〈自然〉の死と再生の物語(2)『千と千尋の神隠し』

第2章 消費社会と「ゴミ」——『千と千尋の神隠し

 

2-1『もののけ姫』以後の世界

 

 前節では、『もののけ姫』を『ナウシカ』的〈自然〉の不可能性の表れとして特徴づけた。自然はもはや人間的なものの外部としての価値を担保することができなくなっている。次作の『千と千尋の神隠し』(以下、『千と千尋』)もまた、そのような圏域にある作品である。この作品の舞台である湯屋には、八百万の神々が訪れる。これらの神々は「折り返し点」以前であれば、トトロのように<自然>の怪異、そして魅惑を体現するような生き物として存在していたはずであるが、すでに神々からはそのような性質は失われてしまっている。

 清水(2005,108頁)はジブリのモンスターたちを「現代日本の近代化の過程で次々とは喪失・廃絶されたもの——いわば近代化の剰余」とし、「私たちはこれらのモンスターの喪失により、市場の富に基づく現代的な生活/風景を手に入れた。しかし同時にいわゆる贈与の富の基づく計算不能で肯定的な交易を失った」と述べる。『千と千尋』における神々は、人間による自然の飼い馴らし、無菌化により働き場所を失い、純粋な消費者へと変質した。大文字の〈自然〉が不在の時代においては、八百万の神々には、「トトロのように贈与を与える仕事」がないのである(同前,109頁)。すなわち、『もののけ姫』と『千と千尋』はともに、『ナウシカ』や『となりのトトロ』(以下、『トトロ』)の不可能性という斥力を重要なモチーフとして採用している。

 

2-2 「口」を開く大人と閉じる子ども

 

 『もののけ姫』において「口」は自然を生きる神々を卑俗化させ、擬人法的秩序のもとに動物を引き入れるという重要な役割を果たしていた。同様に、『千と千尋』においても「口」は最も大きな役割を与えられている器官である。物語序盤、千尋とその両親は神々のために用意された料理に対して「口」を開くか否かが運命の分かれ目となる。両親はひっきりなしに食べ物を「口」に放り込んだ結果、そのまま豚へと変身してしまう。のちに再び触れるが、萩野家が迷い込んだ世界では、「この世界のものを食べないと」消えてしまうため、千尋はハクからもらった薬を飲み込んだ。カオナシはその巨大な「口」による凄まじい暴食と吐出のイメージが強烈な妖怪だが、カオナシは青蛙を丸呑みすることによって巨大な怪物へと変身する。千尋は「ニガダンゴ」という催吐薬のような効用を持つダンゴをハクやカオナシの「口」に入れ、呪いや変身を解く。

 このように列挙してみると、この物語において「口」が担う機能は大きく分けて二つあることがわかる。⑴消費社会における無尽蔵な欲望の象徴と⑵変身、呪い、怪物化(またその解除)の経由地である。こうしてみると、物語の最初に赤色のトンネル(「口」)のなかに萩野家が入っていく場面は、この時点で人間が神々によって食べられ、人間が人間でなくなることを象徴的に示している(加えて、千尋が車の中から見る石像、そしてなぜかトンネルの前にも立っている石像はみな不気味に「口」を開けている)。

 そして、本作の主人公である千尋は「口」に関して特筆すべき点がある。千尋はこれまでのジブリヒロインと比べると、突出してひ弱で何もできない「見るからにグズであまったれで泣き虫で頭の悪い小娘」である。このように「無能力」によって特徴づけられる千尋であるが、そのなかで、作中で唯一ポジティヴに作用する「無能力」が「口」を開くことができないという特徴である。

 作中で、千尋は幾度となくモノを差し出され、それを前に受け取るかどうかの選択(その多くは食べるかどうか)を迫られる。⑴両親に勧められる店の料理、⑵ハクが差しだした薬、⑶ハクがくれるおにぎり、⑷カオナシが差し出す大量の札、⑸リンがくれる饅頭、⑹カオナシが差し出す大量の金、⑺カオナシが差し出す料理と金。このように計7回、そのような場面があるが、両親に勧められた料理には強い調子で「いらない!」と言い、ハクがくれる食べ物には一度拒否してから受け取り、カオナシが差し出すモノは断固として受け取らない。千尋が差し出されたモノを素直に食べるのはリンがくれた饅頭だけである。千尋が食に関して何かトラウマがあるのかどうかは定かではないが、この拒食症的傾向がなければ萩野家が生還することは不可能だったことは確かである。

 また、ハクは千尋に薬を飲ませるとき、「この世界のものを食べないと、そなたは消えてしまう」と言う。これは、湯婆婆が統治する世界のルールの一つであるが、効率的に経済を回すために設けられた規則であろう。湯屋とその周辺の汎神論的世界においては消費者と生産者が格差によって分断されており(神々/それ以外の(非)生物)、すべてのモノがいずれかに配属されていなければならない。千尋が消えかけていたのは、両親から勧められた料理に対して「口」を開くことを渋ったために、この世界における存在資格を失っていたからである。千尋の固く閉じられた「口」が生産と消費のサイクルを滞らせるのに対し、千尋の両親はよく食べる分だけ神々(より豊かな生活を享受する消費者)のエサになり、利用価値があるため豚になりはしても存在を否定されることはない。消費社会において口-欲望は最も重要なエンジンであり、この世界におけるタブーは与えられた料理を食べることではなく、むしろ食べないことなのである。

 

3-3 千尋バートルビー——拒食者の倫理

 

 アメリカの小説家ハーマン・メルヴィルの短編「バートルビー」(“Bartleby”,1853年)の主人公は、口-欲望の機能不全という点で千尋と共通点をもつ。バートルビーは最初、与えられた筆耕の業務を機械的に桁外れの量の仕事をこなす反面、それ以外のことはどんな些細な頼み事も“I would prefer not to”とだけ返答し、決して動こうとしない人物として描かれる。この時点ですでにかなり奇妙だが、あるときから筆耕の業務すらも拒むようになってしまう。雇い主である語り手は金を渡してでもバートルビーを追い出そうとするが、一向に出ていこうとしない。結局、語り手は事務所を移転するが、それでもバートルビーはそこに居続け、ついには留置所に収監される。最終的にバートルビーはそこで食事すらも拒み、餓死する。

 自らを穏やかな人間であると自認する語り手は、バートルビーとコミュニケーションを取ろうとしては跳ね返され、苛立ちを重ねる。自らの良心が通用しない、理解不能な相手だとわかると、金を用いた説得も試みるが、バートルビーにはそれも通用しない。この小説における、語り手がバートルビーという人間を前に直面した困難は、カオナシ千尋の関係においてもそのまま当てはまる。「バートルビー」の語り手は、資本主義的な生活のなかで金が相手を懐柔するための強力な手段であることを知っていたが、カオナシ湯屋への潜伏という短い経験のなかでそのことを学んでいた。金を持っていれば、食欲も承認欲求もどうにかなり、大量の人間を動員できる。しかし、それはあくまでも口元のゆるい大多数の人間だけであり、バートルビー千尋のような口-欲望が「欠損」した相手をコントロールするのは至難の業である[1]。だからこそ、カオナシは何を渡しても拒否する千尋に対して「千ほしい、千ほしい」「ほしがれ」「取れっ、取れっ」と迫るほかなかったのである。

 バートルビーの「人間」離れした「狂気」に資本主義をラディカルに批判する倫理性を見出そうとする論者は少なくない[2]。たしかに、資本主義的な論理や欲望を頑なに拒絶して餓死したバートルビーと比べてしまえば、たいていの人間は卑俗で凡庸に映るが、彼ほど極端でなくとも千尋は充分に倫理的である。千尋の両親やカオナシが「金を払ったら払った分だけ食べても良い」という資本主義下では不可侵の論理で暴食を犯す一方、千尋はそのような法とはまったく無関係に、「何を食べ、何を食べるべきでないか」という問いに直面している。すでに確認したように千尋はむやみに食を拒否するわけではなく、ハクが純粋な善意でくれたおにぎりはいったん拒否しつつも食べ、リンがくれた饅頭は素直に受け取るようになっている。そして、少なくともこの映画のなかでは、両親やカオナシに勧められる動物性の食品を拒否する菜食主義者である。またそうした千尋の判断は、ありふれた食べものは食べたがらない割に、得体の知れない苔を固めたようなダンゴは齧るといった子どもらしい可笑しさをも含んでいるが、それもこれらすべてが千尋の内的な固有の判断の結果であったことの証左である。

 

4-4 「ゴミ」の不在と回帰

 

 『千と千尋』には、湯屋のような場所で必ず発生し、本来なら悩みの種にはずの物質が描かれていない。生産と消費のプロセスの加速が発生させる、大量の廃棄物である。湯屋のなかではそれら「ゴミ」の存在は隠蔽され、清潔な空間を装っているが、その代わりにこの建物のなかにはさまざまな「汚物」が侵入してくる。一つ目の「汚物」は千尋であり、従業員に「あたしらのとこへはよこさないどくれ」「ヒトくさくてかなわんわ」といった言葉を吐かれ、蔑まれることになる。

 次にやってくる「汚物」は大量のヘドロを纏ったオクサレ神であり、同じ「汚物」である千尋は対応を命じられる。オクサレ神は白米を瞬時に腐らせるほどの腐敗力をもったヘドロを湯屋のなかにまき散らしていく。しかし、千尋がオクサレ神のなかから自転車のハンドルが飛び出しているのを見つけたことで、湯婆婆はオクサレ神が実は名のある川の主であることに気づく。自転車のハンドルを引っ張ると、オクサレ神のなかからは大量の「ゴミ」が出現する(図1)。

 

図1 オクサレ神の体内から出現した「ゴミ」

 

 川の主がオクサレ神になってしまっていたのは、人間が川に捨てた「ゴミ」が原因であるといえるが、同時に湯屋=消費社会が普段見ないようにしている大量の廃棄物の回帰でもある。これらの廃棄物は<自然>の治癒力や分解力を超えてしまったために地球上に「ゴミ」として堆積していく物質である(小野(2016,46-47頁)を参照)。

 最後に侵入してくる「汚物」は、カオナシである。カオナシは金を生成することのできる妖怪であり、その金で暴飲暴食を繰り返す。千尋との面会時に、口から唾液のようなものを垂らし、すこし気持ち悪そうにしているのは、短時間での大量の飲み食いによる急性消化不良症のように見える。そして、千尋がオクサレ神との一件で手に入れた「ニガダンゴ」を飲ませたことで、今度は飲み食いしたものを一気に吐き出し始める。カオナシの吐物によって、またしても湯屋は「汚物」塗れになってしまうのだ。湯屋は暴飲暴食をくりかえしたカオナシによる吐出物によってふたたびヘドロ塗れにされる(図2)。

 これらのシーンで不思議なのは、カオナシに捕食された青蛙や湯屋の従業員が、カオナシの体内で全く消化されず、そのままの姿で吐き出されることである。カオナシは「口」は大きく、無尽蔵に食べものを吸い込むことができるにもかかわらず、消化はそれほど上手ではない。オクサレ神とカオナシのシーンは、それぞれ土と内臓という環境を変えた、モノの過剰による分解の機能不全という同じ表現である。この映画では、自然の分解力を超えて「ゴミ」を発生させることと、人間が本来の必要分を超えて暴食を繰り返すことが同じレベルで、消費社会の問題として描かれている。

 

図2 カオナシの吐出シーン

 

 『千と千尋』では暴走気味の生産と消費が目を見張るからこそ、モノの分解の(不在ではなく)困難さが注目すべき要素となる。ここにもまた、〈自然〉の死といったテーマを見出すことができる。〈自然〉の分解力を超えたモノが爆発的に増えると同時に、土で覆われた地球がコンクリートに塗り替わることで〈自然〉は分解力、腐敗力を弱らせてきた(『耳をすませば』(1995)における「コンクリートロード」の替え歌を想起されたい)。

 この作品の冒頭は、都心から郊外への引っ越しという昭和三〇年代を舞台にした『トトロ』と全く同じ展開であるが、オート三輪に乗って引っ越してきた草壁一家が住むことになる建物は木造家屋なのに対し、千尋の家族が最初にたどり着くトンネルは、千尋の父親によれば「モルタル製」で「けっこう新しい建物」らしく、郊外にも厄介な「ゴミ」である建物が蔓延したことがわかる。小野(2016,44頁)は『ナウシカ』が提起する問いに「人間と人間が築き上げた文明は、地球全体から見て不要で捨てられ処分されるべき「ゴミ」なのか、という問い」を挙げているが、この作品においても同じことが問われているといえる。アシタカに森ではなく、タタラ場で暮らしていく決意をさせた以上、ますます避けられない問いだからだ。

 湯婆婆の手下の頭が瀕死状態になり用済みになったハクを処分しようとする場面が、この作品における唯一の「ゴミ」処理のシーンであるが、そこは黒い多数の巨大な生命体が蠢いている不気味な場であり、その生き物たちが湯屋の過剰な生産と消費の最終処理を一挙に引き受けているのだと考えられる。ここで宮崎は、腐海のシステムを流用している。『ナウシカ』の舞台は「錆とセラミック片におおわれた荒れた大地」であり、「ゴミ」で覆われた地球を無理やり「循環」の輪に組み込みなおし、「持続可能」なものにするシステムが腐海だった(漫画版では、その腐海も人工的なシステムだったことが発覚し、「人新世」における文明=自然の未来についての一つのシナリオを提起している)。この作品の湯屋もまた、生産と消費のサイクルを滞りなく回すため、いわば超-分解者である生命体を再度召喚しているのである。

 作品のラストでは、ハクもまた、オクサレ神と同様「ゴミ」の被害者だったことが発覚する。ハクの正体は、マンション建設のために埋め立てられたコハク川であり、人間が〈自然〉を「ゴミ」によって上書きすることによって、居場所を失っていた存在であった。そのように「ゴミ」に埋もれ、忘れられていた景観の名、そしてかつての〈自然〉の風景を千尋が思いだすことで、ハクの呪いが解けるシーンがこの映画のクライマックスとなる。

 このように、この映画は直接人間と自然の関係をテーマにしているわけではないが、さまざまな形で〈自然〉の死と「ゴミ」問題が流れ込んできている。そして、アシタカやエボシが最後まで火-技術を捨てようとしなかった以上、オクサレ神やハクたちのような「ゴミ」の被害者が出てくるのは必然である。この作品は『もののけ姫』という作品があるからこそ、単なる一方的な文明批判として読むことはできない。もしそうなのだとしたら、アシタカはサンとともに森で暮らし、宮崎は引退宣言通りアニメーションを作るのを止めるべきだったはずである。『もののけ姫』と『千と千尋』はセットで読まれるべき作品群であり、この時期の作品から読み取れるのは、人間と自然の関係の後戻りできない根本的な変化に対して、肯定も否定もできずに戸惑い、揺らぎつつも何とか変化に応答しようとする作家の苦悶の跡である。

 

[1]  ボヌイユ・フレソズ(2018,190-191頁)は、「より働き、より稼ぐ」という規律が一八世紀の人々に受け入れられたのは、当時新しく生まれた魅力的な商品に対する人間の欲望のおかげであると述べる.そして、同時に「日々を労働で埋めつくす規律を農村部から出てきた労働者や職人にたたき込むのは困難であったことを証明する事例がいくつも存在する」ことから、「人間の消費欲を自然化」してしまわないよう注意を促している.

[2] 例えば、渡辺(2016).また、ネグリとハート(2003,p264-267)は留保をつけつつも、バートルビーの絶対的な拒否に「解放の政治」の始まりを見出している.

 

引用文献

小野俊太郎(2016)『「里山」を宮崎駿で読み直す——森と人は共生できるのか』春秋社.

清水知子(2005)「<ジブリ・モンスターズ>と感覚のトポロジー」海岸洋文編『宮崎駿の世界』竹書房,107-115頁.

ネグリ,アントニオ,ハート,マイケル(2003)『<帝国>——グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲,酒井隆史,浜邦彦,吉田俊実訳,以文社.

フレソズ,ジャン=バティスト,ボヌイユ,クリストフ(2018)『人新世とは何か——<地球と人類の時代>の思想史』野坂しおり訳,青土社.

渡辺信二(2016)「バートルビーの倫理と資本主義の良心 : 叙述トリックを解く」『フェリス女学院大学文学部紀要』51,227-251頁.