12月6日(「アイスクリーム」『ビリジアン』)

・今日も『ビリジアン』(柴崎友香)のつづきを読む。もうこの小説を何日もかけて読んで、それについて書いてを繰り返しているのだけどまだ半分にも達していないのが驚きだ。それだけこの作品に多くのことが濃すぎるほどに、詰め込まれているということなんだろう。

・「アイスクリーム」の二段落目を読むと、前回の愛子シリーズからまた、過去のわたしと現在のわたしの二重フレーム型の作品に戻っていることがわかる。

≪ 朝、なぜか早く学校に着いた。めずらしかった。結局高校三年間は無遅刻一欠席だったけど、予鈴と同時に駆け込むのが普通だったし、一年生だったから自分が今後遅刻しないなんてまったく予想していなかった。下駄箱のロッカーを開けると、ムラさんたちに貸していたカセットテープが入っていた。メモがくっついていた。「ひばりさん、死んじまったね……」。朝刊の一面もそのニュースだった。≫

これまでのほとんどの短編と同じように、現在と過去に存在する(した)2人のわたしが構成するフレームが語りのレベルで重ね合わされている。おそらくこの段落では二、三文目が現在わたしによるものであり、それ以外の文が過去のわたしによるものだろう。

(また今度、『ビリジアン』におけるフレームの重なりとズレや、虚と実の関係の仕方を『電脳コイル』や『ロボティクス・ノーツ』などの作品と比較しながら考えてみたい(まだ観たことがないからしばらく後になりそう)。書籍化もされている、古谷利裕さんの「虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察」という連載の「仮想現実とフィクション」の回でこれらの作品が論じられているのだけど、今のところ『ビリジアン』という作品は古谷さんの言う「虚実一体型」と「多重フレーム型」の両方に関係していそう。

https://keisobiblio.com/2016/08/03/furuya06/

https://keisobiblio.com/2016/08/24/furuya07/

例えば、前回の「ピンク」のような作品ではわたしが経験した「単一の過去(実)」に対して、わたしから発生した愛子という存在を媒介にして「魔法化した過去(虚)」が重ね合わされ、「一つの多層的な」過去(実-虚)が出現している。その実-虚の関係の仕方は「虚実一体型」の作品と似ているところがある(終盤のわたしの「幽霊化」とも関係があるかもしれない)。

愛子が登場しない作品においても、虚と実は区別が難しいかたちで混じっているが、「語るわたし(実)」→「語られるわたし(虚)」の回想という形式がフレーム(窓)の存在を強く意識させる点で「多重フレーム型」との共通点がある(柴崎さんがどこかで小説は結局伝聞、というような話をしていたのだけど、それはこの想像的なフレーム(窓)の存在のことではないだろうか)。だが、ポケモンGOポケコンにおいては身体が現実の側にあり、窓の先に入ることはできない。しかし、『ビリジアン』では身体が実際に窓の中にあり、わたしが本当に「そこ」にいるような語りが意識的になされ、むしろ基本的に語りの主導権は「そこ」にいるわたしであるように思われる。同時に窓をみている「ここ」にいるわたしの存在感もとても強くあり、「そこ」のわたしが経験している出来事が現実である(あった)ことを保証する(実)とともに、「そこ」のわたしが生きている現実の単一性を無化し、過去の世界を遊戯的に拡散させる(虚)という役割を担っている。「ここ」にいるわたしが虚構を発生させる存在として出現したとき、「そこ」にいるわたしの世界は一気に底が抜けたようになってしまう。『ビリジアン』では、フレームの内にも外にも同等の強さを持ったわたしが存在するため、この作品においてわたしが複数存在すると言うときほとんど比喩ではないだろう。

たとえば、「黄色の日」においては「ここ」にいるわたしの語りが「愛子がいた世界」と「愛子がいなかった世界」に過去を分岐させ、しかもどちらかに収束することがないまま放置されるため、「そこ」にいるわたしが経験している出来事が、現実の過去のどこかの時点に着地するという保証、すなわちいま生きている世界が現実だったという保証がなくなってしまう(≪やっぱりそのとき愛子はいなかったかもしれない。≫)。

≪ わたしはまたげらげら笑った。横を通った子どもがかき氷を持っていたので、七井はかき氷が食べたくなって買いに行った。わたしはいらなかった。隣のテーブルに座っていた男が振り向いた。リバー・フェニックスだった。髪が黒いから気がつかなかった。

「元気?」

 リバーはわたしに聞いた。目は青かった。緑だったっけ。≫(「片目の男」)

上のように、「そこ」のわたしが経験した(している)世界を支えるフレームが「ここ」のわたしによって揺るがされたとき(≪緑だったっけ≫)、「そこ」のわたしはそのときどういう状態にいるのか。少なくとも「そこ」のわたしにとって、リバーの目を見た瞬間から世界は一気に現実感のない不安定なものへと陥り、潜在的に無数の世界(夢)へと拡散していくのではないか(夢であるという感触を、見ている「そこ」のわたし本人が自覚しないとしても)。

『ビリジアン』の虚と実の関係や複数のフレームについて考えるときに、古谷さんの議論(「虚実一体型」や「多重フレーム型」)はとても良い補助線になりそうなのだが、ちゃんと接続して考えようとしたとき、もっと詰めて考えていけないところがたくさんあるような気がする。とりあえず、『電脳コイル』や『ロボティクス・ノーツ』を観てから考え直したい。)

・「アイスクリーム」は「ハイポジション」(『ドリーマーズ』)を思い出すような、上下運動の激しい作品だった。最初の文は、≪高校の二列ある校舎は間を渡り廊下で繋がれていて、上から見るとHを二つ重ねた形、もしくは二段だけのハシゴみたいな形をしていた。≫と、高校の俯瞰図のようなものが語られる。そして、学校に着いたあとわたしは四階まで階段で上り、教室についてからは中庭を見下ろして、女が男に手紙を渡すのを覗き見る。「ハイポジション」と少し異なるのは、あの作品ではわたしの身体自身が移動することはなく、視線が上下に動くことで想像上のわたしの身体だけが移動するのに対し、この作品ではわたしが実際に上下に激しく運動する。わたしはアイスを食べに非常階段を降り、一階で見た棕櫚の木を、四階の教室に戻った後再び見る。数学の先生が体育館の方から歩いてくるのを見下ろす。そして授業が終わった後わたしは自転車で坂を上る。この作品のかなりの部分が、身体が空間的に上下に移動する運動や、各人物の見上げたり見下ろしたりといった動作によって構成されている(「ハイポジション」では「見られる側」は見られていることに気づくことができなかったが、「アイスクリーム」では、水野さんが四階から見ているわたしたちの視線に気づくことができた。この違いも重要かもしれない)。

・この作品はこれまでのあまりにもぶっ飛んだ作品群に比べれば少し地味な印象がある。しかし、この「アイスクリーム」という作品の空間的な上下運動が、『ビリジアン』という作品を動かしている、「ここ」(メタ)から「そこ」(オブジェクト)へのわたしの激しい往復運動の隠喩となっているのだとすれば、かなり重要な位置にある作品ような気がしてくるし(「金魚」でわたしが窓を眺めているシーンのような)、今後の展開次第でさらに重要度が増しそうな気配がある。他の作品に比べて、「そこ」のわたしの世界が安定して、「ここ」のわたしの存在感があまりないのも、この作品では「そこ」のわたしの運動が隠喩する対象である「ここ」のわたしの役割を外部から取り込み、「語られる(見られる)」側から「語る(見る)」側へ移行しているからと考えれば納得がいく。

 

・母の実家の近くを散歩。近所の公園には猫が何匹かいて、そこに行けば毎回二、三匹は猫を見ることができるのだけど、今日はいなかった。

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