12月10日(「赤」「終わり」『ビリジアン』)

・大学のオンライン授業が終わったあと(ほとんど聞いていない)、近くのスタバに行って『ビリジアン』(柴崎友香)のつづきを読む。

・「赤」。えげつなくバイオレンスな回だった。「金魚」や「ナナフシ」なんかもそうだけど、小学生パートは中、高に比べると、病気や恐怖など、重たくて、切迫した空気が基調としてある(逆に高校生パートになると、明るさや軽さの方が強くなる。ほとんどの回にアメリカのスターが登場するように、より遊戯的な感じ。あ、全く関係ないけど「片目の男」のリバーの目の色が青から緑にブレるシーンの出所が、「ピーターとジャニス」だと今日気づいた。これを前に読んだとき、ピーターの目が緑色なことが何度も強調されるから、それが不可解で気にはなってて、ようやく謎が解けた。時系列的には「片目の男」は「ピーターとジャニス」よりも前のはずだから、「片目の男」のわたしの世界は未来のわたしの記憶によって乱されていることになる。こういう仕掛け、すごいなぁと思う)。

特に今回は読むのがすこし読むのが辛くなるくらい、「わたし」がひどい仕打ちを受けている。最初、教室のカーテンや机の描写から始まり、途中で、まるでそれらと自分から流れた血がほとんど等価値の情報であるかのように淡々と描写される(余計にこわい)。しかも、ある人物にわたしが殴られ、その人物が先生から注意を受けるというやりとりがその日だけですでに五回目らしい。いくらなんでも学校で1日に五回も同じ人物に殴られるというのは常軌を逸している。

「赤」は『ビリジアン』のなかでは、「金魚」と姉妹のような関係にある作品だった。タイトルの換喩的な近さや年齢の近さ(十歳と十一歳、年齢の唐突な提示の仕方というか「現在」のわたしのフレームインの仕方も似ている)もそうだけど、わたしが掃き掃除をする場面やわたしがいじめられているような場面が両方の作品にある。そして、「金魚」のわたしが東の生駒山から太陽が登ってくるのを窓から見るのに対して、「赤」のわたしが西の六甲山へ太陽が沈んでいくのを廊下から見るというきれいな対称関係もある(これにはちょっとした不穏さがつきまとうのだけど…。)

当時のわたしには少し気の毒だけど、最初のシーンで虐められているわたしによってなされる情景描写はとても魅力的だ(わたしに対して同情や慰めを求めるような語りは一切なされず、恐ろしいほどに淡々としている)。

≪ わたしは右手で、机に落ちた血をこすった。血は、手を動かした方向に伸びた。机の上の刷毛で塗ったみたいになった血も、すぐに赤茶色く変色して乾いた。生温かい風が、カーテンのあいだから吹き込んできた。その度に、長く重いカーテンは昆布みたいに揺れた。≫

・「終わり」、時期的にも内容的にも「ピンク」のつづきだった。今回はマーサ・プリンストンの代わりにマドンナが出現する。ところで「ピンク」の終盤でわたしは半分幽霊になっていた。今回もその気配がある。教室のシーン。

≪ 昼休みには、教室には誰もいなかった。電気は消すことになっていたから、薄暗かった。廊下側の窓際の席で、暇だからなんにもしていなかった。運動場から騒がしい声が聞こえてきた。冬だから、外側の窓も廊下と教室を隔てる窓も閉まっていた。あとは瓶に閉じ込めたみたいな柔らかい音に聞こえた。……≫

昼休みとはいえ、50人いるクラスで教室に誰もいないというのはさすがに不自然だろうし、わたし以外誰もいなかったではなく、誰もいなかったと書かれるのもかなりあやしい。少なくともこのときのわたしは「向こう側」に行ってしまっていると思える。そして、学校を早退し、電車の中でマドンナと会い、映画を観て、「ピンク」にも登場した百貨店に入ったあと、帰るときのシーン。

≪広い歩道橋を歩くころには暗くなっていた。人がたくさん歩いていた。一人残らず知らない人だった。誰もわたしを気にかけなかった。どこにでも行ける、と思った。

 わたしはどこにでも行ける。その意思があれば。

 映画で見た場面を真似して、ちゃかぽこちゃかぽこと歌いながら帰った。≫

もうこの辺とか、確信犯としか思えない。極め付けがラストシーン。

≪ 学校を出て裏道に入ると、角のところに男の子たちが三人いた。近寄ると、角の電柱の真ん中あたりに自転車が掛けてあった。

「誰やねん、どないすんねんこれ」

 中島が地面にしゃがみ込んでいた。自転車通学も禁止だった。だから自転車で来る子は、少し離れた場所で停められそうなところをいつも探していた。佐々木と島村が、自転車を見上げてげらげら笑っていた。中島の自転車を、誰が、そしてあんな高いところにどうやって引っ掛けたのか、わからなかった。隣にいた愛子もわたしも大笑いした。

「あんた、どうしたん、あれ」

 愛子は座り込んで、自転車を指差して笑った。

「知らんって。あー、めんどくせー。誰かチャリ貸してくれよ。おい、いい加減笑うのやめろや」

 中島は必死で言っていたけど、わたしたちは笑うのをやめなかった。≫

この作品では中学生パートなのにもかかわらず、このラストシーン以外、愛子は一切登場しない。そして、作中のほとんどをわたし一人で行動しているため、この最後のシーンも一人で歩いているのだろうと想像しながら読み、裏道にはわたしと≪男の子たちが三人≫(中島、佐々木、島村)しかいないものと思っていると、本当に唐突に≪隣に≫愛子が出現する。この愛子の振る舞いは「黄色の日」における唐突な出現と消滅とほとんど同じだと思う。

「黄色の日」の時点ですでに愛子はほとんど幽霊であり、「十二月」ではわたしと愛子がほとんど双子のような存在として描かれ、「ピンク」ではわたしも幽霊と化す。というか、愛子は(「書くこと」によって)半ば幽霊化した「わたし」によって発生した本物の(双子の)幽霊なのではないか。だから、愛子は実質的にわたし(中学生)が生きている世界においては潜在的にいつでもどこでも存在していて、出現と消滅が自由になる(最初の「黄色の日」では幽霊の愛子が出てくる時期を間違えてしまったと考えられる)。「終わり」のラストで隣に愛子が唐突に出現するというよりは、最初から最後まで愛子は実はずっとわたしの隣にいた、と言ったほうが読んだときの衝撃を正確に表している気がする。

(ここで書いていることだけ読んでもぼくがトンデモ言っているようにしか見えないかもしれない。一応、「黄色の日」や「ピンク」についての感想のところで結構踏み込んで書きました。あ、でも、それよりもこの作品を実際に読んでみてから判断して欲しいです)

・『ビリジアン』は一見、普通の私小説としても読めるのだけど、深く読み込むともっとヤバい想像ができる。陰謀論的な想像力をフルに働かせると、わたしは小学生の時点でなんらかの原因で既に死んでいて、中学生パートや高校生パートは「あの世」なのだ、という想像もできなくはない。実際、いまのところ中・高校生パートにのみ大阪にいるはずのない有名人がわたしの知り合いとして登場し(もちろん、小学生当時のわたしがそれら有名人を単に知らないということもあるだろうけど)、その中の何人かはすでに「この世」にいない。そして、特に高校生パートは明るく遊戯的で夢のような空間に開かれているのに対し、小学生パートは重くて暗い現実の存在感が強い。中学生パートではまだ「この世」に対して未練があるため、幽霊として「この世」と「あの世」のあいだに(愛子とともに)出現し、高校生になると「あの世」で楽しく暮らしているのではないか、などなど…(そうでなくてもこの作品には、現実と夢が拮抗してあるように、「この世」と「あの世」が同一平面上に置かれているような感触がある)。こういうヤバい想像をさせてしまうのも、この作品の広がりや深さなのだと思う。なので、この作品を読んだ他の人の感想もぜひ聞きたい。

・『中二病でも恋がしたい!』の5.6話をDVDで観た。とても良かった。5話で、今までの幸福な感じからちょっとズレて、立花の孤独みたいなものが現れてきたところで少しうるっときてしまった。

・空と山がほとんど同じ平面にあった。

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