12月2日(「金魚」『ビリジアン』)

・バイトへ向かう電車のなかで『ビリジアン』(柴崎友香)のつづき。この作品に収録されている短編はどれも冒頭がすごい。「金魚」の冒頭もすばらしくて、全部引用したくなったので、する。

≪ 九階のベランダからは、通天閣が見えた。その向こうに、生駒山が見えた。いつも、太陽はそこから昇った。

 ベランダの隅の日陰に、真っ白にペンキを塗った、前は何に使っていたかわからない木の台があって、そのときはそこに水槽が載っていた。プラスチックの安価な、三十センチくらいの水槽だった。その直方体の中身は、水草でいっぱいだった。水草は、最初は金魚鉢の飾り程度に二、三本植わっていたのがどこまでも伸びて、今では水の部分より水草の部分のほうが多くなっていた。プラスチックの内側の表面も緑色の藻がびっしりと覆っていて、少し離れて見ると深緑色の塊にしか見えなかった。

 その中に、金魚がいるはずだった。前の年の夏祭りの金魚すくいで獲ってきた金魚が、二匹か三匹、そこに入っているはずだった。姿が見えなくなって、どのくらい経つのかも思い出せなかった。少なくとも、今年に入ってからは家族の誰も金魚のことを思い出さなくて、餌の袋を見かけたこともなかった。

 その朝、夢で金魚を見るまで、わたしも忘れていた。夢の中で、金魚は小型のフナぐらいに成長し、そして、人間のと同じ形の立派な歯が生えていた。≫

ここまで、この場面はわたしにとっていつのことなのかが示されずに、一行空けてようやく次の文で≪十歳だった≫とされる。この文でようやく、これから語られる出来事が、わたしの過去のある一点の出来事として「現実」に着地すると同時に、逆にこれまで描かれていた場面が夢の方へと浮遊してしまう感触がある。「十歳」当時のわたしの場面であると同時に、もっと抽象的な、特定のわたしではなくわたし全体から発する記憶、というか。たとえば、この小説は「黄色の日」からずっと話者が「語るわたし」と「語られるわたし」の少なくとも二つに分離しているため、最初の文からすでにいったいどちらが語っているのか、誰に通天閣生駒山が見えたのか(いま実際に見えているのか、それとも見えたという記憶なのか)が判然としない。次の段落の文には≪そのときはそこに水槽が載っていた≫とあるので、「語るわたし」(メタ)成分が強いが、同じ段落内の文に≪今では水の部分より水草の部分のほうが多くなっていた≫とあり、ここではすでに「語られるわたし」(オブジェクト)成分が強まっている。別にこの場面に限らないのだけど、この小説は一文一文メタからオブジェクトへオブジェクトからメタヘと目まぐるしく往復運動がなされ、その運動のなかからどこの「わたし」にも帰属出来ない非現実感漂う夢のような記憶=出来事がポロッと出てくるということがある。加えて、いったいいつの「わたし」が語っているのかがそもそも示されていないのに、≪今では≫、≪前の年の≫とか≪今年に入ってから≫という言葉が使用され、この出来事=記憶が着地するはずの時間から浮遊したまま待機することを強いられる(≪姿が見えなくなって、どのくらい経つのかも思い出せなかった。≫や≪その朝、夢で金魚を見るまで、わたしも忘れていた。≫という文も、かなり印象的というか、この場面の独特な雰囲気を表していると思う)。かと思えば一行空けた後に唐突に≪十歳だったから、小学校へ行った。≫とぶっきらぼうに書かれ、ここでようやく「わたし」が着地する場所を見つけ、逆にそれ以前の場面がポンっと宙に浮いていったような感覚になる。だからこそ、冒頭のこの場面にはしばらくここに留まっていたくなるような不思議な魅力があるのだと思う。

・引用した場面の次の段落もヤバい。

≪十歳だったから、小学校へ行った。朝はようやく涼しくなりかかっていた。冬が来る、と思った。九月か、十月だった。≫

・さっき、「どこの「わたし」にも帰属出来ない非現実感漂う夢のような記憶=出来事がポロッと出てくる」と書いたけど次の場面もそんな感じな気がする。

≪授業中、なんとなくノートを半分にちぎって、また半分にちぎって、それをまた半分にして、どんどん小さくして紙吹雪を作った。そして、一塊を岸田に向かって投げた。ひらひらしてきれいだったから、残りも全部岸田に投げた。教壇から、西山先生が言った。

「岸田はスターか」

 わたしは笑った。≫

授業中に紙吹雪を前の席の人に投げるわたしもわたしだけど許す先生も先生だろう(「黄色の日」ではわたしがこの先生に対して好ましい感情をもっていることが書かれる)。この小説の多くの場面で、わたし(メタ)によって構成しなおされた世界で過去のわたし(オブジェクト)は現在進行形で行為し、何かを感じるが、その世界がわたし(メタ)によって作られた虚構でしかないかもしれないという不穏さがある。正確に言えば、それが確かに過去にあったというわたしによって保証される「現実」感と同じくわたしによって持ち込まれる非「現実」感が絶えず拮抗している。のちの場面で西山先生がちゃんとわたしを叱るのはこの拮抗の反映ではないか。

・「金魚」で一番重要な場面が次の場面だと思う。わたしは喘息のせいで寝れなくて二段ベッドの上から生駒山を見る。わたしは白い雲がかかる生駒山を見て雪山のようだと感じる。

≪わたしは、そこを滑り降りる自分をずっと想像していた。だれもいない広い雪原。そこを滑るわたしは、通天閣くらいの大きさだった。≫

まさか本物の通天閣の大きさになって山を滑っていることはないだろうし、この小説の冒頭に≪九階のベランダからは、通天閣が見えた。その向こうに、生駒山が見えた。≫とあるので、正確には「わたしから見えている通天閣」の大きさになっているはずだ。この場面では、「語られる=想像されるわたし」、今回使っている言葉で言うとオブジェクトレベルのわたしが、さらに「通天閣くらいの大きさ」になって雪原を滑るわたしを想像するという風になっている。つまり、『ビリジアン』という小説全体の構造が、この場面にも含まれるというフラクタル構造になっている。たしか、のちにこの小説ではわたしが過去のわたしを目撃する場面が存在するけれど、その出会いとの関連でも重要な場面なのではないか。