生まれる前からいたのだけれど、普段見ている犬や猫はいままではみんな自分よりずっと年下で、自分より年下の犬や猫しか見たり触ったりしないということがあたり前すぎるほどあたり前になっていたところに、自分よりさきに生まれていた猫と自分が並んで写っているのを見て虚を突かれた、というようなことを言ってみても、僕があの写真を見たときの気分が人に伝わるとは思えないし、僕自身の気分が正しく言い表されているとも思えない。》

古谷利裕の『世界へと滲み出す脳——感覚の論理、イメージのみる夢』の「はじめに」で書かれていることでもある。

《ある作品から「何か」を感じたとしても、その「何か」を直接他者に示すことは出来ない。それどころか、その「何か」という感覚を自分自身でもう一度再現できるかどうかも分からない。もう一度同じ作品の前に立てば再び「何か」を感じることは出来るだろうが、その「何か」が前の「何か」と同じなのか違うのかを比較することは出来ない。しかし、にもかかわらず、ある作品から「何か」を感じ取ってしまったという事実は動かせないものとして残る。》

《・・・作品は時間をかけて(時間の内部で)観るしかないにもかかわらず、それは時間の外で把握されるしかない。その時、時間と空間は変形(歪形)されなければならないだろう。この本で問題にされる「イメージ」の経験とは、そのような困難のなかでのみあらわれるものだし、この本のモチーフは、そのような困難のなかでしか掴まれないものを掴もうとすることだ。》

「何か」を言語化するのは不可能(=「直接他者に示すことは出来ない」)にもかかわらず、それを書こうとするのは、自分の経験を正当化するためだけではなくて、「何か」を感じ取ったという事実に従って思考するため。このブログはそのためにある。