〈自然〉の死と再生の物語(3)『ハウルの動く城』①

第2部 衰頽から再生へ——『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』論

第3章 衰頽に宿る可能性——『ハウルの動く城』①

 

 第1部で確認したように、『もののけ姫』と『千と千尋』は〈自然〉の死というパラダイムの上に成立しており、ある種『ナウシカ』や『トトロ』からの退却戦であったといえる。『ハウルの動く城』(以下、『ハウル』)もまた、こうした後退のなか制作された作品ではあるが、同時に前二作とは異なる要素も含まれている。その新しい要素とは、すでに生命力を失い、死に至る過程にあるものごとが、再び息を吹き返し、活性化していくプロセスである。本章では、その過程を「老い」と「ゴミ」に関して確認していく。

 

3-1 対照的な空間——ハウルとサリマンの城

 

  宮崎が手掛けた映像作品のなかで、キャリア全体のハイライトになり得るほどの強度をもつイメージを一つだけ上げるとするならば、それはこの作品の動く城をおいてほかにない(図3)。冒頭の数秒、短い鶏のような足がついた、巨大で不気味な建造物が山道を進んでいくシーンは観客に強烈な印象を与える。この城の外観と内装は、宮崎がこれまで愛用してきたイメージやモチーフを凝縮している。外観の大半は赤、あるいは緑色の金属の廃物の寄せ集めでできている。エネルギーを失い赤く錆びた鉄、所々緑青が発生した銅、いずれにせよ腐食した金属と思われる素材を中心に廃屋の断片や送電塔などがつなぎ合わされている。動く城の外観は「ゴミ」を用いた作品である。前作でも確認したが、宮崎にとって「ゴミ」問題は重要であり、それはつねに人間と自然の関係の変化を表すパラメーターとなる。例えば宮崎が『千と千尋』や次作『崖の上のポニョ』(2008)において、大量に「ゴミ」を描き出す時、それは〈自然〉の死と結びついている。

 

図3 巨大な動く城

 

 また、動く城は「折り返し点」以前の作品で頻繁に登場していた、生き物との類似性をもった奇妙な形態の乗り物の復活である。そして、その中身は常軌を逸した「ゴミ」屋敷であるが、ヒロインが埃などで汚れた部屋を掃除するところから始まる、というのは『魔女の宅急便』(1989)や『トトロ』などでも用いられるお馴染みの展開であった。しかも、動く城のなかには最初、『ナウシカ』の腐海で見たような植物が生えており、現実的なサイズに収まっているが節足動物が多数生息している。

 宮崎はこれまでも、清潔的な空間のなかで生活するのに慣れている人間にとっては生理的な嫌悪感をもよおすようなイメージを平然とアニメーションのなかに取り込んできた。巨大化した菌類や節足動物、大量の触手のようなどろどろとした物体に包まれた祟り神、オクサレ神がまき散らすヘドロや、中から大量に出てくるごみ、カオナシによる吐物、そして癇癪を起こしたハウルの出す緑色のねばねばした液体などの、現実離れした過剰な「汚物」は、モダニズム、すなわちアニメーションや現代的な生活空間が抑圧してきたものの回帰である。動く城の外観と異様に汚れた室内は、「汚物マニエリスム」ともいうべき宮崎特有の表現を結集したものである。

 そして、この作品において重要なのは、動く城とハウルの師であるサリマンのいる王宮の対比であり、これら二つの空間は多くの点で対照的である。

 サリマンの城が清潔さ、堅牢さによって特徴づけられるとすれば、動く城は不潔であり、雑菌塗れであり、その継ぎはぎの形態から見て取れるように壊れやすく、変形を繰り返す。サリマンの城が「真性な」城だとすると、ハウルの城は「紛い物」だといえる。

 サリマンのいる部屋はガラス張りで清潔に保たれており、にもかかわらず観葉植物にしてはあまりにも大量で多種多様な植物で室内を囲んでいる。ハウルの城に生えていた「汚く」てあまり見慣れない植物とは対照的に、「清潔」で目に優しい植物だけがそこにあり、そこは自然の美しさが演出されると同時に、無菌化、無臭化による自然の飼い馴らしが実現している空間でもある。この対比は『ナウシカ』と『もののけ姫』の森の違いを想起させる。

 また、ハウルの城が開かれ、外的なものを受け入れる空間なのに対し、サリマンの城は閉じられ、自律し、純化された空間である。サリマンの城には入口が一つしかなく、近衛兵がよそ者の侵入を防いでいる。前作の湯屋もこの城と同じく清潔な空間であるはずだったが、千尋やオクサレ神、カオナシの侵入によって幾度も室内を穢されていく。しかし、サリマンの城はサービス施設ではないため、セキュリティがより強固であり、中に侵入が可能だったのは変装ができるハウルだけであった。逆に、ハウルの城にはさまざまなよそ者が侵入する。ハウルの城の入口は、レバーを引くことで別の空間に接続することができる。そのため、最初から最後までソフィーを含め、様々な客に訪問され、時には無理な侵入によって破壊されたりしている。

 最後に、この動く城は乗り物でもあるという点において、王国が戦争に用いる機械類に対しても批判的な関係をもっている。ラマール(2013,94頁)は宮崎の「奇形」で人間の身体に似た乗り物について次のように述べている。

 

このようにおかしくて風変わりな乗り物——ぱたぱた動く足やくるくる回る手がついていることが多く、奇妙にも人間の身体に似たものとなっている——はどれもこれも、弾道的なデザインをもつ流線型の飛行機を避けるよう計算されているように思われる。宮崎はジェット機やロケットを故意に避けており、彼がそうしたデザインを引用するときには、それは戦争の害悪と密接に結びついている(とりわけ『ハウルの動く城』ではそうである)。そして、宮崎はユーモラスでエキセントリックなデザインを、私たちの生きる近代世界のテクノロジー的な秩序付けを他の様々な可能性へと開放するために用いている。

 

 ガラクタを積み重ねたような動く城のデザインは、図体こそ大きいものの、破壊や殺戮のために用いられる機械と比べれば、後に再び触れるように肯定的な意味で、どこか子どもが「ゴミ」を集めて作った「おもちゃ」のようであり、この作品にとって大きな意味を持っている。

 

3-2 老いるソフィーと怪物になるハウル

 

 動く城についての言及を続ける前に、二つの城に住む人間の差異についても指摘しておく必要がある。動く城に住むことになる者たちは、ハウルとソフィーを筆頭に物語を通して変身をし続ける。マルクル荒地の魔女、そして城自身もハウル陣営の全員が作中何度も容姿を変える。それも大抵は、以前よりも醜く、老けて弱々しい姿への変身である。これらの特徴は、サリマンの城にいる、全く同じ姿かたちをした金髪の美少年たちの存在によってより顕著になる(図4)。

 

図4 全員同じ姿かたちをした金髪の美少年たち

 

 変装してサリマンの城に侵入したハウルは「確かにこの王宮にはサリマンの力で敵の爆弾は当たらない。そのかわり周りの町に落ちるのだ。魔法とはそういうものだ」と述べる。こうしてみると、サリマンが魔法の力で外へと押しやっているのは爆弾だけではなく、肉体を含めたモノが汚れ、腐り、醜くなってゆく作用も含んでおり、まるでその被害をハウルやソフィーたちが代わりに被っているかのようである。

 ハウルたちはしばしば容姿に連動して性格も変動しているようにみえる。ソフィーは老婆のときとそうでないときで大きく性格が変わっているようにみえるし、ハウルも金髪のときは女性を眩惑する美青年だが、オレンジ色や黒髪になるとハウルに対して駄々をこねる幼児のようになる。そして、これらキャラクターの分かりにくさを最も体現しているのは、荒地の魔女であろう。荒地の魔女は、魔法によって自らの容姿を保っていたが、サリマンによって強制的に本来の老けて弱々しい姿に戻される。すると、それまでの高圧的な性格から一転、ソフィーに介護されるおとなしい老婆になり、ソフィーの恋愛相談に乗るようにもなる。しかし、仲間になったのかと思えば、実は自らのハウルを手に入れるという野望を未だ隠し持っており、カルシファーから無理矢理ハウルの心臓を取りだそうとする。

 これらハウルたちの絶え間ない変身や爛れは、前作における、千尋の消極的なかたちでの自己同一性への執着の後にやってくるものである。千尋の食の拒否は、そのまま変身の拒否、消費社会への「適応」の拒否であり、千尋にとっての最大の問題は「千」ではなく、「萩野千尋」であり続けること、すなわち私であり続けること=子どもであり続けることであった[1]。一方、『ハウル』の世界おいては環境に「適応」するか否かといった問いかけはすでに過去のものであり、すでにその環境は新たな「自然」となっている。

 この変身に伴う自己の喪失といったモチーフは、ハウルに関しては引き続きあてはまる。ハウルは黒い鳥のような姿に変身することで、戦争への加担を強いられている。そして、ハウルのその姿を見たカルシファーが「あんまり飛ぶと戻れなくなるぜ」と声をかける。そのシーンでは次のような会話が交わされる。

 

ハウル「同業者に襲われたよ」

カルシファー荒地の魔女か?」

ハウル「いや三下だが怪物に変身していた。そいつら後で泣くことになるな、まず人間には戻れないよ」

 

 このように、変身とはまず人間性の喪失であり、基本的には否定的な意味を持っている。しかし、ことソフィーの変身、すなわち「老化」については必ずしもそうではない。斎藤(2005,40-41頁)はソフィーの「老化」について次のように述べている。

 

原作にはなくて映画に付け加えられたソフィーのセリフに、「年を取っていくことは、捨てるものが少なくなることだ(大意)」というものがあった。これは宮崎の素直な心情吐露のように私には思われる。(…)しかし加齢することは、必ずしもセクシュアリティをそぎ落としていく過程ではない。むしろその反対である。加齢は、性の根幹を覆い隠していた幻想の枝葉を少しずつ落としていき、個人のセクシュアリティの本質をいっそう露わにしていく過程にほかならない。ソフィーは九〇歳の老婆になったことにショックを受けるが、それが自分にとって大きな救いであり解放であるという事実に気付いていない。

 

 たしかに、ソフィーは「老い」によって失ったものよりも得たものの方が多い。ソフィーは容姿へのコンプレックスから解放され、掃除婦としてハウルの城に住みつく大胆さを獲得する。また、掃除や洗濯の後、星の湖を眺めながら「不思議ねえ、こんなに穏やかな気持ちになれたの初めて……」とつぶやくシーンがあるが、これもまた「老い」によってはじめて手に入れた感情だといえる。このように、この映画のなかでは、「老い」は必ずしも否定されるべきものではなく、むしろ肯定的なものとして描こうとしている。そのためか、この映画では原作とは異なり、最後までソフィーの髪色は白髪であり、「老い」の呪いが解けたのか定かではなくなってしまっている(以上、岸野,2014,11-12頁)。岸野(2014,12頁)は原作と宮崎の映画における「老い」の意味の変化を比較しつつ次のように述べている。

 

原作のソフィーは老人として生きることでコンプレックスから解放され、危うく老人の姿にとどまりかけてしまう。ジョーンズの他の作品でも、変身したり記憶を失ったりした登場人物たちは、変身した姿や新たなアイデンティティに従属してしまい、本来の自分を見失う危険のなかにいる(映画のハウルも鳥の姿から戻れなくなりかけるが、こちらはル=グウィンの『影との戦い』(A Wizard of Earthsea)の影響もあるだろう)。(…)つまり原作では、老人の姿への依存を止め、本来の自分の姿で生きる勇気を持つことが必要であった。老人のふりをする生き方から訣別できた原作に対して、宮崎の解釈では、他者から押し付けられた姿をも取り込んで(誰も逆らえない老いを受け入れて)新たな存在に生まれ変わったとも受け取れる。

 

 岸野の指摘によれば、原作においてはソフィーの変身もまたアイデンティティ喪失の危機が問題になっており、映画のハウルの変身と近い意味を持っていた。しかし、宮崎は独自の解釈でソフィーの変身に「老いを肯定するメッセージ」を重ねていく。この作品における変身の多義性は一体何なのか。ハウルとソフィーの変身は正反対の意味を持っているとさえいえる。この捻れを理解するためには、宮崎独特の人間観を介す必要がある。

 

3-3 子どもと年寄り

 

 宮崎の子どもという存在に対する強い執着はよく知られている。杉田(2014,136-137頁)で宮崎の発言を参照しつつ次のように述べている。

 

子どもの身体こそが本来の自然であり神々の身体である、と信じる宮崎にとっては、普通の意味での人間の成長や成熟や自立は、早くも、存在として老いはじめていくことに等しかった。もちろん無垢で美しい幼年期や少年時代をなつかしくふりかえる物語や小説は山ほどある。しかし宮崎の場合、その零落や老いが奇妙に過剰なのだ。(…)子どもと大人の間には、成熟や成長によって架橋できない断絶(絶縁体)がある。そのラインを一度超えれば子どもたちが「くだらなくなる」「つまんなくなる」ような、二度と引き返せない一線がある。

 

 前作の千尋ハウルにとって、変身はこの「断絶」を飛び越えてしまうことを意味した。すでに確認したように、千尋は拒食によってこの境界線の手前でとどまっていたが、ハウルはこの「子ども」と「大人」の境界線を行き来し、さまようことで自己を喪失する危機に陥っている(ハウルは中盤、気味の悪いナーサリーなどによって、幼児として描かれる)。では、宮崎にとって、子どもは一度「子ども」性を失って、零落した存在になってしまえば、その子は残りの人生を転落していくほかないのかといえば、実はそうではない。「子ども」から「大人」への変身を、必ずやってくる喪失だとするならば、「大人」から「年寄り」への変化という二度目の変身があり、この変身はどちらにも転びうるものであるからだ。

 元々、宮崎作品においては、年寄りは主人公たちを導く重要な役割を果たし、子どもにとって肯定的な存在であった。子どもから大人への変化は明確な零落であるが、二度目に訪れる変化である、大人から年寄りへの「老い」は必ずしもそうではない。『ハウル』においては、大人から年寄りへの変化は肯定的なものとして描かれている。荒地の魔女は魔法によって、本来の老いた姿を隠して若返っていたが、サリマンにその魔法をとかれ、ただの年寄りの姿に戻ることによって、ハウルたち「家族」の一員となり、ソフィーを導きもする存在に変化するのだ。

 ハウルが子どもから大人になることによって何かを失おうとしているのに対し、ソフィーや荒地の魔女は「老い」という見かけ上の「喪失」によってはじめて恋人や「家族」といった関係を築くことができた。宮崎がこの作品で打ち出している子ども/大人/年寄りの価値づけは、近代以降の人びとが想定する人間の「成長」モデルをそのままひっくり返したものである。図式的に言えば、子どもが肉体的にも大きくなり、さらに経験や知識を「積み上げる」ことで「成長」し、大人時代に人生のピークを迎えたあと、肉体は腐っていき精神的にも衰弱していくという凸型の曲線に対し、宮崎のそれは、子どもが大人になることによって決定的な何かを失うが、実はその後訪れる「老い」は失ったものを取り戻していく過程であり、それは凹型の曲線となる(この子ども≒年寄りの図式は次作でよりはっきりと打ちだされる)。これは、「成長」のなかに喪失を、「衰頽」のなかに再生の萌芽を見出すことである。

 ソフィーとハウルの変身の違いについて戻る。ハウルの変身は「子ども」と「大人」を行き来するものであり、変身は人間性を失った怪物に変化してしまうことを意味した。それに対して、ソフィーの変身がハウルのそれと違って、全く悲観的な意味を持たないのは、それはソフィーが「子ども」と「年寄り」の間にある巨大な穴(「大人」)を、荒地の魔女の魔法によって一気に飛び越えてしまったからにほかならない。また、マルクルの変装も、「子ども」と「年寄り」を行き来するものであった。

 肉体が衰弱し、「廃品」として活力を失っていく過程である「老い」に再生の可能性を見出すことは、使い古され、汚れ、腐っていく「ゴミ」に再び用途を見出し、例えば宮崎-ハウルが遊び道具として使いなおしてしまう作用と同質のものである。

 

3-4「ゴミ」を使った遊び

 

 ここで、再び考察の対象を動く城に戻す必要がある。動く城が、ハウルの幼児性やそのフォルムも相まってどこか「おもちゃ」の城に見えることはすでに述べた。この「おもちゃ」感は、「張りぼて」感とも言われ、ハウルの「見せかけ」の虚栄心や大人になりきれない心の反映として、ハウルが「ゴミ」を用いて作った作品は正当な評価を受けてこなかった[2]。たしかに、ハウルが師であるサリマンの王宮を真似て自らの城を拵えたのだとすれば、随分とできの悪い、奇形化した「模造品」だともいえる。ハウルが「大人になりきれない心」の持ち主ならばなおさら、彼がガラクタで城を作る行為は、子どもが身の回りにあるもの、あるいは買ってもらった玩具などを活用して大人たちが作った建築物を再現しようとする行為とそう変わるものではない。しかし、その「子ども」の建築物に価値がないといえるのは「大人」の目線からでしかない。少なくとも、宮崎が入れ込んでいるのはサリマンの純正で立派な城の方ではなく、ハウルのニセモノだが猥雑さを排除しない「おもちゃ」の方であることはもはや言うまでもないだろう。

 宮崎がこの作品のなかで仕掛けているサリマンとハウルの城の対立、すなわち純正できれいな城よりも、廃品を利用した継ぎはぎだらけの汚い動く城を魅力的に描き出す筆致は、藤田(2003,276頁)による「新品文化」批判と響きあう。藤田は新品の世界にはない修繕の美学を次のように語る。

 

例えば一枚の戸板が修繕された時そこに現われる「更められた新しさ」すなわち更新はここにはない。戸板の一枚だけが周囲との延長的連続から断ち切られ、連続の中断を以て「引用」され、その抽き抜かれた部分に新しい挿入が、機械的にではなく周囲との関係の再形成として行われる時、並べ直された断片のそれぞれは変身し、そこに現れるモンタージュ効果は関係の更新という点で全的に新しい。(…)例えばまた綻びが巧みに継ぎはがれた時そこに現われる「再生」と「復活」の新しさも新品の世界にはない。継ぎはぎの繕いが、周囲の部分との抵抗関係を考慮しながらそれとの「対立を含む和解」として出来上がった時、そこに現われる新しさは一個の全体的関係における新しさである。再生や復活はそういうものとして部分的でありながら関係的全体の蘇生であった。

 

  ここで藤田が述べている修繕の魅力は、寄せ集めや縫い合わせなど、複数の断片的な素材を組み合わせることで新たなものを創造する行為にもあてはまるだろう。ハウルの動く城は、さびた鉄や銅、木板やレンガ、廃屋の断片や大砲に煙突に送電塔など、あまりにも雑多な素材のパッチワークであるにもかかわらず、「一個の全体的関係における新しさ」を城という形式において実現しており、それによってまた、廃物化し、一度死んだはずの素材が再び変身し、「再生」を遂げる。しかし、それはあくまでも「対立を含む和解」であるため、その集合体を一度捕捉した後も、それぞれの細部がその配置、周囲の素材との関係によって独自の質感や面白さを持っており、観る者を飽きさせない。

 修繕がそうであるように、「ゴミ」を用いた創造行為もまた、一度死んだモノに再び命を与える行為であるといえる。藤田のいうような新品文化が社会を覆い、子どものおもちゃも既製品で溢れるようになる以前、子どもはそうした「再生」の重要な担い手でもあった。シルギー(1999,208-209頁)は人間とごみの関わりについて論じた著作のなかで次のように述べている。

 

子どもたちは大人になりたいと願う。だから、イメージのなかで、疑似的な世界を作り上げる。大人の仕事を真似たり、戦争や平和を疑似体験したりする。既成のおもちゃに恵まれない子どもたちは、想像力を駆使して、自分たちのまわりにある粗末な物品を使ってそれなりにおもちゃをこしらえる。日常生活の余り物から生まれた遊びやおもちゃは、いつの時代にもあるものだ。(…)二〇世紀初頭、子どもたちはさまざまなおもちゃをわずかな元手で自前で作っていた。廃品を利用して、列車やままごとの遊具、ときには工夫を凝らしてトラックまで作っていた。くず屋から空き缶を買い、火をつかってハンダづけして、ブリキを平らにしてから好きな形に作りなおしていたのである。

 

 子どもたちによって、誰かにとって不要な廃品が再び価値を見出され、息を吹き返す。藤原(2019,18頁)は、自然と人間社会を貫く「ものの属性(何かに分かちがたく属していること)や機能(何らかの目的のために振る舞うこと)が最終的にしゃぶりつくされ、動きの方向性が失われ、消え失せるまで、なんども味わわれ、用いられる」という普遍的なプロセスを「分解」と呼んだ。子どもたちもまた、こうした遊びによって「分解」の担い手となる。工業化・都市化は〈自然〉が「分解」のアクターとして活躍できない領域や「ゴミ」を増やしてきたが、かつて子どもたちはそうした厄介な領域においてこそ「分解」のプロセスに積極的に参入してきたことがわかる。子どもたちにとって、そのほとんどが別の生き物の食べ物くらいにしかならない有機廃棄物よりも、耐久性の高い「ゴミ」の方がおもちゃとして利用価値が高いわけである。

 こうした「ゴミ」は子どもに限らず、創造行為に勤しむ人間たちを刺激し、魅了する。「くず屋の王様」と呼ばれたピカソの立体作品、シュヴィッタースのがらくたを駆使したコラージュや『メルツバウ』などの著名なもののほかにも、「精神障害者」とされた人々は独自の幻想を具体化するのに廃品を用いることを厭わなかったが、その作品はシュールレアリストたちを魅了し、デュビュッフェに「アール・ブリュット」という概念を創出させた。その後の、1950-60年代は廃物(ジャンク)を用いた芸術の最盛期だったといえる。ニューヨークではジョーンズやラウシェンバーグらによるネオ・ダダ、同じころフランスではティンゲリーやアルマンらによるヌーヴォー・レアリスムの運動が盛んになっていた。彼らは積極的に既製品や廃棄物を自らの作品に利用する。産業消費社会化に拍車がかかり、技術革新によって多種多様で豊かな廃棄物が「漂流している」時代になると、「ゴミ」に新たな価値が見いだされたのだ[3]。こうした「風変わりな」人間たちは、〈自然〉が排除された領域において、ささやかながらも「分解」活動の維持に貢献していたといえる。

 シルギー(1999,231-232頁)は、「創造の材料としてのごみの魅力」は、「環境破壊や汚れものに対する強迫観念、あるいは排除という偏執への反動、それに種としての人間を否定しかねない過剰な無菌状態に対する反動」として現れ、「廃品が芸術や遊戯に使われることで、その名誉は挽回され」ると述べている。宮崎がサリマンのいる王宮に対してハウルの動く城を対置するとき、かつてのポップ・アートやジャンク・アートの担い手たちがそうだったように、このような価値転換の美や使い捨て文化や清潔志向に対する批評性を継承しているのである。

 

 本節では、この作品において宮崎が特別な愛着とともに目を向ける、老いてゆくモノ、腐り、古びてゆくモノの描かれ方について論じてきた。宮崎はこの作品において、前作において用いられていた「変身」や「ゴミ」といった否定的なモチーフから、なんとかそれらを中性化し、そこから肯定的なものを取りだそうと使いなおしている。少なくともソフィーにおいて「変身」は成長-喪失から老衰―再生へと折り返され、肉体の崩壊と腐敗を加速させながらも精神的な「復活」を果たした。また、前作では湯屋のなかを汚し、占拠するただ厄介な廃棄物でしかなかった大量の「ゴミ」の表象をリサイクルし、ハウルはそれらを巨大な建築物へと転生させた。

 『ナウシカ』、『トトロ』の不可能性から生まれた『もののけ姫』と『千と千尋』には戸惑いや逡巡の気配が濃厚だった。しかし今作においては、そうした遅疑逡巡の果てにすこし踏ん切りがついたのか、衰頽から再び前を向き直し、喪失や頽廃のプロセスにおいても潜在的にある生の活力や再生の萌芽を拾い上げようとする志向性がより前面に出ている。正確に言えば、前二作においてもそれを描こうとしていたが、あまり上手くはいかなかったように思われる(『もののけ姫』に存在した混乱や破綻がむしろ強くなっている点において今作も決して大成功とは言えない)。頽廃していく自然と身体から翻って「ポスト自然」における再生の方法を描くこと。本稿においては「折り返し点」以降に生じた『ハウルの動く城』におけるこの変化を、更なる転回として位置づけることとしたい。

 

[1] 変身の拒否と資本主義への「適応」の拒否の等価性については樫村(2004)の楳図かずお論を参照した.

[2] そうした評価は例えば、村瀬(2015,183頁)や岸野(2014)を参照.

[3] こうした廃棄物と芸術の歴史に関しては、シルギー(1999)第九章や、末永(2013,133-164頁)を参照した.

 

引用文献

樫村晴香(2004)「Quid?——ソレハ何カ 私ハ何カ」『ユリイカ』36巻7号,81-94頁.

岸野あき恵(2014)「『ハウルの動く城』における原作の精神とは――宮崎駿監督が目指したもの」『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集』 17,1-18頁.

斎藤環(2005)「キスのある風景」海岸洋文編『宮崎駿の世界』竹書房,33-41頁.

シルギー、カトリーヌ・ド(1999)『人間とごみ——ごみをめぐる歴史と文化、ヨーロッパの経験に学ぶ』久松健一編訳,ルソー麻衣子訳,新評論.

末永照和監修(2013)『増補新装[カラー版]20世紀の美術』美術出版社.

杉田俊介(2014)『宮崎駿論』NHK出版.

藤田省三(2003)「新品文化——ピカピカの所与」『精神史的考察』平凡社(初出は『みすず』1981年2月号,みすず書房).

村瀬学(2015)『宮崎駿再考——『未来少年コナン』から『風立ちぬ』へ』平凡社.

ラマール,トーマス(2013)『アニメ・マシーン——グローバルメディアとしての日本アニメーション』藤木秀明監訳,大崎晴美訳,名古屋大学出版会.