1月24日

・昨日の日記で『中二病でも恋がしたい!』について書いたことを自分で読み返してみると、そういえば横浜聡子の『ウルトラミラクルラブストーリー』も結構似ていることやっているな、と思い出した。あの映画では松山ケンイチ麻生久美子と恋愛するために、農薬を浴びることで無理やり自分の特異性(脳のおかしさ)を弱毒化しようとする。松山ケンイチは農薬を浴びたあとにのみ麻生久美子と普通に話すことができる。あの映画でも特異性と他者とつながること(その極としての恋愛)がトレードオフなものとして描かれる。「中二病」では立花が両方手に入れることができたが、七宮はやはり片方(恋愛)を捨てざるを得なかったし、『ウルトラミラクルラブストーリー』の松山ケンイチは自らの特異性を無理やり捨てようとした結果、農薬の浴びすぎで破滅にいたる。これらの物語がある種残酷なのはどちらも主体にとってのがれ難く、彼(女)らを捉えて離さないものであり、立花のように二つを同時に肯定するのでなければ、七宮のように「抑圧されたものの回帰」に強迫症的に悩まされ続けるか、松山ケンイチのように無理やり逃れようとして破滅に至るかのどちらかになるからだろう。そう考えると、「中二病」の二期である種の立花のネガとしての七宮を描いたのはすごい良かったと思う。一期だけでも十分完成度は高かったけど。ただ「中二病」はあくまでも作品としては最終的に立花は救われるが、アニメが完結したあとも立花の人生は続いていくと考えると少し怖いものがある。立花が中二病でなければならないのは父の死をめぐるトラウマが関わっているから、神経症的だと言えるけれど、松山ケンイチがおかしな振る舞いをするのは脳の特異性という即物的な要因であり、こちらは自閉症的と言える。神経症はドラマを要請するが、自閉症はそうではないため、物語上、前者は解決可能であり救いがあるが、後者がそうでないように見える。だけど、現実を考えたとき神経症的トラウマも下手したら一生ついて回るものだし、どちらの方が救いがあるとかは分からないよなーと思った。というか、一期の終わりでも二期の終わりでも、立花の父と中二病をめぐる問題は解決していないとも言える。立花の中二病は父の死の否認によって形成されているため、父を復活させることができない以上、立花が諦めない限り中二病であり続けなければならない。一応、一期の最終話で立花が父親に別れを告げることである種の解決にはなっているのだけど、立花が二期になっても中二病でいるのは、中二病であることが父親の形見(紐帯)として機能するからだろう。アニメシリーズの完結時点で立花がまだ中二病であるということは、トラウマの根本的解決はできぬままであるとも言えるのではないか。アニメがわざわざ現実の論理に付き合う必要はないし、それはそれで美しいのだけど、個人的には立花が「形見」としての中二病を喪失したあと(悲しいことだけど現実的にはそれは遅かれ早かれ訪れるだろう)、そのとき死んだ父親といかなる仕方で紐帯を保ち続けることができるのか、というところまで観てみたいな思う。中二病アニメである以上それは無理なのかもしれないし、アニメの中でくらい中二病であり続けることが許されていいはずだとも思うから迷うところだ。

ジャルジャルはほんとうにすごいと思う

リモート面接でたぶん寝転んでる奴

https://youtu.be/G9JlVSA7Vtc

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