12月24日

・ずっと爪切りが見当たらなくて、爪が伸び放題だったのだが、今日ようやく爪切りを見つけて爪を切ることができた。爪が伸びすぎてるせいか爪を切ったとき、爪があらぬ方向に飛んでいって大変だった。

 

・「クバへ/クバから」第3回座談会の1日目の放送を観た。h氏が過去の制作について自己言及する回。とてもおもしろかった(詳細は山本浩貴氏のTwitterに)。

「【symposium3】「『沖縄の風景』をめぐる7つの夜話」第1夜(12/21)「沖縄について書く、考えるために」(発表:h) いぬのせなか座

https://note.com/inunosenakaza/n/n06985b9500ad

 

h氏の「六月二一日」という小説の冒頭を読んだときはとても衝撃を受けた記憶がある。

≪透き通ったシロップのような女の人がいたので、足をかけると、うしろのスーツの男の人はわたしのくつのかかとを踏み、すみませんと雑踏にまぎれていうと、わたしは駅の階段をあがっています。時間は三ヶ月分の記憶がないわたしにもわかるくらいの日の長さで六月を告げています。どこかの外国の言葉で電話をしている女の人はいきなり立ち上がり、身振り手振りでなにかに怒っている。いつか見た映画の中のおんなのこは大人になり、電車の広告の中からこちらを気にしています。目のわるいわたしはあの子に会うたびに顔をすこしずつ忘れてしまい、一緒に行ったお祭りの屋台に並んだキャラクターのお面が邪魔をします。
「そんな顔じゃない」
あの子は怒りましたが、とてもよく似ている気がするのです。≫

h氏の過去の作品は、その形式によって三つに区分できる、と。

①敬体による児童文学的ないしは神話的な語り/非リアリズム

②ほぼ日記そのもの

③日記を素材にしたフィクショナルな散文

そして、「六月二一日」は①に属する。①の作品は神話や児童文学的な語りに影響されているそう。これらの作品は急に時空間のスケールが大きくなったり、論理の飛躍があり、急にすごい未来や古代に行ったりする。神話にはありえない時間の飛び方とか、ありえない因果関係とかをバンバン打ち出していくところがあって、それを自分の語りのリズムとしてインストールしていたと言っていた。①期の作品は詩のようなイメージの飛躍やおかしなロジックの構築があるのだけど、h氏によるとそれらにはちゃんと参照先があるらしい(h氏は自分は「本当のこと」しか書けないと言っているし)。あと、意外だったのがこの時期は物語がないといけないと思っていたらしい。

そして、現在h氏が書いているのは③の「日記を素材にしたフィクショナルな散文」で、この形式は①と②をつなぎ合わせたものだとも言えるかもしれない。①の神話的で、私性の低い語りと②の日記体の私性が強くあらざるを得ない語りの接合。その一例が「すべての少年」。これもすごい。『ビリジアン』みたいだ。

≪ 夏になる。梅雨がすぐにあけ、夏になった。雨が降ったかおぼえていない。
 夏になってしまってから、風がつよい。今日はあつい、つよい風の中に、ときどきつめたい風が混ざっている。

 先生と道で会う。表象の水平移動のはなしをされる。ステーキとフライドポテト。たがいに、いつのまにか切り離せない性格になっている。

 昔通っていた高校へいった。高校生のとき、毎日がどうでもよかった。高校になじめなかった。そのなかで、てきとうにやっている。ふたりの仲のよい友人のひとりが、学校へこなくなった。気色悪い先生が、おれは金髪が似合っているとおもうよ、と言った。友人と顔を見合わせて、吐きそうな顔をする。友人が舌を出す。先生が、金髪は校則違反だとおもうという。友人は学校をやめた。先生に荷物をもっていってあげなさいといわれる。

 友人とやっていたバンドを、ほかの友人とはじめた。友人が怒った。中学校のときのドラムをやっていた男の子は耳が悪かった。部活動のなかでいじめがある。二年生の女と男が、一年生の女をいじめていた。一年生の女はコントラバスをやめて、ユーフォニウムにうつる。先生たちも仲が悪い。

 バンドで何度かライブをした。練習のときには、いつもふざけている。ベースの女がすきだったバンドを24歳のときにすきになる。歌をうたっているひとが死んだ。ベースの女は頭がわるかった。しらない場所の短期大学にはいった。足がおそかった。

 昔通った高校で彼らの前に立ったとき、懐かしい気持ちになった。潮のにおいがする。海風が強く吹いてくる。先生が見張っていて、ときどき眠っている。彼らを床に座らせる。私は床に座った。それから、彼らを輪にする。彼らは短い映像を見せられる。怒っている理由をきく。だれもわからない。輪がばらばらになりはじめる。彼らの何人かの目が、まっすぐにこちらを向いている。≫

あと、h氏は「本当のこと」からどうフィクションを立ち上げるのか、ということが問題となったときに、自分の作品の特徴として、細密に描写をするとどうやらフィクションらしいものが立ち上がってくるということを言っていた。細密描写というのが一つの解決法。h氏の言う「本当のこと」という概念は普通とはちょっと違う使われ方をしている。事実として現実に起こったこと、と言う意味でもないし、私の感情や感覚とかでもない(私の感情や抽象的な考えは「本当のこと」性が低い、と言っていたのがとてもおもしろかった)。そのため、h氏は「本当のこと」を書くために人称を使わず、幽霊的というか場所の記憶のような語り手で書く(私性を完全に消すことはできない。いないけどいる私による語り)。

「座談会6 私らの距離とオブジェクトを再演する」のh氏の発言の引用。

「h 私、はもっと普遍的なものだから。例えば、日記では書かないし、神話でも私なんて使ってないでしょう。私がはいっちゃうと、私は自分自身になっちゃうけど、入っていなければ、神話とか民話みたいに、場所と結びついたり、時間と結びついたりして、特定の人間の特別な話じゃなくなれると思うんだけど。」