12月23日

・とてもおもしろかった。

いてもいなくてもよくなることについて:中森弘樹・福尾匠・黒嵜想鼎談 ひるにおきるさる

https://note.com/kurosoo/n/n25f57e2346e5

 

福尾匠の発言。小鷹研理による幽体離脱の議論や研究に近いものがあると思った。

≪ちょっと細かい議論になるかもしれないんですが、『眼がスクリーンになるとき』でもそうなっているように、僕が書いてるものなかで一貫して重要なことって、身体より先に知覚があると捉えていることなんですね。この、体あるいは「私」っていう中心があって、それが知覚を生み出しているんじゃなくて、まず知覚があって、それになかば無理やり引っ張られるようなかたちで身体みたいなものが出てくるという図式です。これは僕のなかで、たんに身体論とか知覚論とか抽象的なレベルの問題であるだけじゃなくて、すごく身近な問題としても考えていて。
たとえば、さっき言われたような、今日という一日や、いま目の前にあるものに集中するというのは、その言葉だけを取り出されると、たとえばマインドフルネスの話なんだとして受け取られかねないと思うんですよ。それこそ、ADHD的なものに対する行動療法とか、癒しとかっていうものの可能性として位置づけられる、マインドフルネス。いわゆる多動的なものとマインドフルネスって、それこそ「いる」と「する」が、結局その対立を温存して再生産するように、その図式自体から脱却する契機にはならない気がするんですよ。というのも、マインドフルネスって何をするのかというと、基本的には、自分の体への自覚なんですよ。一時期、寝る前にマインドフルネスのインストラクトをしてくれる音声が聴けるアプリを使ってたんですけど。ひたすら、身体部位の名前を読み上げられるわけです。≫

≪手のひら、手首、ひじ、肩、胸、脇腹、もも、ひざ、すね…… そういうふうに体を自覚することって、普段ないわけですよね。とくに多動的な社会においては。「する」ことが先立ってて、そこに体がどうついていってるかなんて、自覚する余裕はないわけですよ。だから、マインドフルネスによって、自分の身体がこうであるっていうことを自覚することによって、ある種の安心が得られて、よく眠れるし、多動的な人も落ち着くことができる。でも、それはやっぱり、多動的な社会と共犯関係にある。というのも、マインドフルネスっていうのはビジネスパーソンが効率よく明日も働くためのティップスとして称揚されてもいるわけですよね。
そこで、知覚のほうが先だ、というのを僕が重要に扱っているのは、身体にかえってくるというより、自分の体からどんどん出ていっちゃうっていうことが、まだ実感レベルの話でしかないけど、とても大事に思えるからなんです。べつの言いかたをすると、僕は「ぼおっとする」という言葉の意味を変えたいなと思ってるんです。ぼおっとするっていうのは、自分の体なり思いなしなりに自閉している状態として捉えられるのが一般的だと思うんですけど、僕はぼおっとするっていうのは、いま見ているもののほうに、自分がどんどんへばりついていっちゃうような状態として考えたいんですよね。たとえば僕は、電車とか、乗り物に乗るのが好きで、景色を見るのが好きなんですけど……≫

≪体を動かさずに自分の横を景色が流れていくだけで、本当にいてもいなくてもいいし、いるのかいないのかわかんないような感覚になるんですよね。たまにJRの電車って、在来線でもボックス席になってるやつがあるじゃないですか。自分の対面に誰かが座ってて、横を景色が流れていく。そのとき僕は窓際に座っていて、対面におじさんが座ってたんですよ。僕は進行方向に向いてて、おじさんは進行方向と逆を向いて座ってたんです。電車が動き始めて、なんとなくこうやってぼおっとおじさんを見るともなく見てると、自分が進行方向と逆に向かってるような気がしてくるんですよ。というのも、視線が跳ね返っちゃうんですよ、おじさんを見てると。
これはトリッキーな例だったけど、もっと素朴な例でいうと、リンゴの皮を包丁で剥いてるときとか、自分が回ってるのか、リンゴが回ってるのか、世界が回ってるのかわかんなくなるときがあると思うんですよ。それは、いま私がこういう身体であるということを、知覚のほうが越えちゃってる状態だと思う。とりあえず「なんか回ってる」っていう状態があって、そのあとから、身体とか対象とかっていうものが出てくる。気分にかえってくるという話も、単純にマインドフルネス的な身体回帰の話に回収されてしまうと、多動的な社会との共犯関係から、実際は逃れることができないんじゃないか。だから、僕はどっちかっていうと置き去りにされる体みたいなもののほうに興味がある。で、それはやっぱり「いなくなる」ということと、僕のなかでは強く結びついている。≫

 

・リオタールの『判断力批判』についての講義録が訳されたらしい

https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-01125-2.html

あと、これも読みたい

伊藤亜紗 ヴァレリー 芸術と身体の哲学 (講談社学術文庫)

https://www.amazon.co.jp/dp/4065223822/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&linkCode=sl1&tag=catch22-22&linkId=e60d3a5d1282475fef94da78b2fccc38&language=ja_JP