12月11日(「Fever」〜最後まで『ビリジアン』)

・大学の授業が終わったあと(ほとんど聞いていない)、近くのスタバに行って『ビリジアン』のつづきを読んだ。

・「Fever」「フィッシング」と高校生パートがつづく。わたしが高校生のときはかなり安心して読める。ひばりちゃんが出てくるときはたいてい楽しい感じなので癒される。高校生パートは『星のしるし』や『ドリーマーズ』より前の柴崎さんの小説のように読むことができる(『ビリジアン』の中にある以上、楽しいだけというわけにはいかないのだけど)。とくに「Fever」は舞台がおなじみのライブハウスで、少し懐かしくなった。昨日の「赤」を読んでから、若干疑い深くなっている。「フィッシング」には、ルー・リードが登場する。アメリカ人の登場の場面でいつもと違うのは、わたしがルーに対して、これまでの有名人の登場の人選に関して直接質問していること。有名人の人選をしているのは他でもない(いまの)わたしなのにもかかわらず、過去のわたしがそこにいるルーに対してそのような質問をするのは、かなり今更な気もするけど奇妙だ。ここでは、もうすでに過去のわたしが現在のわたしからほとんど分離し、別の記憶を持つ別の生き物として生きているということを強調しているのだろうか。

・「目撃者」。わたしが小学生だと分かり、気分がズーンと重くなる。「赤」以来の小学生パートでビクビクしながら読んだが、途中でわたしと親しい西山先生が出てきて少し安心する。でも、終盤のわたしの横井さんに対する振る舞いでまた怖くなった。「赤」はわたしに対する誰かの純粋な暴力と、それに対するわたしの無関心が恐ろしかったのだけど、今回は「赤」で暴力を受けているときの心の動かなさというか、ある意味非情なところが、反転してわたしから他者へと暴力として向かっていた。時期的には「目撃者」の方が先だけど。

・「白い日」。中学生パートのラスト。いつも通り、ずっと愛子と行動している。白い日になる前に、黄色い閃光が残像になって見えたのは、「黄色の日」の残像なのだろうか。タイトルも似ているし、(あの時は幽霊としてだけど)愛子も登場するし。スケートボードからわたしが落ちるシーンで、このままわたしが死んだんじゃないかと、ちょっと思った(昨日のわたし死亡説。現世における最後の記憶的な)。

・「赤の赤」。この作品はラストでわたしが中学生のわたしと出会う。時期的にも格好的にも(手ぶら)、そのわたしは「ピンク」のわたしだろう。だとすれば、ラストのこの衝撃的なシーンも納得できる。「ピンク」はわたしが最も「この世」から遠ざかり、幽霊となって街を動き回る作品だということはすでに見た。こんなふうにわたしの前に過去のわたしが登場するのだとすれば、「ピンク」のわたし以外に適任はいないだろう。この作品はたぶん、過去の記憶をカットアップ的にランダムに並べているように見えて、その裏に緻密な構成があるのだと思う(伏線以下の伏線とその回収)。

・「ピンク」ー「赤の赤」のペアに対して、最後に置かれているのが「船」ー「Ray」のペアにだろう。「船」のわたしは「Ray」のわたしを見るし、「Ray」のわたしは「船」のわたしを見たのだと推測できる(しかし、「赤の赤」と違って、どちらかのわたしが相手のことを(過去あるいは未来の)わたしだと認識することはない。この違いはたぶん重要なのだと思う。わたしの幽霊とそれを過去のわたしとして出会うパターン1と、わたしの幽霊と匿名の誰かとして出会うパターン2)。「ピンク」でわたしが幽霊になって「赤と赤」におけるわたしとの出会いを準備するのと同様に、「船」でも「Ray」でわたしと出会うための準備が行われているように思える。「船」はほとんど、わたし一人で歩きながら、誰とも話すことなく周りの景色だけを描写する記述がずっと続くため、夢のような浮遊感がある(≪風はなくて空気には重さがあったから、速く歩けなかった。≫という文は、夢のなかで早く移動しようとしてもできない感じを表現しているみたい)。そして、ラストのシーンで男の子に「どっか行ってた?」という質問に対して、「ちょっとそのへん」と答えているのも、ここではないどこかへわたしに会いに行った、という意味にとれる。「Ray」のラストではわたしがフィルムの中にわたしを観る。これまでずっとわたしによって見られる(語られる)存在だったわたしが、わたしを実像として見る(語る)。ずっとこの小説のなかで流れる時間の外にいたわたしの視点を、小説の中のわたしが取り込むことでこの作品は幕を閉じる。

・『ビリジアン』を読んで、その感想を書くというループが一旦終わった。もしかしたら、後にも先にもこんなに熱量を持って一つの作品に対して考えて書くというのはないかもしれない。作品について書く、というのが不慣れで、毎回あっち行ったりこっち行ったりして、フラフラしている感じの思考だけど、それはそれで良かったのかもしれないとも思う。何より書いていてとても楽しかった。