〈自然〉の死と再生の物語(4)『ハウルの動く城』②『崖の上のポニョ』

第4章 瓦礫と再生——『ハウルの動く城』②『崖の上のポニョ

 

4-1 崩壊していく城と物語

 

 『ハウルの動く城』の終盤はわけがわからない。これに関してはこの映画を観た多くの人が頷くところであると思われる。物語の後半、あまりにも多くの出来事が畳みかけるように起こり、そのなかには不可解な点も多く、真面目に考える人ほど混乱する。なぜ動く城の瓦礫からハウルカルシファーの出会いの場面に通じる扉が突然現れるのか、なぜソフィーが過去から現在に戻ってくるとハウルが都合よくそこにいるのか、なぜサリマンはあっけなく戦争を終わらせるのか。数々の疑問が頭に浮かびつつも、考える間もなく物語が首尾よく、そしてすべてが嘘っぽく目の前を通りすぎていくために、これまで積み上げてきたものを台無しにされた苛立ちとともに、なぜだか笑いがこみあげてくる。

 そうした物語の「積み上げ」ないしは「組み立て」が問題なく進行していたのは、ハウルとソフィーがサリマンの下から脱出し、新居を構えてハウル(夫)、ソフィー(妻)、マルクル(子)に加えて、荒地の魔女とペットのヒンの「家族」を結成したあたりまでである。ハウルは中盤まで「成長」できない子どもであったが、ハウルが以前の母との関係を断ち切ることで、ソフィーも母の代理ではなくハウルの新たな恋人の位置につき、画面上でも若い姿でいることが多くなる。それはハウルの「成熟」を視覚的にわかりやすく示しており、ソフィー(母)―ハウル(子)の関係からソフィー(妻)―ハウル(夫)への変化でもあった。戦中にハウルとソフィーが交わす会話は、ハウルが「子ども」から「父」になろうとしていることを示している。

 

ソフィー「逃げましょう、戦ってはだめ」

ハウル 「なぜ?ぼくはもう充分逃げた」

「ようやく守らなければならないものができたんだ……」

 

 しかし、なかなかソフィーはハウルの思惑通りにはいかない存在でもある。この後ソフィーは結局ハウルに守られるのではなく逃げることを選択する(この場面にはソフィーに「あの人は弱虫がいいの」というセリフがある)。また、ハウルがソフィーに花畑(過去でハウルカルシファーが出会った場所でもある)をプレゼントするシーンでは、ハウルがソフィーに「ソフィーはきれいだよ」と言った瞬間にソフィーは老いた「醜い」姿に戻ってしまう。こうしたわずかなすれ違いは、ハウルとソフィーの関係が夫と妻に一筋縄では収まらないことを示している。とりわけソフィーは、以前の母-子の頃の関係に対する執着を強く保持しており、容姿の過流動性はそれに由来する。こうした関係が一意に定まらない正統な家族から逸脱した「家族」はままごと的であり、ガラクタの城で行われるにふさわしい遊戯であった。しかし、このままごと的な「子ども」の領域でのみ成立していたハウルの「お父さん役」は、戦時中という圧倒的な「大人」の現実が支配力をもつ状況においては、ままごとの魔法は砕かれ、ハウルは真に大人=怪物にならざるを得ない。

 すでに確認したように、ハウルの「子」から「父」への変化は自己喪失と隣り合わせであった。ハウルがソフィーを守れるよう「大人」に「適応」することは、そのまま怪物に変身し、人間性を失うことでもある。こうした宮崎の「子ども」への異様な執着に由来するジレンマが、物語の順調な進行を断ち切ってしまう。宮崎に子どもから大人へのまっすぐな「成長」は描けない。ソフィーがハウルの「成熟」を拒否するように城を抜けると、それをきっかけにハウルの城の大崩壊や物語のリニアーな進行の破局が堰を切ったように始まる。結局、宮崎は完成しかけていたハウルの(ままごとでしかなかった)ビルドゥングスロマンの構造をへし折ってしまい、終盤は瓦礫化していく物語にどうにかして収拾をつける必要に迫られていたようにみえる。今作における終盤の「カオス」は本人が描けないものを描こうとしたことによるところも大きいだろう。

 本節では、こうした作品終盤の大崩壊や「カオス」と呼ばれる現象の内実を詳述することを試みる。

 

4-2 創造-崩壊-再生

 

 この作品のラストについて書くには、作品を生産の観点からではなく、「崩れる」観点から論じられる特殊な枠組みを必要とする。崩れる、分解する(される)という観点が特殊なのは、近代以降、「作る、生産する、積む、上げる、重ねる、生み出す」が世界観のもっとも重要な基盤となってきたためである(藤原(2019,28頁))。前節において名を挙げたティンゲリーやアルマンの廃材を用いた「作品」は創造と破壊がセットになっていることも珍しくなく、参照項になり得るかもれない。しかし、ここではより身近でありふれた素材である「積み木」についての藤原(2019)の考察を導きの糸としたい。藤原はすでに一度参照した『分解の哲学』という著書において、生産を基礎にした世界ではなく、「分解」という観点から世界を描き直そうと試みており、この著書の第二章は子どもにとっては馴染み深い玩具である「積み木の哲学」にあてられている。

 この「積み木」論の冒頭で、藤原(同前,72-73頁)による乳幼児と大人が積み木で遊んでいる何気ない光景の描写において、大人には積み木を積み上げること、子どもにはそれを崩すことが割り当てられているのは本稿の『ハウル』、『崖の上のポニョ』(以下、『ポニョ』)論においても重要である。藤原(同前,74頁)によれば積み木遊びの面白さには積み上げること以外にも、「崩すこと、ばらばらにすること、あちこちに散らばること、偶然にできた散らばりの様子を見ること、そして音を鳴らすことも含まれている。いわば崩し木である」。そして、積み木によって作られた建造物の脆さ、崩れやすさは遊ぶ人びとに「内に秘められた破壊衝動を放出するというような快楽や、完成されているものを分解したいという欲望」を喚起する(同前,75頁)。

 積み木遊びに関して藤原が言うような、人間のなかの快楽や欲望の根強さは、積み木以外にも、ドミノ倒しや将棋倒しといったすでに完成されているゲームから逸脱した別の遊びが考案されることからもわかる。ドミノ倒しや将棋倒しといった遊びもまた、完成されたゲームの「本来」の遊び方を一度解体し、新たなゲームへと作り直すといった「分解」の副産物である。本節の結論を先取りして言えば、『ハウル』を観る体験は、将棋を観戦していたつもりがいつの間にか将棋倒しを見せられていた、といったものに近い。ラストの展開に苛立ちを覚えるとすれば、物語を制作/鑑賞する行為が積み上げること、論理的な整合性やリニアーな思考に基づいたものとして想定されているからであり、苛立ちを通り越して笑いがこみあげてくるとすれば、物事がバラバラになり、無秩序に広がっていく快楽を密かにに思いだしているからだろう。

 ハウルの動く城は素材からして積み木でできた建造物ほど脆くはないうえに、重力に逆らった接合がなされているため、どちらかといえば「接合ブロックやプラモデル」に近いが、ハウルたちの引っ越しからラストにかけて短時間で繰り返される城の創造-崩壊-再生のダイナミズムには、「積み木」が喚起する快楽や欲望を十分感じとることができる。

 藤原(同前,102頁)は「積み木」が現在とは別のしなやかな「世界」の在り方を示していると述べる。これは例えば現在都市にあふれている堅牢な「大人の作品」が、もし積み木のように脆く壊れやすい「子どもの作品」に置き換えられたら、というようなことを想像してみるようなことだと思われる(こうした「世界」の魅惑と恐怖を次作の『ポニョ』では垣間見ることができる)。

 人が何かを作るとき、たとえ子どもであったとしても、それが一定のかたちを留めておくには、その人が持っている「幼児性」を抑えつける必要がある。それが作品として市場に流通し、不特定多数の人間の目に触れる場合や、住居や店やビルなどの巨大な建造物の場合はなおさらである。このように、事前に何か目的があり、設計図などを用意して計画的に建設されるのが「大人の作品」とするならば、それに対置される「子どもの作品」は次のようになるだろう。それはより無目的で、無計画で、壊れやすい。その作品には綿密に構成された設計図が存在せず、その場にあるものを積み上げたり、つなぎ合わせたりして作り上げられるため、たいてい歪な形をしている。そしてそれが完成した段階で、すでに解体され、バラバラな部品の集合に戻ることが期待されており、「子ども」が作る作品の多くは短命である。作り上げられたモノが現実にほとんど何の影響も及ぼさないまま消える代わりに、現実的な様々な制約からは比較的自由に作られ、その行為は同じ制作であってもたいてい「遊び」となる。

 ハウルの動く城が戦争という重たい現実から逃れようと自壊と再生を繰り返すとき、崩壊の響きと運動の快楽とともに、こうした「子どもの作品」がもつガラクタの軽やかな自由と無力を伝えている。この作品のラストで展開される子どもと年寄りとペットの逃避行は、「大人」の影響を排除することによってできた小規模なユートピアが、戦争という「大人」の事情の回帰によって破壊される過程であるが、さしあたりソフィーの目的は大人=怪物化したハウルをもとに戻すこととなる。こうした本来無理のある「逆行」が作品全体に大きな負荷をかけ、物語の瓦礫化を促進することになるのである。

 

4-3 「崩し木」的作品

 

 ハウルの動く城の大崩壊は作品それ自体のメタレベルとスクリーンに映る城のオブジェクトレベルで同時に起こる。構造を失い、極度に説明を省かれ、有機的なつながりを失った断片的なシーンの連続はスクリーンに映る瓦礫の山そのものであり、観る者を途方に暮れさせる。ただ、一応筋といえるものを取りだすことは可能であり、それは大人=怪物化したハウルをソフィーが子どもに戻すというプロットである。

 城の崩壊以降の展開を簡単に通覧しておくと以下のようになる。城の瓦礫の中からなぜかハウルカルシファーの過去へとつながる扉が出現し、その扉を通じてソフィーがタイムトラベルすることで二人の契約の現場に出会うという超展開がはじまり、ソフィーが戻ってくると、ハウル人間性を完全に失う一歩手前のような状態でそこにいる。ソフィーがどれくらいの時間タイムスリップしていたのかは不明だが、少なくとも観客の視点ではハウルはついさっきまで多数の兵隊と交戦中だったはずであり、ここでもまた時空間の隔たりが物語の流れに対する抵抗として一切機能しておらず、説明を期待しているとさらにまた置いていかれることになる。この作品のラストでは隔たりは隔たりとして機能せず、一度はぐれたハウル、ソフィー、ヒンとマルクル荒地の魔女はそのまますぐに再会し、終幕に向かって超スピードで流れ込んでいく。荒地の魔女は一度奪ったハウルの心臓をあっさりソフィーに渡し、それをハウルに返すことで、物語はハッピーエンドを迎える。

 

ソフィー「温かくて小鳥みたいに動いてる」

カルシファー「子どものときのまんまだからさ」

ソフィー「どうかカルシファーが千年も生き、ハウルが心を取り戻しますように……」

 

 ソフィーが「子どものときの」心臓をハウルに戻すことで、無事ハウルは子どもに戻った=人間性を取り戻したわけである。その後、案山子姿のカブがソフィーのキスによって呪いが解けるというシーンが挟まったあと、サリマンはあっけなく戦争を終わらせる。ハウルとソフィーの物語の完結が背後に控えた戦争という問題の終結にも短絡されるこの展開が、前後の因果関係やシーン同士の連関を追うことに慣れている観客にとって、あまりにも都合がよすぎることは明らかである。実際、この展開は多くの不評を買った。この物語は嘘が嘘であることを隠さず、よくいえば現実の重力から解き放たれた、悪くいえば薄っぺらな世界になったまま終わる。ラストの展開をまとめると、ソフィーの目的はハウルの大人=怪物化を解くことであり、そのために解決しなければならない問題は、ハウルカルシファーの契約と戦争の二つであったが、一つ目は過去への遡行という荒業による「解決」であり、二つ目は何の仕掛けや理由もなく自動的に「解決」される。

 タイムトラベルや戦争の終結といったような、本来ならばさまざまな条件や理由を必要とするはずの出来事を含めたあまりにも多くのことが、太陽や星の光の煌びやかなイメージや無重力状態のスクリーンを軽やかに移動するキャラの運動と一体となって降りそそいでくる。ただでさえ、目の前で起こっていることを受け止め、了解するには負荷のかかる出来事が短時間で何の説明もなしに畳みかけるように起こる。この作品のラストが「カオス」と言われる所以である。

 なかでもやはり特に観る者を混乱させる展開がソフィーと幼少期のハウルカルシファーとの出会いである。時間遡行という壮大で物語上大きな意味をもつ出来事が唐突に、物語終了間際のわずか数分に挟まれるのは、作品全体にとって破壊的であり、複数の意味で大きくバランスを崩している(ことの大きさとかけられる時間の短さ、起承転結の結に重大な出来事が捻じ込まれることによるまとまらなさ)。ソフィーは過去から現在に戻る直前、ハウルたちに「わたしはソフィー、待ってて、わたしきっと行くから、未来で待ってて!」と声をかけ、ソフィーが現在の時空に戻ってくるとハウルは都合よくそこにいる。その後すぐ、そこでソフィーがハウルにかける「ごめんねわたしグズだから……ハウルはずーっと待っててくれたのに」という言葉がまた厄介である。

 このセリフは一体何を意味しているのか。直前のシーンによって過去が改変され、かつてソフィーとハウルですでに一度出会っている「世界線」に移行したのか。それとも、ハウルとソフィーは本当にずっと前に出会っており、過去の映像は以前の記憶だったのか(ソフィーが同じ場所に連れられたとき、「不思議ね……わたし前ここに来た気がするの……」というセリフがあるのでこちらの解釈も排除できない)。こうした考察は『ハウル』の作品世界が、過去から現在まで有機的な連関を持った一貫性のある世界として存在していること、現実世界と相似形の秩序やリアリティを保っていることへの鑑賞者自身の期待を伴って行われる。しかし、ここではそうした秩序への欲求を抑えて「別のしなやかな世界」を見出せるよう方向転換すべきである。すなわち、『ハウル』を堅牢で重みのある「大人の作品」であることを前提に解釈するのをやめ、秩序から無秩序へ移行するさまを、徐々に柔らかく軽やかな「子どもの作品」へと変質していく様相をそのまま捉えられるよう思考を転換する必要がある。

 動く城の崩壊とともに作品内部の自律した「世界」はバラバラに砕け、リニアーな時の流れも断裁され、リレーしない断片的な出来事の瓦礫として散り散りになっていく。ラストの展開は、世界線や過去の想起といった「全体」を想定した用語では語りえない。もっと「乱暴」で「幼稚」に、部分へと解体された時空間が都合よく切り取られ、全体の整合性(超自我による検閲)を無視して運動の視覚的快楽や組み合わせの面白さなどの快感原則だけを優先して継ぎはぎされている。ここにあるのは、「大人」による丈夫な構造ではなく、バラバラに崩し、自由に継ぎはぎしてはまた崩すという崩し―積み木的な「子ども」の遊びである。

 最後に、作品終了間際に目を引くほど繰り返されるソフィーの「口」づけについて言及する。前二作では独特の意味をもっていた「口」は今作では、男女が逆転しているものの、キスによって相手にかけられた呪いを解くというクラシックな使い方がなされている(ハウルと隣国の王子)。しかし、ソフィーの「口」づけは「本夫」といえるハウルのためにとっておかれるわけではなく、カブ、荒地の魔女カルシファーと相手を変えて繰り返され、ほとんどパロディーとなっていく。物語のクライマックスにおける「口」づけというプラトニックな愛を象徴する行為が、繰り返されることで重みを失くしていくこのソフィーの「軽さ」は、「疑似家族」において肯定的な意味をもつ。ここでも、「紛い物」であることを積極的に引き受けることで「本物」の家族の神話や性規範を「分解」していく作用を見て取ることができるだろう。

 

 本節では、『ハウル』における、様々なレベルでの「分解」現象を記述してきた。「城」やソフィーの若くてきれいな肉体の物質的な分解、ハウルの「大人」への「成熟」、そして「家族」といった価値の分解、最後に「作品」それ自体の分解。この作品が一見滅茶苦茶にもかかわらず失敗作では無いといえるのは、第3章、第4章で通覧してきたさまざまなモチーフが、単にバラバラにあるのではなく密接に絡み合い、統一的な視点での読解にも耐えうる作品となっているためである。そして、こうしたそれぞれの「分解」に共通するのは、総じて「大人」性の分解であったということである。ここで標的となっている「大人」性の外延的記述を作品に現われている限りで行うならば、真性さ、堅牢さ、清潔さ、新品、同一性、戦争、美、整合性などである。

 こうした「分解」は秩序だった物事をバラバラに崩し、ただ無秩序に戻すだけでなく、豊かな副産物を生み出す。次作の『ポニョ』もまた、そうした「分解」現象の副産物である。再び将棋のアナロジーを用いるなら、将棋という完成されたゲームが一度壊されることではじめて、将棋倒しのような新しい遊びが生まれるように、『ハウル』の大崩壊は『ポニョ』という新たな副産物を生み出すことになる。今作は、『もののけ姫』以降の逡巡や混乱の傷跡を確実に残してはいるものの、そこには再生への兆しがあり、それは『ポニョ』として結実することとなる。『ポニョ』の真に子どもによる子どものための世界といえる作品は、『ハウル』の混乱や破綻なくしては生まれなかっただろう。秩序から別の(無)秩序への移行が一体どんなものを生み出したのか。最後に、簡単にではあるが『ポニョ』で起きた地殻変動と再生を見届けることで本論の結びとしたい。

        

4-4 「あの世」で子どもと〈自然〉が再会する——『崖の上のポニョ

 

 前作の『ハウル』でわけがわからないのはおよそラストの展開くらいであったが、今作の『ポニョ』でわけがわからないのは最初から最後までほとんどである。前作終盤の、現実的な整合性や論理の重さ・遅さを置き去りにしていく軽やかな「世界」はこの作品の基調を決定づけている。こうした変化を一言でまとめるなら、やはり「原アニメーション」への回帰ということになる。3DCGを排し、クレヨンや色鉛筆、パステルなどの画材によって描かれる柔らかくて膨らみのある画面は、現代の日本が舞台でありながらも、同時に非現実感の漂う「どこでもないどこか」を演出している。

 こうした『ポニョ』における遡行は、アニメーションの歴史においてかつてディズニーがたどった「成熟」の過程をあえて逆行するものである。清水(2021)はソ連の映画監督エイゼンシュテインが、ディズニーは「インファントな領域」から「成熟の域」に移行してしまったと述べたのを受け、そうした「成熟」が何を意味するのか、そしてその「成熟」によって何が失われたかのかについて論じている。以下、清水の議論を簡単に確認する。

 元々、アニメーションにとって「自由」とは、「二次元の平面的な存在でしかない」からこそ、「さまざまな制約に絡めとられた「現実」を茶化し」、そこから解き放たれた「ファンタジーの論理」によって「変幻自在に変化し、世界のかたちをかえることができる」という点にあった(清水,2021,42頁)。そして、初期のミッキーもまた、こうした「自由」を享受しており、その前衛的で人工的な身体の開放感によって、モダニストたちを魅了し、また機械であると同時に動物でもあるという「サイボーグ的性質」は「人間と自然の関係を再組織化するユートピア的な潜勢力」をも胚胎していた(同前,57-67頁)。

 こうした「他のリアリティ」はディズニーにおいていかにして失われたのか。清水によれば、それは「本物と思える」キャラクターからなる「生命の幻影」の追求、「写実的なリアリティ」の模倣(「戯画化されたリアリズム」)によってであった(同前,78-80頁)。

 

動物を人間のように、人間を動物のように変身させる、わたしたちの意識を解放するドローイングの魅力は、人間や動物が自在に境界線を越えて変容する世界を可能にする。そこには、現実の法則などものともしないアニメーションならではの魔法の論理があった。しかしそれは、ディズニーが「生命の幻影」を追求するなかで失われ、ディズニーはキャラクターたちを現実の論理のなかに組み込んでいくことになる(同前,80-81頁)。

 

 ポニョはこうした「現実の世界の論理に即した重い足枷」から再び放たれ、魚/半魚人/人間のあいだを自由に行き来する。こうした変身を媒介するのはやはり「口」である。グランマンマーレによれば、ポニョは宗介の血をなめることで半魚人になったのだという。そして、ラストで魚にも人間にもなれる半魚人という中間的形態から宗介と同じ5歳の女の子に移行させたのは宗介とポニョのキスである。『もののけ姫』において「口」は何よりもまず関係を引き裂くものであり、『千と千尋』において「口」を介した変身は越えてはならない境界線を越えてしまうことだった。しかし、『千と千尋』と『ハウル』において子どもと大人の間に引かれていた境界線は、動物(自然)と子どもの間に引き直され、ポニョは二者を媒介する存在となる(『ポニョ』の世界から大人はほとんど排除されており、またしても子どもと年寄りの世界である)。宮崎にとって、動物(自然)/子どもの距離は、子ども/大人のそれよりもずっと近いのである[1]

 そうしたポニョの「口」を塞ごうとするのは、宮崎自身を戯画化した存在のようにも思われる父親のフジモトである。フジモトは半魚人化し、よごれた人間によって娘が穢されたことを嘆く。ポニョは人間の血をなめることで、人間の言葉を話すようになり、ハムという「恐ろしいもの」を好んで食べるようになってしまったため、フジモトは緑色の薬のようなものを食べさせて無垢な動物に戻そうとするが拒否される(ここでフジモトが与えようとしている食べ物は、『千と千尋』でハクやカオナシの変身の呪いを解いたニガダンゴに似ている)。ナウシカ千尋を少食、菜食ヒロインとするなら、ポニョはサンと同じ肉食ヒロインであり、無垢な存在ではない。彼女らに共通するのは、自然の側に属しているにもかかわらず、人間の言葉を話し、同胞である動物を食べるという特徴である。

 フジモトはポニョをなんとか動物のまま、そして人間に汚されないよう自然の中でだけ暮らすよう仕向けるが、ポニョは何よりもそうした閾を飛び越えるのに長けたキャラクターである。ポニョが海/陸の違いをのり越え、宗介と出会ってから関係を継続させることができたのは、海水/水道水といった違いをものともしない生き物としては異様な適応能力のおかげであった。ポニョの半魚人という中間的形態は、子ども/動物、陸/海、人間/自然といった異質な存在を結び付ける媒介項として機能する。

 ポニョは深海に連れ戻された後、宗介の元に戻るため、大波=大量の巨大な魚を連れて再び陸に戻ってくる。波の上を高速で走り、宗介とリサが乗った車を追いかけてくるポニョや大波の運動のイメージは凄まじく、この映画のハイライトといってよい。「カンブリア紀にも比肩する生命の爆発」によって「人間の時代」を終わらせ、地球を再び海の時代へと戻すというフジモトの計画が、ポニョの悪戯によって、予定よりずっと早く始まってしまったのだ。

 媒介者としてのポニョの暴走は「現実」にとって破壊的な意味をもつ。一つは、崖の上の宗介らの家以外の建物や人びとをすべて沈めてしまったという点においてであるがそれだけではない。スクリーン上においてポニョらの「騎行」は、目の前で起こっていることが祝祭なのか大災害なのか判然としないまま展開される。そして、このシーン以降、ポニョによって祝祭/災害、生/死、陸/海は媒介され、渾然一体となり、「現実」は破綻へと追い込まれ、作中人物の言葉で言えば、『ポニョ』の世界は「あの世」へと変質していく。

 こうしたポニョの活躍によって、「世界」は滅茶苦茶になるが、再び子どもと自然は結びつくことができた。子どもだけが〈自然〉と交通できるというモチーフの回帰は、ナウシカ王蟲、サツキとメイートトロといった〈自然〉が生きていた幸福な時代の再現である。子どもと〈自然〉のアルカイックな関係が、「あの世」においてほんのひととき再生する。しかしこの祝福すべき光景は、もはや人びとの生きるこの世の出来事ではないのである。

 

終章 おわりに

 

 本論稿では、『ナウシカ』や『トトロ』にみられる大文字の〈自然〉が、『もののけ姫』において死に至り、『ハウル』を重要な転換点としたのち、『ポニョ』において「再生」する過程を描いてきた。かなりの省筆を承知で、この過程を人の一生になぞらえてみるなら、『ナウシカ』や『トトロ』は最も輝かしい子ども時代といってよい作品であり、『もののけ姫』『千と千尋』は成熟がそのまま喪失であるような爛熟期、『ハウル』に関してはその果てにやってくる老年期の作品といえるが、「老い」という現象そのものに伴う再生の萌芽を捉えることで、同時に冥府への道を切り開いてしまったものと思われる。『ポニョ』がみせる異様な幸福感と恐怖が一体となった光景はやはり死後の世界そのものだろう。

 このように、取り上げた作品を制作順にならべて物語として再構成することが可能なのは、宮崎自身が自然の栄光と不可逆な衰頽に並走しながら制作を続けてきたからにほかならない。コピーライターである糸井重里は、当初『となりのトトロ』のコピーを「このへんないきものは、もう日本にいないんです。たぶん」と書いたが、宮崎がこのコピーを「このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん」と変えさせたという有名な話がある。このエピソードから見えてくるのは、迫りくる「現実」に対し、時代が変わっても子どもだけは〈自然〉とのプリミティヴな関係を保ち続けることができるという信念を守ろうとする作家の姿である。あいだ二作を挟んで、『もののけ姫』で〈自然〉の死を描いたとき、やはりそれは苦渋の選択であったことがうかがえる。

 『もののけ姫』以降の零落の道はやがて「あの世」へと続いていき、子どもと〈自然〉はそこで幸福な再会を果たした。この結末で宮崎は〈自然〉の死というテーマを清算し終えたのだろうか。本論稿では扱えなかったが、宮崎はこの後『風立ちぬ』(2013)という妙な映画を製作している。そして現在、吉野源三郎原作の『君たちはどう生きるか』を製作中とのことである。この原作はまさしく子どもから大人への「成長」を描く教養小説であるが、『ハウル』論で宮崎に「成長」は描けないと分析した筆者としては、また無理を強いておかしな作品が出来上がるのではないかと期待している。いずれにせよ、この作品によってまた『風立ちぬ』だけでは分からなかった、『ポニョ』以降の新たな展開を読み取ることができるようになるかもしれない。一度「あの世」へといってしまった作家が今度はどのような作品をつくるのか、新作の完成が待たれるところである。

 

[1] ただし、動物のなかで豚は『紅の豚』、『千と千尋の神隠し』において零落した大人の比喩として扱われる.

 

引用文献

清水知子 (2021)『ディズニーと動物——王国の魔法をとく』筑摩書房.

藤原辰史(2019)『分解の哲学——腐敗と発酵をめぐる思考』青土社.