2月28日

 朝起きて、福尾匠さんの日記の何日か分を読んだ。今日はたぶん一週間ぶりくらいにまとめて読んだ。数日おきに読みたくなって読んでいる。2月25日の日記を読んでなるほど、と思った。

http://tfukuo.com/2021/02/26/210225/

≪すっかり(特に映像の)始めと終わりがきちっとあって全部見られることを想定している「コンテンツ」というものを見なくなった。映画もそうだし、サブスクのドラマとかでさえ2時間なり40分なりを画面の前に座って見るということが、なんだか生活に関係のないことになってきた。いつ見ていつやめてもいいものに囲まれていると落ち着く。(…)何かをしながら別の何かをする方がひとは落ち着くんだと思うし、それが生活というものの基調にあるんだと思う。反対に、仕事であれ家事であれ読書であれゲームであれ映画であれ、何かに没頭するには生活への憎悪が必要なんだろう。≫

 ぼくもちょうど、三日前くらいの日記で映画を見るより車窓を眺めている方が好きだし、小説よりエッセイの方が好きだと書いた記憶がある。あくまでも最近はそういう気分だという話なんだろう。最近は日記のような生活と切り離せない文章にばかり惹かれてしまい、生活や日常から切り離された「作品」に入り込んでいけない時期らしい。用があって実家に帰ってきているということも大きいと思う。周りに家族とか人がいるような状況でそういうものに触れるのはなんとなくできない。雑音?「作品」を観たり読んだりするときにはからだが生活とは切り離された状態でなければならない、というこの思い込みは「作品」を無意味に神秘化する身ぶりであるし、日記やエッセイをある意味ナメているということでもある。ぼく自身の好みは生活?に根ざしたものであるとしても。頭では分かっていても、実家やおばあちゃんの家で本を読むとしたらエッセイや日記になってしまう。というわけで、新潮のコロナ禍日記リレーの号を買った。

 マックスバリューに入ると焼き芋の匂いがした。卵かけご飯の匂いにすこし似ている。天井で大きな換気扇がいくつか回っている。やっぱり回転するものにはどうしても惹かれてしまうらしい。今日もからだがグッとそっちに引きつけられる感覚があった。この前のRAUで知ったのだけど、地方ほど高い鉄塔があるらしい。おばあちゃんの家は姫路の近くでさらに田舎の高砂にあるのだけど、車に乗っているときに巨大な鉄塔をいくつも見れた。近くで見ると感動する。

 実は最近ちょこちょことマザー2をプレイしている。敵を倒してレベルを上げて、新しい武器を買ってさらに強い敵を倒す。このループがすごい快感で、こりゃやめられないわ、と思う。

 夕方から保坂和志の小説的思考塾の第二回がオンラインで始まる。全部はちゃんと見れてないから、また今度アーカイブで見直すつもり。後半で言っていた「読解力なんていうのは奴隷の精神なんですよ」という言葉が頭に残り続けている。テレビでは山火事のニュース。生まれてはじめて見たかもしれない。夜は昨日と同じように『読書の日記』(阿久津隆)を読む。やはりダラダラヌルヌルと読んでしまうが、読んでいるあいだは慣性が働いているように飽きることなく読み続けられる。これは素晴らしいことではないか、と思った。

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