12月8日(「ナナフシ」「スウィンドル」『ビリジアン』)

・実家のある兵庫から京都に戻ってきた。先週の木曜日からだから1週間も経ってないけど、もっとすごく長い時間が経った気がする。

・電車の中で『ビリジアン』(柴崎友香)の続きを読んだ。まず、「ナナフシ」から。今までこの日記のなかで散々、現在のわたしのフレーム(「ここ」)と過去のフレーム(「そこ」)の二元論で話を進めてきたけど、この小説のわたしの語りはもっと複雑なものを含んでいる。「そこ」のわたしに起こっている出来事は、そのわたしにとってあくまで「今」起きていることなのだが、「そこ」のわたしはその時点からすでにその「今」からつねに一定の距離を取るような語りをする。「そこ」のわたしがすでに「そこ」の時間軸からズレ落ちてしまっている。「そこ」のわたしのなかにすでに「ここ」のわたしが含まれているような特殊な状態が実現するような語り、とも言えるかもしれない(「そこ」のわたしが早くから小説家になりたがっているというのも関係あるかも)。語られる出来事の空白の多さも、「そこ」のわたしの通常の時間の流れからのズレを感じさせる。 

≪「四時に集会室に集合してください」

 スピーカーから、先生の声が聞こえた。床は木で、古びて端が反っていた。

 

 夜は闇で、部屋の電気を消すと窓の外には何も見えなくなった。網戸の向こうから、虫の声が聞こえた。鳥か動物か、わからないけど管楽器と似た鳴き声もした。廊下の白い電灯が、磨りガラスの窓を通して差し込んでいた。巡回する先生の影が、ときどき天井に映っていた。

 

 とてもいい天気で、空は全部青かった。坂道を上っていくと、中学校があった。……≫(「ナナフシ」)

・この短編は基本的に不気味な雰囲気が漂っているけど、一番怖いのは次の段落の場面だと思う。

≪ 晩ごはんの前に集会室に集合して、全員で腹式呼吸の練習をした。毎年やっているから、退屈だった。吸って吐いてー、吸ってー、吐いてー。今はこんなに簡単な、退屈なことが、できないときがあった。春川さんにも高橋さんにも、ここで同時に吸ったり吐いたりしている人たちにとっては、いくら練習しても、そのときが来れば難しかった。吸うのも吐くのも。このまま死ぬのかも、と思っていた。黒い広がりが、すぐそばで口をあけていた。昼間いた入院中の男の子はいなくて、別の女の子が黙って本を読んでいた。≫

≪黒い広がりが、すぐそばで口をあけていた。≫という文がそもそもすごい不気味だけど、その一文の後に、重病の男の子がいなくなっているという情報が付け加えられて、より不穏になる。相当苦しんでいたとはいえ、その日のうちに死んでしまうということは考えにくいけど、あんな文のすぐ近くに書かれる男の子は気の毒だと思った。

最後のトイレの場面は、いままでとは少し趣向を変えてあえてベタなホラーをやっているように見える。「ピンク」などがホラーだと明示せずに、日常のなかに圧倒的な不穏さを忍び込ませるのに対し、「ナナフシ」はホラー回として堂々とホラーをやっている感じ。

・「スウィンドル」。この作品も冒頭がすごく良い。引用。

≪ わたしの街には川が流れていた。無数の自転車が沈んでいた。水が黒いから、沈んだ自転車は見えなかった。底からわいた気泡が弾けて、晴れた日でも小雨の日みたいな波紋が水面に絶え間なく浮かんでいた。

 川には賑やかな橋が架かっていた。戎橋という名前だった。通称で呼ぶ人もいたが、嫌いだから一度も言ったことはないし、ここにも書かない。

 戎橋。に向かって歩いていた。大黒橋のたもとには段ボールと元はなんだったかわからない細い鉄格子でできたハウスがあり、住人のおっちゃんが犬を飼っていた。犬は虎みたいな柄だった。何と何が混ざればああいう犬になるのか、教えてほしかった。鼻先の黒い痩せた犬はいつも鉄格子に前足を掛けて、外へ出ようとしていた。ゼブラ、と勝手に名前をつけていた。短い横断歩道を渡ると、ラブホテルの前で水撒きをしていたぼんやりとした顔のにいちゃんに水を掛けられた。クリーニング代、と言ってにいちゃんは千円くれた。千円札はなぜか新札だった。夏だったから、すぐに乾きそうだった。

 とても良い天気だった。午前中だから、人は少なかった。≫

二段落目の、≪戎橋という名前だった。≫という奇妙な文は、過去の現実(一)がフィクション(多)へと離陸していくときの感触が良く表現されている気がする。こんな変な文をピタッと説得力がある仕方で置けるのが柴崎さんのすごいところだと思う。次の段落もスゴイ。

≪ 御堂筋を渡って道頓堀に入るころには、青空があまりにも美しいし、夏の朝はさわやかだし、難波に来たのも楽しかったから、浮かれてなんでも輝いて見えた。解体命令を出されたまま使われ続けている古いビルの一階の洋服屋に並ぶ原色のTシャツも全色ほしいような気持ちになった。十七歳だったから、そういうことは度々あった。すべてが正しい気がした。≫

この段落の一、二文目と三文目のあいだには(二文目がそもそも超ヘンだ)、普通こんなすぐ近くに置くことができないくらい大きな断絶があるはず。こんな文章が成り立つのは、わたしがフレームの内と外を自在に移動できる形式があるこの小説ならではだろう。そして、レニー・クラヴィッツの登場。

≪ わたしの斜め後ろを、レニー・クラヴィッツがずっとついてきていた。キリンプラザを出たら橋の上にいて、わたしの顔を見ると頷いた。きっと他の映画も見ろっていうことなんだと思った。レニーは一言もしゃべらないで、代わりに鼻歌を歌って、体を揺らしながら歩いていた。……≫

気になったのは、レニーがいたのにもかかわらず、発見と同時にそのことが語られるのではなく、しばらく同級生と歩きながら話している場面が語られたあと、唐突に斜め後ろからずっとついてきていたことが語られる。これまでのミュージシャンの登場とはすこし違う。そしてもう一つ、わたしが急に言う「わたし、子どものとき車に轢かれたことあんねん」と言うセリフが本当に唐突でビックリした。たぶんこの短編のなかのなにかと関連づけるのは難しいけど、例えばわたしが幽霊になっている「ピンク」なんかのことを思い出すと、いろいろと想像が膨らむ。

 

・母の実家の近くの公園

f:id:moko0908:20201209004653j:image
f:id:moko0908:20201209004650j:image