〈自然〉の死と再生の物語(1)『もののけ姫』

目次

序章 はじめに

第1部 〈自然〉の死をめぐる逡巡——『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』論

第1章 死に至る〈自然〉の物語——『もののけ姫

                1-1 『風の谷のナウシカ』からの反転——回帰する「口」と神々の卑俗化

                1-2 再編される人間と自然の関係

                1-3 『平成狸合戦ぽんぽこ』との差異

第2章 消費社会と「ゴミ」——『千と千尋の神隠し

                2-1 『もののけ姫』以後の世界

                2-2 「口」を開く大人と閉じる子ども

                2-3 千尋バートルビー——拒食者の倫理

                2-4 「ゴミ」の不在と回帰

第2部 衰頽から再生へ——『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』論

第3章 衰頽に宿る可能性——『ハウルの動く城』(1)

                3-1 対照的な空間——ハウルとサリマンの城

                3-2 老いるソフィーと怪物になるハウル

                3-3  子どもと年寄り

                3-4 「ゴミ」を使った遊び

第4章 瓦礫と再生——『ハウルの動く城』(2)『崖の上のポニョ

                4-1 崩壊していく城と物語

                4-2 創造-崩壊-再生

                4-3 崩し―積み木的作品

                4-4 「あの世」で子どもと〈自然〉が再会する——『崖の上のポニョ

終章 おわりに

引用文献

要約

 

序章 はじめに

 

 本稿は宮崎駿による『もののけ姫』(1997)以降の作品を後期作品として位置づけ、それらの作品にみられる人間と自然の関係の根本的な変容を描き出す試みである。後期作品を扱うのは、前期作品(『風の谷のナウシカ』(1984)、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)など)についてはこれまでも多く、積極的に語られてきたのに対し、後期作品については説得力のある批評が相対的に乏しい状況にある、という問題意識からである。例えば、ラマール(2013)は、一貫した視点によって前期作品を総括するような論を展開しているが、後期作品についてはほとんど触れられていない[1]管見の限り、後期作品については各作品を別個に論じたものはあっても、それらを総括する視点を提供する論はいまだ存在しない。本稿は『もののけ姫』から『崖の上のポニョ』(2008)までの展開を一つの物語として、通史的な記述を試みるものである。

 

 杉田(2014,163頁)は『もののけ姫』を宮崎の「折り返し点」と位置づけ、前期と後期で変化した事柄の一つに「〈自然〉のどうにもならない変質を受け入れること」を挙げている。この「変質」とは、一つには人間の活動による汚染や環境破壊などの目に見える変化であるが、それ以上に人間と自然の関係の根本的な変容、すなわち人間の外部の価値を担保する理念としての〈自然〉の死を意味する。そして、『もののけ姫』に生じたこうした「変質」は現実に存在する「人新世」的な状況と類似するものである。フレソズとボヌイユ(2018,112頁)は人新世に関する共著の中で次のように述べる。

 

人新世の到来を公言することで、大文字の〈自然〉、すなわち人間に対し、完全に外部的なものとして見られていた自然の死を宣言することが可能になった。人為的自然、技術的自然、ラトゥールの言うハイブリッドでダイナミックな「ポスト自然」へと入り込み、人間はそこでようやく自身を当事者として認識するだろう。

 

  こうした〈自然〉の死、人間と自然の関係に決定的な地殻変動が起きたという認識は人文社会科学の言説においてすでに強く根付いている。例えばネグリとハート(2003,243頁)もまた、『〈帝国〉』という広く読まれた著書のなかで、自然の内部化について次のように記している。

 

なるほどたしかに私たちの世界のなかには相変わらず森やコオロギや雷雨が存在しているし、また私たちはいまなお自分たちの精神構造が自然的な本能と情念によって突き動かされていると理解しつづけてはいる。だが、自然の諸力の力と現象がもはや外部としては受け止められなくなっているという意味で、私たちはすでに自然をもってはいないのである。ポスト近代世界においてはすべての現象と力は人為的なものなのであり、つまりは一部の人々が言うように歴史に属するものなのだ。そこでは、内部と外部の近代的弁証法は度合いと強度、混成性と人為性の戯れに取って代わられているのである。

 

 本論稿は杉田の区分に従い、『もののけ姫』以降の作品を、こうした大文字の〈自然〉の死というパラダイムのもとにあるものとして扱う。元々、アニメーションが自然を描くとき、メディアの性質上、こうした技術的・人為的自然、「ポスト自然」といった問題系と関係をもつことは避けられない。清水(2021,9-10頁)はウォルト・ディズニーが自然や動物を愛し、ディズニー映画には動物たちが必要不可欠な存在である一方で、彼の世界からは「自然を徹底して抹消し、浄化した衛生思想」や「メディアテクノロジーと資本を通して、人間を中心に、動物、自然界との共存を企図していこうとする、人新世的な視座から未来像」を読み取れると述べる。このように、アニメーションというメディアが素朴に自然を再現するならば、〈自然〉の不在のもと、それを人間の理想の反映物に代理させるというまさしく「ポスト自然」の産物となるが、本論で詳述するように、後期宮崎はそうした「ポスト自然」的状況それ自体について思考しているのである。

 その他、本稿において特に重要な参考文献に限り、ここに記しておく。藤原(2019)が『分解の哲学』で展開した議論は本論全体の裏地となっている。この著作は、生産を基礎にした世界ではなく、「分解」という観点から世界を描き直そうと試みており、とりわけ、第二章で扱う作品にみられる、崩壊や破綻という現象それ自体に一定の意義を与えることができたのは藤原の「分解論」の枠組みのおかげである。また、本稿では作品内に現われる「ゴミ」に着目した読解が行われるが、宮崎作品と「ゴミ」の関係については小野(2016)、本稿で「ゴミ」に関する記述を行う際には、シルギー(1999)を参照した。

 

 本論稿は映画評論である。批評にはさまざまな方法論が存在するが、基本的には作品論であり、画面に映っているものを最も重要な分析対象として扱う。ただし、必要不可欠な場合にのみ、作家の発言や書いたものを取り上げることもあるため、作家論としての側面も排除しない。また、宮崎の後期作品を「ポスト自然」について思考する作品として位置づけている点で社会反映論でもある。そして、作品内の物語やモチーフの意義を説明するのに有効な場合には、過去の文学、芸術作品を取り上げ、比較文学的な手法を用いる。

 続いて、本論稿の課題であるがすでに述べたように、『もののけ姫』から『崖の上のポニョ』までの展開を総括することである。続く本論では、この展開を〈自然〉の喪失から「再生」までの物語として描くことになるであろう。そして、それ以上に重要なのは、各個作品の意義を説得的に論じるという課題である。というのは、特に第二章で扱う『ハウルの動く城』のラストや『崖の上のポニョ』は混乱や破綻が激しい作品とされ、多くの論者が扱いかねている。例えば、先行研究に挙げた杉田(2014,239頁)は『ハウルの動く城』(2004)について、「正直なところ、終盤の『ハウルの動く城』の物語には、何が起こっているのか、さっぱりわからない。ただ、ものすごいカオスばかりがそこにある」と述べる。そして、宮崎自身この作品を失敗作として位置づけている節があり、杉田(同前,243頁)もまた「全体として見れば、どう考えても『ハウルの動く城』は失敗作だろう」と述べている。しかし、本論稿では「折り返し点」以降の作品において、更なる転回点となった重要な作品として位置づける予定である。

 最後に、本論稿の構成についてであるが、第1部は『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』(2001)についての論考である。第1章では、『もののけ姫』を〈自然〉の死そのものを描いた作品として位置づけ、第2章では、次作の『千と千尋の神隠し』がそうした〈自然〉の死以後の、「ポスト自然」の世界を描いた作品であると論じる。つづく第2部では、『ハウルの動く城』をそうした喪失感から更なる折り返しをはかる重要な作品として位置づけ、『崖の上のポニョ』に〈自然〉の「再生」を読み取ることになる。最後に、終章では宮崎作品において人間と自然の関係がいかに変遷してきたかをまとめ、本論稿を締めくくるという内容になっている。

 

第1部 〈自然〉の死をめぐる逡巡——『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』論

 

第1章 死に至る〈自然〉の物語——『もののけ姫

 

1-1 『風の谷のナウシカ』からの反転——回帰する「口」と神々の卑俗化

 

 『もののけ姫』は以前に公開された『風の谷のナウシカ』(以下、『ナウシカ』)のことを否応なく想起させるような作品となっている。それは、文明と自然の衝突というテーマ、二分された人間の世界と自然の世界という設定が繰り返されているためである。しかし、似ているからこそ、明確な差異が浮かび上がる。例えば、物語終盤の乙事主たちの捨て身の突進は『ナウシカ』のラストの王蟲たちの暴走を想起させるが、王蟲が人間の技術力(火)をも圧倒する力だったのに対し、猪たちは人間の火力に蹂躙され、次々と殺されるだけだった。また、両作品とも絶滅に危機に瀕している陣営ほど醜く争い合い、状況をより悲惨なものへとしていく。『もののけ姫』でも人間同士の政治的な争いが描かれないわけではないが、作中でそれらはあくまでもおまけであり、山犬神たちが乙事主や猩々たちと言い争いをしている場面の方が目につく。『もののけ姫』の山の神たちはどうして危機的状況にもかかわらず人間のように言い争ってしまうのか。

 村瀬(2004,52-53頁)は「王蟲」のイメージの特徴は「口がない」ことであり、「口」のあたりから「黄色い触手」が伸びていることに着目している。「口がない」ことで封じられるのは「しゃべる」ことと「食べる」ことである。山の神たちが言い争うのは、まず一つに、王蟲には封じられていた「口」が再度「与えられた」からである。そして、ナウシカもまた王蟲と同様に「口」の働きを制限されており、そのことによってナウシカ王蟲は交信することができた。劇中でナウシカは「チコの実」を少ししか口にしない。村瀬(同前,57頁)の言うように、ナウシカは「食」というあり方を回避している。

 このように「口」に着目すると、ナウシカとサンもまた対照が際立つようになる。サンはナウシカと異なり、「口」を過剰なほど使用し、さまざまなものを「口」の中に入れるからである。山犬神の血を吸い、口の周りを血塗れにしているシーンはこの映画の宣伝ポスターにもなっているが、それ以外にもエボシとの一騎打ちのときには大きく口を開け、アシタカに止められた時にはその口でアシタカの腕を噛む。アシタカが飲み込めない干し肉を、サンは自らの口で咀嚼し、そのままアシタカに口移しする。サンもまた、ナウシカが避けていた「口」の使用を引き受けているのである。

 王蟲に「口がない」ことは、『ナウシカ』の自然界において大きな意味を持っていた。劇中では、腐海の生物が攻撃されると王蟲は怒って人間に仕返しに来るため、腐海の生き物たち全員が「仲間」であるかのような印象を受ける(村瀬,2004,60頁)。そのため、腐海という生態系においても存在していたであろう、「食物連鎖」や「弱肉強食」の世界が上手く隠されているのである。しかし、『もののけ姫』ではサンや山の神には「口」が戻ってきてしまったために、厄介な問題と向き合わなければならなくなる。一つは「食べる」ことであり、それによって山の神たちは「仲間」を殺して食べなければいけない。山犬はヤックルを食べていいかサンに尋ねる。王蟲とは異なり、自らの食欲を隠すことはない。サンが持っていた「干し肉」は森の動物を殺して得た肉である。もうひとつは「しゃべる」ことであり、それは山の神たちに深刻な「仲間割れ」をもたらした。

 このように、ナウシカ王蟲が「口」封じによって、現実的な問題を回避し、超俗化していたのに対し、『もののけ姫』ではサンや山の神たちに「口」を返し―与え、そして過剰なほど使用させることによって、自然からかつてあった神聖さをはぎ取り、卑俗なものとして描き直した。なぜ宮崎は、崇高でときには人間に畏怖を与える存在として描いてきた自然を、『もののけ姫』においてわざわざ『ナウシカ』を上書きするように描き直す必要があったのか。

 

1-2 再編される人間と自然の関係

 

 元々、『ナウシカ』的な人類を滅亡に追い込む自然は、冷戦期の想像力の産物であった。杉田(2014,160頁)は宮崎の言葉を引きつつ、次のように述べる。

 

一九八〇年代までは、まだ、「世界は終わる」という終末論的な未来観があった。日本は経済的にも文明的にも成長していくが、ある日「ドカーンとなにかがはじけて」、繁栄も文明も一気に滅びる。関東大震災がもう一度来て、東京が一面、焼け野原になったら、阿鼻叫喚でひどいことになるが、「どこかみんなそうなったらせいせいするだろうなという、願望」が自分の中には根深くあって、それを否定できなかった。「一種、終末観すら甘美だった」。

 

 『ナウシカ』において宮崎が人間の文明を滅ぼす役割を自然に与えることができたのは、自然が人間の「外部」に存在するということが自明の前提としてあったからである。このような想定が不可能になった地点こそ、『もののけ姫』の出発点となる。そして、宮崎が変質した自然を描く上で、同時に浮上してくるのがディズニー的なものと向き合うという課題である。清水(2021,9-10頁)が述べたように、ディズニーの世界は資本と技術によって自然を人間のコントロール下に、自然を「外部」から「内部」へと引き込み、「ポスト自然」の情景を描いてきた。アニメーションというメディアはそうした「第二の自然」を描くのに最も適したメディアとさえいえるだろう。

 『ナウシカ』は、そうしたメディアが持つ傾向性に反発し、ポスト〈自然〉でありながらも人間には決してコントロールできない自然、すなわち自然の「外部」性を維持したまま描く試みであったといえる。腐海に住む生き物には当然言葉が通じず、人間にとっては不可解であり、『ナウシカ』は自然ではなく人間のほうが矮小な存在なのだと画面を通して訴えかけてくる。

 一方、『もののけ姫』の森はそうした〈自然〉の偉大さ、崇高さをほとんど失っている。かつての人間を感性的・身体的に撥ね退けてしまう森は、観る者を癒し、とっつきやすい小綺麗な森へと変質する。そのなかに住む生き物たちも人間の言葉を話し、事実上人間のコントロール下におかれている。〈自然〉は人間の領域へと堕ちてしまったようである。

 こうした自然の変質は、文化や想像力の問題としてのみあるわけではない。現実にはさまざまな分野でそうした人間と自然の関係の再編が進みつつあったのである。フレソズ・ボヌイユ(2018,267-268頁)は「人新世」時代の自然について次のように述べる。

 

一九世紀初頭の工業的近代は、自然が経済と外的な関係を持つものであり、無尽蔵の倉庫を満たす動員可能な貯蓄物であるとみなす思想を構築した。だが、二〇世紀末の金融的且つポストモダン的、柔軟でネットワーク化した資本主義の新たな段階によって、このような第一の近代性の存在論には疑問が呈されたようだ。(…)地球の限界を不可視化する行為はもはやその外部化(人間による採取や廃棄を問題なく受け止める巨大な外部として)のみならず、その過度なまでの内部化によって完逐されるものとなった。このような内部化は生態系の機能を金融の流れと共約可能なものにしようとする働きに伴って生じ、自然をそのプロセスの隅々まで資本化できる流動的なものとして再解釈する。(傍点原著者)

 

 工業的近代由来の自然の上に金融的且つポストモダン的な自然が重なってゆく。自然は貨幣、あるいは新たなメディアや言語によって容易に「翻訳」できるようになった。ボヌイユとフレソズ(2018,268頁)によれば、こうした自然の市場への内部化は、「構築主義の哲学者たちが自然の人間に対する他者性を否定し、存在論的に解体したこと」や「近年の工学的な研究がゲノムから生態圏に至る地球システムすべての面に関わってきたこと」とも関係しているという。

 『ナウシカ』から『もののけ姫』への移行もまた、このような動向の後を追うものである。ただし、『もののけ姫』で描かれる自然はそうした「内部」へと還元できない剰余を依然維持している。最後にその点に関して、同じく人間と自然の関係を描いた高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)と比較しつつ確認する。

 

1-3 『平成狸合戦ぽんぽこ』との差異

 

 小野(2016,195頁)は、ジブリが自然愛好と呼ばれることに対して宮崎が反発するのには、根底に高畑勲監督による『おもひでぽろぽろ』(1991)と『平成狸合戦ぽんぽこ』(以下、『ぽんぽこ』)への否定的批評があると述べる。そして、二人を比較しながら、「宮崎の荒ぶる森に対して、高畑の森はどこか調和がとれて静かである」と語る(同前,198頁)。それでは、これらの印象は具体的にどのようにして現れてくるのか。『もののけ姫』と『ぽんぽこ』を比較して確認してみる。両作品とも人間と自然の闘争を描いているが、たしかに作品から受ける印象はまったく異なる。

 まず、第一に視点の違いがある。『ぽんぽこ』は視点を狸陣営に限定することで、開発の純粋な被害者として狸が描かれ、狸側に感情移入しやすいつくりになっている。それに対して、『もののけ姫』ではサンではなく、主に部外者あるいは浮気者のアシタカ視点で物語が進行するため、鑑賞者は単純にどちらかに肩入れすることができない。

 そして二つ目であるが、擬人法という表現手法の扱い方の差である。一言で擬人法と言っても、動物の描かれ方は全く異なる。『もののけ姫』も『ぽんぽこ』も、動物には言葉が与えられており、動物は人間の秩序の下に存在するが、『もののけ姫』のそれはかなり慎重に扱われている。西が宮沢賢治の童話に関して述べるように、擬人法は動物を人間の友として迎え入れることで支配下におくという両義性をもつ表現である(西,2004,28-44頁を参照)。擬人法もまた、「ポスト自然」における人間と自然の秩序の形成に一役買っている。

 この表現がもつ威力は『ぽんぽこ』の冒頭シーンがよく示してくれている。狸たちの住処であった里山の空き家がショベルカーによって破壊されるシーンから始まり、食糧難が原因で狸同士が二つの陣営に分かれてにらみ合う、といった緊張感のあるシーンが続く。しかし、実際の戦闘シーンになると一転、狸は四足歩行から二足歩行になり、幼くて可愛らしいネオテニー的キャラクターへと変身する。そのディズニー的、より広くは漫画的で親しみやすい狸への変身と同時に一気に緊張は緩和され、コミカルなシーンへと変貌する。その後、かわいらしい小動物のような狸たちが人間と同じように言葉を話し、食事をし、恋愛し、家族をつくるシーンをふんだんに描くことで、人間の同類としての狸たちが生存環境を奪われたり、命を落としたりするシーンで同情を誘いやすくなっている。

 『もののけ姫』ではどうか。先ほど確認したように、『ナウシカ』では、自然を神聖かつコントロール不可能な存在として描き、擬人法には禁欲的だった宮崎も『もののけ姫』では部分的に解禁し、自然を人間によって対象化、掌握された空間として描くことを許している。しかし、同じ擬人法的表現でも宮崎のそれはかなり慎重に使用されており、人の言葉を話しはしても、獣は獣であり、人間の領域に完全に引き込まれ、馴化(キャラクター化)されることはない。

 また、『もののけ姫』の森は人間と自然、その関係性のバリエーションが場面ごとに変奏され、重層的に重ね合わされている。エボシらの視点による森の資源化や技術を介したモノ化は自然の外部化、機械論的自然観による自然の「純化」によって可能になる一方で、山の神々に焦点があたるとき、人間/自然を「翻訳」する方法である擬人法、自然を内部化していくプロセスによって、動物たちが人間による植民地的な秩序のもとに存在していることを示している[2]。『もののけ姫』の森はそのような二重のプロセスによって自然が翻弄されてきた歴史を背負っているが、しかしそのいずれによっても掌握しきれない自然の剰余としてシシ神やコダマが形象化されているようである。

 自然を人間的空間として牧歌的に描く高畑と、人間/自然が横断する領域を設けつつも、決して割り切れない剰余を同時に描く宮崎。この高畑と宮崎の違いは、それぞれが人間と自然、どちらを軸に思考しているかの違いを表していると考えられる。高畑が示す方法は啓蒙主義的であり、共感の対象を動植物まで広げられるよう人間を教化することである。そのために高畑は『ぽんぽこ』において擬人法を効果的に利用している。しかし、宮崎の高畑に対する批判は環境/動物倫理の基礎に人間の自然に対する同情や共感を置くという点に対して向けられている。宮崎には、いかなるかたちであれ自然を人間の制御下に置くことに対する不信がある。

 しかし、宮崎が人間による自然への介入を一切認めないのかといえば全くそうではない。アシタカは物語のラストで、タタラ場で生きることを決断したからである。そのことは、作中でエボシが単なる悪人として描かれていないことからもわかる。森の神々からすれば極めて暴力的なエボシも、タタラ場で生活する人々、特に差別を受けていた女性やハンセン病患者からすれば善良なリーダーなのである。すなわち、『もののけ姫』が喚起するのは、人間による開発や火の利用は善か悪かといった二者択一の問いではない。むしろ、人間の自然に対する暴力、搾取はどの程度なら、またどのような理由なら許されるのかといった折衷的な問いである。

 高畑の『ぽんぽこ』にはこのような両義性は見られない。物語に限らず、歴史や思想が情報・メッセージの伝達効率を高めるには、『ナウシカ』で宮崎が腐海の生き物たちにそうしたように、現実的な複雑に絡み合った事情はなるべく等閑視する必要がある。しかし、『もののけ姫』で宮崎は人間も自然も複雑なものを複雑なまま、何が善で何が悪なのか判然としない世界を描いた。哲学者の樫村(2002,80頁)は、無神論的で善悪が限りなく相対化されていく現代をストア派的な連続性の時代であると規定し、次のように述べる。

 

だが、後期ストア派の論理的帰結にあるのは、世界への冷静な認識が進めば進むほど、現在ある世界と人間の姿が必然的なものとして理解され、その汚濁と愚鈍さを含めて、そのようなものとしてあるしかない、全体の因果的連関と現在に至る経緯が、頑固に自己主張し始める、ということである。世界を夢想するのでなく、現実に改良しようとすれば、世界全部を焼き払うのでない限り、変えられる部分は驚くほど僅かである。

 

 この樫村の記述は、宮崎の『ナウシカ』から『もののけ姫』への移行を、そしてこの作品におけるサンやアシタカの無力感、無理矢理拵えられた大団円では拭いきれない徒労感を要約的に説明している。すでに確認したように、「世界全部を焼き払う」という夢想は宮崎のなかにも存在しており、それは『ナウシカ』として結実していた。しかし、『ナウシカ』的自然は既に存在しないし、文明の終焉も決して訪れないということは宮崎にも明らかだった[3]。宮崎は根本的な人間と自然の関係の変化を感じ取っていた。それゆえに、宮崎はかつての〈自然〉に引導を渡し、「ポスト自然」の光景へと描き直さなければならなかった。ラストのシシ神をめぐる混乱からは、現実と自らの〈自然〉への信念とに引き裂かれた宮崎の苦悩を読み取れるだろう。

 

[1] ラマール(2013)の第Ⅰ部を参照.

[2]純化」と「翻訳」については、久保(2019)第四章を参照した.また、擬人法と植民地主義の関係については西(2004)を参照.

[3] 宮崎(1996,520頁)における宮崎駿の発言を参照.

 

引用文献

小野俊太郎(2016)『「里山」を宮崎駿で読み直す——森と人は共生できるのか』春秋社.

樫村晴香(2002)「ストア派アリストテレス・連続性の時代」『批評空間』Ⅲ-2,79-89頁.

久保明教(2019)『ブルーノ・ラトゥールの取説——アフターネットワーク論から存在様態探求へ』月曜社.

清水知子 (2021)『ディズニーと動物——王国の魔法をとく』筑摩書房.

杉田俊介(2014)『宮崎駿論』NHK出版.

西成彦(2004)『森のゲリラ』平凡社.

ネグリ,アントニオ,ハート,マイケル(2003)『<帝国>——グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲,酒井隆史,浜邦彦,吉田俊実訳,以文社.

藤原辰史(2019)『分解の哲学——腐敗と発酵をめぐる思考』青土社.

フレソズ,ジャン=バティスト,ボヌイユ,クリストフ(2018)『人新世とは何か——<地球と人類の時代>の思想史』野坂しおり訳,青土社.

宮崎駿(1996)『出発点〔1979~1996〕』徳間書店.

村瀬学(2004)『宮崎駿の「深み」へ』平凡社.

村瀬学(2015)『宮崎駿再考——『未来少年コナン』から『風立ちぬ』へ』平凡社.

ラマール,トーマス(2013)『アニメ・マシーン——グローバルメディアとしての日本アニメーション』藤木秀明監訳,大崎晴美訳,名古屋大学出版会.