12月3日(「十二月」「ピンク」『ビリジアン』)

・今朝外に出たら、冬の空気の匂いになってると思った。

・詳しくは書かないけれど、とある事情があって、急遽実家に帰らないといけなくなった。夕方、電車に乗った。車窓から見えた雲は灰色ではなくて青色だった。少し赤色でもあった。

・『ビリジアン』(柴崎友香)のつづきを読む。昨日読んだ「金魚」から「十二月」、「ピンク」と続く。この二つの短編は、幽霊の愛子が登場する(ぼくにとっては、だけど。「黄色の日」の感想を書いた11月10日の日記を参照)。そして、これら愛子シリーズの短編は愛子が大活躍する回だった。

・この二つの短編はこれまでと少し毛色が違うといえる。たとえばこれまでの短編では、「黄色の日」や「片目の男」、「金魚」などに顕著なように、小説内で(オブジェクトレベルの)わたしが経験している出来事=記憶が、それを語る他ならぬ(メタレベルの)わたしによる何かしらの介入を受け、ときにはその場で書き換えられることによってわたし(オブジェクト)が経験する現実の地がつねに揺るがされる。それは、この小説の話者が「語るわたし」と「語られるわたし」のあいだを絶えず揺れ動き、複数のわたしのフレームが重ね合わされたような語りになっていることによって起きている。最も特徴的なのが「黄色の日」の愛子であり、小説のなかで愛子は実際にわたしに話しかけ、2人で会話もしているのにもかかわらず、数行あとに≪やっぱりそのときに愛子はいなかったかもしれない。≫と他ならぬわたしによって愛子の存在は無かったことにされる(そして、この一文の後「黄色の日」で愛子が登場することはない)。対して、「十二月」と「ピンク」の語りのフレームは(以前の短編と比べればマシという程度だが)それなりに安定している。学校、あるいは大阪市、周囲の人物との関係はわたしにとってまず第一のものとしてあり、以前のように別の時間軸にいるメタレベルのわたしがズケズケと過去のわたしが生きている世界のなかに介入していく、という運動は表面上は抑制されているように思える。そういえばだけど、同じく愛子シリーズの「火花1・2」もその傾向がある。そう考えると、愛子が登場する作品は、その他の短編とは異なる組成で世界が生成されていると暫定的に言えるかもしれない(「黄色の日」の愛子は途中で存在しなかったことになるので愛子シリーズには入らない)。少し考えてみる。

・まず、「十二月」から。愛子が、わたしを除くすべとの登場人物のなかで、単純に登場回数から言っても、特別な位置にいることは間違いがないだろう。そして、端的に言って愛子はヘンな人物である。他の短編にも必ず1人はヘンな人物が登場するが(わたしはずっと彼らに匹敵するくらいヘンである)、愛子シリーズにおいては主に愛子がこの作品に必要不可欠な「ヘンさ」を引き受けているように見える(少しズレるかもだけど「火花」で異界の雰囲気が漂う港にみんなを連れていくのは愛子だ)。この「十二月」における愛子も、どことなく(かなり)ヘンである。具体的に見ていくと、まず、最初の場面で愛子は「何分?」と質問し、わたしは当然現在の時刻を答えるが、それに対する愛子の返答は「ちゃうちゃう、ここに何分おる?」である。普通に考えて、「何分?」とだけ聞いて「ここに何分いるか」の答えを期待するのは無理がある。他には、会話の途中に≪「にゃー」愛子が鳴いた。≫と唐突に猫の鳴き真似をしたり、真冬なのにも関わらず唐突に「アイス食べたい」と言い始める(わたしに突っ込まれる)。これら以外にも言動が唐突なところは結構ある。そして、もう一つ重要だと思われる愛子の特徴に「わたしとの距離」がある。この作品においては、わたしと(一部を除いて)それ以外の登場人物は完全に切り離されており、乱暴に言ってしまえば「わたし」と「それ以外」である(わたしにとって好ましい人物の西山先生ですらそうである)。唯一の例外が、一緒に花火をしたメンバーだろう(「火花」には≪わたしたちは楽しかった。≫のような文がある)。そして、「十二月」を読むかぎり特に愛子とわたしの結びつきは強く見え、わたしと愛子は間違い無く違う人物なのだが、二人がほとんど未分化な状態にあるように見える瞬間もある。最初の段落の≪わたしも愛子も、両手をセーラー服の裾の内側に入れて背中を丸めていた。≫や≪きゃー、と愛子と二人で言ってみた。≫など。最も顕著なのが愛子とわたしが喧嘩をするシーンである。

≪「噛まれたことあるからマルチーズだけは絶対いや」

「どこ?」

「手。ああいう顔の犬は全部嫌い。シーズーとかも、まったくどっこもかわいないやん」

「ほんならなにがええの?」

「おんなじ系統やん」

「どこが?絶対違う」

「意味わからん」

「なんでよ。どこ見てんのよ」

「鼻とか目とか口とか。解、変なこと言うわ」

「違うって。どう見たって、似てるとかなんか一か所もないやろ」

「はぁ?」

 愛子もわたしも苛ついて、しばらく黙った。≫

こんなに極めてしょうもないことで喧嘩をするのは、むしろ愛子とわたしがほとんど鏡像的な関係にあり、自他未分化な面があることを示しているように見える。しかし、同時に愛子はわたしとはちがう人物であり、たとえば愛子が唐突に「アイス食べたい」と言ったとき≪わたしにはそんなことは考えられなかった≫と言われる。ところで、愛子について言及するとき何度も「唐突」という言葉を使ったのだけど、愛子シリーズ以外において、この「唐突さ」を担っていたのは「語るわたし」(メタ)である。そして、これまで述べてきた愛子の特徴を見てみると、愛子はメタわたしなのではないかと思えてくる。ヘンであり、唐突であり、それはほとんどわたしであり、わたしとは違う人物である。実際、次の短編の「ピンク」では、これまでわたし自身によって担われてきた、わたしが生きる現実に虚構を持ち込むという役割をこなしているのは愛子であるように思われるのだ。

・「ピンク」は愛子の体操服が薄いピンク色になっていたという場面から始まる。この小説がいつものように「現実」から浮遊していくのはその次の週である。次の週の体育では五十人のうち五人の体操着がピンクになり、それだけではなくベビーピンク色のスウェットを着たマーサ・プリンプトンが学生として登場する(しかも『グーニーズ』のステフ役のマーサ・プリンプトン!)。この夢のような体育の時間は、他の短編のようにメタわたし、もといメタとオブジェクトの絶えざる往復運動によって生み出されたのではない。語りのフレームは当時中学生のわたしによってほとんど安定している。この非現実感漂う時空間を生み出したのは他でもない愛子だ。まず、わたしの世界に愛子がピンクを持ち込み、そのピンクは当時のわたしが住む空間にじわじわと広がっていき、最終的にマーサ・プリンプトンを出現させる。愛子シリーズでは、「語るわたし」の存在はさらに後景に退き、虚構生成の役割は愛子へと受け継がれていると言えないだろうか。

・ぼくは「黄色の日」を読んで愛子をほとんど幽霊だと思った。「ピンク」の後半を読むと、それが間違っていなかったように思える。「ピンク」の後半のわたしが幽霊にしか思えないからだ。次の一文、≪細長いシートのどこかに座って、向かいに並ぶ人たちを見ていた。≫を読んだとき度肝を抜かれた。普通に生きている人間がいったいどうすればシートの≪どこか≫に座ることができるのか(こんな文が書けてしまっていいのか…)。それだけではない。さっきの一文が含まれる段落を全部引用する。

≪細長いシートのどこかに座って、向かいに並ぶ人たちを見ていた。四歳ぐらいの男の子とおばあちゃんが、自動販売ごっこをしていた。おばあちゃんが何回透明な百円玉を渡しても、男の子は透明なリポビタンDばかり買った。六回目にようやく、オレンジジュース、と叫んだ。人が増えてくると、吊革に体重を預けた人たちが目の前に並んで、窓が見えなくなった。それでも彼らの隙間を通ってほとんど真横から差してくる夕陽が、わたしの顔や手を貫通していった。≫

最後の一文を読んだとき、思わず「透けとるやん!」とツッコんでしまった。透明になっているのは百円玉やリポビタンDだけではなく、もっと重要なことが、それを見ているわたしが透明(幽霊)になっているということが、起こっている。ちなみにこの引用の一文前の文は、≪森ノ宮駅の鉄骨と壁は薄緑色、桜ノ宮駅桃谷駅は薄ピンク色に塗ってあって、そういうことをする人間てかわいいと思った≫である。「ピンク」の後半は、ぼくにはほとんどホラー小説であった。特に最後の場面がヤバい。

≪ 家の近くの横断歩道の手前で、石田さんと小山さんとあと三人ぐらいに会った。塾の帰りみたいだった。それぞれ自転車を押していた。街灯の白い光の下で小山さんが聞いた。

「どっか行ってたん?」

「買い物とか」

 答えたわたしのなにも持ってない両手を、石田さんは素早く見た。

「なに買うたん?」

「なんも、見るだけ」

「お金ほしいなあ」

 誰かが言った。

「うん」

 素直に頷いた。誰かがまた聞いた。

「百万あったらなに買う?」

 誰かが答えた。

「服、ほんで旅行行く」

アメリカ?」

「カイロ。ピラミッド登る」

「登ってええの、あれ」

「わたし、漫画めっちゃ買う。漫画図書館にするから、みんな来てええで」

 得意げな表情で、石田さんが言った。

「タダ?」

「一時間百円、貸し出しは五十円」

「図書館ちゃうやん」

「漫画部屋?」

「一冊三百五十円として、百万やったら……二千八百冊ぐらい買えるやろ。一日百冊貸し出してー、えっ、五千円しかならへんやん」

「計算速すぎるで」

 わたしが言うと、走るのも計算も速い石田さんは、

「なんでもやってみなわからんな」

 と、言った。

 駅へ向かうバスはまた通った。青白い光の満ちた車内には、運転手以外誰も乗っていなかった。

 自分で稼げるようになりたいと思っていた。≫

引用した部分はもはや小説としては破綻寸前、カオスに陥る一歩手前まで来ている。しかし、ぼくが一度目に読んだときに、明らかに違和感を感じながらも、とりあえずは普通に読めてしまったという経験がここで強い意味を持つだろう。夢(のような)と現実(のような)がつねに拮抗し続けているこの作品において、この場面は最も夢=カオスに近づいているのは確かだが、これまでの短編で描かれ続けた、わたしがたしかに生きてきた過去の厚みがカオスの一歩手前で踏みとどまらせる。

・この「ピンク」という短編は、『ビリジアン』のなかで、「黄色の日」や「金魚」と並ぶくらいすごい地点にたどり着いているかつ、決して欠くことのできない重要な位置を占めていると思われる。「ピンク」が無かったとしても『ビリジアン』は十分すぎるほどすごい作品だが、この作品でわたしが果たしていた役割を愛子が代替していることの重要性は無視できない。複数に分裂しているとはいえ、この小説のなかの出来事=記憶が、結局わたしという一つの主観世界に収束しかねないところを、愛子を媒介にすることでわたしだけではないこの世界へと開いていく。