11月28日(「片目の男」『ビリジアン』)

・小鷹研の展覧会が始まる11時に名古屋に着いているためには朝の6時くらいに起きなければならなかった。アラームをかけていたので一度は起きた。6時に起きるのなんていつぶりかも覚えていないけど、この時期の6時はまだ真っ暗だった。起きた瞬間から二度寝するだろうなって分かっている感じでもう一度目を瞑って起きたら7時になっていた。早朝の窓から見える風景は、普段ほとんど見ることができないのもあってとてもきれいだと思った。流石にベッドから出て顔を洗って準備をした。朝早いからバスに座れると思っていたけど、とんだ勘違いで多くの人はこの時間に通勤、通学していてむしろとても混んでいる時間だった。

・名古屋までの電車のなかでトイレに行きたくなって、一両目にトイレがあると思って行ってみたけどなかったので引き返そうとすると、その車両の1番後ろの席のおじさんが「6両目だよ、トイレでしょ」と教えてくれた。よく見るとそのおじさんの隣にはマルチーズがいた。電車の中で犬を見たのは初めてかもしれない。

 

・行きの電車の中で『ビリジアン』(柴崎友香)のつづきを読む。「片目の男」を読んだ。この作品も「語るわたし」と「語られるわたし」が未分化のままになっている。例えば次の段落。

≪重いドアを開けると、湿気がわたしを取り囲んだ。梅雨だから曇っていた。夏至のすぐあとだからまだ明るかった。屋上には人はまばらだった。何曜日だったかわからないけど、学校に行ったあとだった。ベンチの間を行ったり来たりしていた鳩が飛び立ったので見上げると、頭上の広い空間はどこまでも空だけだった。白い雲の厚さにはばらつきがあって、斑になった隙間から夕方の色をした日差しが透けているところがあった。そのときはまだ屋上の端に小さい観覧車があった。その向こうに架かる虹の写真を撮ったのは、その八年後だった。≫

普通、一文目のような生々しい描写と四文目の≪何曜日だったかわからない≫のような記述がこんなに近くに置かれるのはあり得ないだろう。湿気に取り囲まれているわたし(「語られるわたし」)と何曜日だったかわからないわたし(「語るわたし」)の主ー従関係はつねに不安定でどちらにも転び得る状態にある。「語るわたし」は多くの語りの中で、自らの存在を主張することなく隠れているが、しかし「語られるわたし」が存在している場は「語るわたし」によって生成される虚構によって成立している。このような構造がリバー・フェニックスの唐突な登場を準備する。

≪ わたしはまたげらげら笑った。横を通った子どもがかき氷を持っていたので、七井はかき氷が食べたくなって買いに行った。わたしはいらなかった。隣のテーブルに座っていた男が振り向いた。リバー・フェニックスだった。髪が黒いから気がつかなかった。

「元気?」

 リバーはわたしに聞いた。目は青かった。緑だったっけ。≫

≪緑だったっけ≫の唐突な「語るわたし」の登場はリバー・フェニックスの登場の驚きを上書きする強さを持っている。「語られるわたし」によって安定していたフレームが「語るわたし」の登場によって揺るがされるのだ。関西弁を喋るリバー・フェニックスが代表しているようなこの作品の不思議な非現実感はフレームの不安定さによってももたらされている。おそらく、使用される名詞の抽象度の高さもそれに輪をかけている。例えば、七井の青いTシャツについて、≪遠い国の名前が書いてあった。わたしはずっと前からそこに行きたかった。≫と語られるが、「黄色の日」と照らし合わせるなら、その国の名前は「マダガスカル」である可能性が高い。行きたいのは他でもないわたしなのに、わざわざ≪遠い国の名前≫という言葉が使用され、作品内部におけるわたしの濃度が希薄される。そしてそのすぐあとに出てくるかき氷には、≪赤い透明の液体≫がかけられる。「いちごのシロップ」→「赤い透明の液体」は認知の順番を逆行する抽象化があえて行われているように思われる。

・この日常から浮遊した非現実感には不可避的に不穏さがまとわりついてしまう。例えば「現実」のリバー・フェニックスは少なくとも「語るわたし」にとって彼はすでに死んでいるはずで、そのことが「語られるわたし」が経験している出来事に死の気配を纏わせる(作中のリバー・フェニックスが現実の彼とはまったくの無関係の人物だったとしても)。この不穏さが噴出しているのが次の一文ではないだろうか。≪なんとなく振り返ってみると、高層ホテルがこのあいだと同じ場所にあった。≫このとき作中においては7月に入ったばかりで、前回<わたし>がこの高層ホテルを見たのは夏至を過ぎてからである。下手したら1週間も経っていない。1週間前にあった高層ホテルが今日見たときに消えているなんてことは普通は考えもしないのではないか。しかし、ここでわざわざ≪高層ホテルがこのあいだと同じ場所にあった≫と書かれるのは「ない」という可能性が少なからずあった、とこのときの<わたし>は認識しているからだろう。つまり「語られるわたし」はいま経験しているこの世界からなんらかの兆候を受け取っている。そして、その兆候は「語るわたし」によってはじめて出現するものだ。「語られるわたし」の視点に限定するならば、本来「語るわたし」は未だ存在しないのだから「語られるわたし」→「語るわたし」の認識は成立しないはずである。しかし、異なる存在である2人の<わたし>は同時に同じ<わたし>でもある。だからこそ、(過去から見て未来の)現在の<わたし>によって遡及的に出現した世界の兆候を、過去の<わたし>が受け取るという事態が起こりうる。たぶん、作者はこのようなことに「書くこと」のリアリティを感じているのではないか。2日前くらいの日記で『ビリジアン』を「「語るわたし」によって新たに生成された虚構が「語られるわたし」の現実に擬態していく小説」と(小鷹研理の言葉を借りつつ)定義したのだけど、「片目の男」ではこれ以上の広がりが含まれているように思う。

・「片目の男」の感想が思いのほか長くなってしまったので、小鷹研の展覧会の感想はまた明日。