2023-9 タイムループと時間のクオリア

こんばんは。すこし前まで、近くの自販機に売ってるぷるぷる?しゅわしゅわ?ゼリーを狂ったように飲んでいたのですが、最近めっきり補充されなくなりました。わたしが飲み干したんですか?これ以上あれがない生活に耐えられそうにありません。助けてください。

 

9月は、大学の友達と一緒に3日間くらい旅行に行きました(連れていってもらった)。次にみんなと出かけるときまでには、わたしも免許取れてるといいですよね。死にてえ奴だけ乗りな!!

 

東京ゲームショウ2023に行きました。バイトで。楽な仕事だったし、お祭り感も味わえて良かったです。それくらいです。あ、スイカゲームで1日溶かした日がありました。

 

9月に観たアニメ。『少女歌劇☆レヴュースタァライト』の話がしたくてうずうずしていました。しています。どんどこネタバレするので嫌な人は飛ばしてね。

 

 

舞台は演劇学校の名門である聖翔音楽学園で、第99期生(現2年生)「俳優育成科」のA組が主役のお話です。そしていきなりネタバレなのですが、この作品は8話でそれまで上映された舞台少女たちの学園生活が、A組の一人である大場ななの願いによって、すでに何度も繰り返されたものであったことが発覚します。実は彼女たちが通う学園の地下では、たった一人のスターを決めるための(キリンが主催する!)オーディション、というか実質的には、勝者と敗者を二分する残酷な決闘が行われていました(ウテナのみたいなやつ)。

 

大場ななはこうした苛烈な競争からクラスメイトたちを守るため、オーディションで一位を取り続け、その度に(そのときまではみんなが幸せだった、と彼女が感じている)一年生時の「聖翔祭」第99回公演『スタァライト』の再演をキリンに要求していました。こうしてループが完成します(ループに気づいているのは大場ななだけです。彼女には、みんなを守りたいという思いとともに、この幸せな時間から抜け出したくないという、ビューティフルドリーマー的な思いがあります)。

 

しかし、何度もループしているうちに差異は蓄積していき(大場なな本人の行動や心情の変化など含めて)、なんやかんやあってN回目のループで神楽ひかりという転校生が現れます。このN回目のループがこの作品の1〜7話だったというわけです。そして、この神楽ひかりの登場→主人公、愛城華恋の覚醒によって大場ななは敗れ、ループが終わります。すごい端折って書くとこんな感じなのですが、ついに時間が前に進み始める9話!がめちゃくちゃすごくって〜、その話をしにきました。

 

学園全体を巻き込んだループがついに途絶え、夜に一人で佇んでいる大場ななをルームメイトである星見純那(好き!)が慰めに来るシーンです。ななは「わたし、間違っていたのかな」と問いかけ、純那はそれに対し、偉人の名言をいくつも引用することで答えます。そのなかにシェイクスピア

「時間はそれぞれの人間によって、それぞれの速さで過ぎる」

という言葉があります。純那によってこの言葉が引用されたとき、わたしは雷に打たれたような衝撃を受けました。ここでこの言葉が、

 

ループに気づいてなかった側の人間による、記憶を保ったままループしていた人間に対する解釈(受けとめ方)のひとつ

であると同時に、

あなたは人よりもずっと長くこの一年間を過ごしていた(感じていた)だけだ(だからあなたのやっていたことは実はたいした問題ではないんでない?)という励まし

になっているんだと感じたからです。

(実際、わたしと他の誰かが同じ時間、場所で過ごしていたとしても、その誰かがその時間をいったいどれくらいの長さで体験していたかというのはクオリアなので、わたしには決して知り得ませんし、そこには必ずズレが生じます。わたしが経験した1年という時間の長さを、その人が(例えばタイムループによって)何千年という長さで体感したと主張したとしても、わたしにはそれを反証する術がありません。)

(わたしも誰かにとっての1年を何千年と体感してえな(?)嘘です)

 

よ杉すご杉。これ以上の言葉ないよと思えるほどでした。ループものでは普通、ループに気づいている人と気づいていない人のあいだで心の距離が開いていき、その隔たりにドラマが生まれます。しかし、この2人からはそうした悲劇性はあまり感じられません(まどマギとかみたいに状況がクソおもではない、ループ構造自体が重要な作品ではないという事情もある)。

 

純那はななが生じさせたタイムループという超常的な出来事を、何気なく「感じていた時間の長さの違い」へと翻訳することで、遠く離れてしまった友人の存在を再び理解し、受け入れる可能性を開きました。ここで生じているのは、分かりあうことは決してできないんだから、お互いのことを誤解しながら分かったふりをしつつ、それでなんとかやっていくほかないのだという、ごくありふれた事態だと思います(そうした「誤解」をきっかけにしか人は繋がれない)。じゅんななな最高!ひとしきり話した後、ななが「こんな楽しい純那ちゃん、はじめて」と言うところも最高〜。長いループを終えたあとと考えると感慨深いです。

 

 

ブーン

 

 

(飛んできた人が着地するところ)

 

思いのほかスタァライトの感想が長く、日記としては十分すぎる量書いたので終わろうかなと思います。この記事を書きながら思ったのは、月1でもべつに日記って言い張ればいいじゃん、ということです。

 

わたしは日常生活のなかで何をするにも時間がかかるし、すぐに脳のメモリがパンパンになってぐえーっとなるのですが、社会に共有された時間感覚と同期しなくてもいいときは無理してできなくてもいいし、特にこういう個人的なことはできるペースでゆっくりやっていけばいいやねと改めて思います。毎日日記を書くのはいまのわたしには無理そうですし(日記書ける前に風呂掃除洗濯洗い物などできなければならない)、このペースでなんとか続けていけたらと思います(24h⇆720h)。そんではまた来月〜。

 

TGS帰りに見た虹

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十五夜 でけ〜

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帰ってきました(カエルだけに)

ブログを書くことを再開したいです。願望なのは、もう何度も再開しようとしては挫折しを繰り返しまくっているからです。このブログはわたしが大学生のときに日記を書くために開設しました。大学を卒業した後も続けるつもりだったのですが、環境がガラリと変わり、毎日の不安とかストレスとかを紛らわすのに精一杯で、本を読んだり文章を書いたりする余裕がない時期が多かったように思います。

 

ブログを再び始めたい理由は、来年以降の生活のための準備です。これはごく最近決まった話なのですが、来年からまた関西に戻っておばあちゃんと二人で暮らすことになりそうです。そうなると、ただでさえ少ない知人友人との関わりがまた希薄になるのですが、文章を読んだり書いたりすることでできた人とのつながりはできるだけ失いたくないです。そこで、継続的に文章を発表する場を今のうちから復活させておこうという目論見です。またTwitterのアカウントを作ったのも同じような理由です。

id→@moko090832(見たらすぐにフォロー!!!!)

 

こんなことを言っておきながら、わたしは前科多数の全く信用ならない人間です。そこで、今度こそ続けられるよう、新たな策を用意してきました。まず、日記をやめて月記?月報?にします。これだけでおよそ1/30の労力。すでに革命的です。なんだかできる気がしてきました。なので、次の記事は2023-9月にあった出来事や読んだ本、見たアニメの感想、作っている作品のはなしとかをまとめた文章になる予定です。さらに、更新頻度を月1にするのに加えて、作品の感想みたいな最も労力のかかる部分はよほど書きたいことがないかぎり簡略化すると思います。

 

8月見たアニメ

サマータイムレンダ ☆ あんまおもんなかった

スキップとローファー ☆☆☆☆ すごくよかった

 

こんなふうに、質の劣悪なAmazonレビューみたいなので済ませることも辞さない構えです。続けるのが第一なので。ちなみに敬体で書いてるのは、その方が肩の力が抜けて書きやすいからです。色々と試してみてます。

 

心機一転のためブログのタイトルも変えました。ポニョがハムを食べるシーンからきています。特に意味はありません(ポニョが肉食なのには大きな意味がありましたが)。

 

ポニョといえば、少し前に卒論で書いた宮崎駿論を何も言わずにこのブログに投下しました(いいから黙って俺のラーメンを食えと言わんばかりの、気難しいラーメン屋のおやじのような振る舞いでした。申し訳ない)。『君たちはどう生きるか』を観終わってから読み返してみて、結構よく書けてるじゃんって思えたのと、あのときが一番読んでくれる人が多いだろうと思ってのことでした。宮崎駿、特にゼロ年代に入って以降の彼に興味がある人がいればぜひ読んでみてください。特にハウル論が力入ってます。

 

こんなところです。力は入れないとはいえ、読んでて楽しい文章にはしたいです。また来月。応援してください。へけっ。

 

 

〈自然〉の死と再生の物語(4)『ハウルの動く城』②『崖の上のポニョ』

第4章 瓦礫と再生——『ハウルの動く城』②『崖の上のポニョ

 

4-1 崩壊していく城と物語

 

 『ハウルの動く城』の終盤はわけがわからない。これに関してはこの映画を観た多くの人が頷くところであると思われる。物語の後半、あまりにも多くの出来事が畳みかけるように起こり、そのなかには不可解な点も多く、真面目に考える人ほど混乱する。なぜ動く城の瓦礫からハウルカルシファーの出会いの場面に通じる扉が突然現れるのか、なぜソフィーが過去から現在に戻ってくるとハウルが都合よくそこにいるのか、なぜサリマンはあっけなく戦争を終わらせるのか。数々の疑問が頭に浮かびつつも、考える間もなく物語が首尾よく、そしてすべてが嘘っぽく目の前を通りすぎていくために、これまで積み上げてきたものを台無しにされた苛立ちとともに、なぜだか笑いがこみあげてくる。

 そうした物語の「積み上げ」ないしは「組み立て」が問題なく進行していたのは、ハウルとソフィーがサリマンの下から脱出し、新居を構えてハウル(夫)、ソフィー(妻)、マルクル(子)に加えて、荒地の魔女とペットのヒンの「家族」を結成したあたりまでである。ハウルは中盤まで「成長」できない子どもであったが、ハウルが以前の母との関係を断ち切ることで、ソフィーも母の代理ではなくハウルの新たな恋人の位置につき、画面上でも若い姿でいることが多くなる。それはハウルの「成熟」を視覚的にわかりやすく示しており、ソフィー(母)―ハウル(子)の関係からソフィー(妻)―ハウル(夫)への変化でもあった。戦中にハウルとソフィーが交わす会話は、ハウルが「子ども」から「父」になろうとしていることを示している。

 

ソフィー「逃げましょう、戦ってはだめ」

ハウル 「なぜ?ぼくはもう充分逃げた」

「ようやく守らなければならないものができたんだ……」

 

 しかし、なかなかソフィーはハウルの思惑通りにはいかない存在でもある。この後ソフィーは結局ハウルに守られるのではなく逃げることを選択する(この場面にはソフィーに「あの人は弱虫がいいの」というセリフがある)。また、ハウルがソフィーに花畑(過去でハウルカルシファーが出会った場所でもある)をプレゼントするシーンでは、ハウルがソフィーに「ソフィーはきれいだよ」と言った瞬間にソフィーは老いた「醜い」姿に戻ってしまう。こうしたわずかなすれ違いは、ハウルとソフィーの関係が夫と妻に一筋縄では収まらないことを示している。とりわけソフィーは、以前の母-子の頃の関係に対する執着を強く保持しており、容姿の過流動性はそれに由来する。こうした関係が一意に定まらない正統な家族から逸脱した「家族」はままごと的であり、ガラクタの城で行われるにふさわしい遊戯であった。しかし、このままごと的な「子ども」の領域でのみ成立していたハウルの「お父さん役」は、戦時中という圧倒的な「大人」の現実が支配力をもつ状況においては、ままごとの魔法は砕かれ、ハウルは真に大人=怪物にならざるを得ない。

 すでに確認したように、ハウルの「子」から「父」への変化は自己喪失と隣り合わせであった。ハウルがソフィーを守れるよう「大人」に「適応」することは、そのまま怪物に変身し、人間性を失うことでもある。こうした宮崎の「子ども」への異様な執着に由来するジレンマが、物語の順調な進行を断ち切ってしまう。宮崎に子どもから大人へのまっすぐな「成長」は描けない。ソフィーがハウルの「成熟」を拒否するように城を抜けると、それをきっかけにハウルの城の大崩壊や物語のリニアーな進行の破局が堰を切ったように始まる。結局、宮崎は完成しかけていたハウルの(ままごとでしかなかった)ビルドゥングスロマンの構造をへし折ってしまい、終盤は瓦礫化していく物語にどうにかして収拾をつける必要に迫られていたようにみえる。今作における終盤の「カオス」は本人が描けないものを描こうとしたことによるところも大きいだろう。

 本節では、こうした作品終盤の大崩壊や「カオス」と呼ばれる現象の内実を詳述することを試みる。

 

4-2 創造-崩壊-再生

 

 この作品のラストについて書くには、作品を生産の観点からではなく、「崩れる」観点から論じられる特殊な枠組みを必要とする。崩れる、分解する(される)という観点が特殊なのは、近代以降、「作る、生産する、積む、上げる、重ねる、生み出す」が世界観のもっとも重要な基盤となってきたためである(藤原(2019,28頁))。前節において名を挙げたティンゲリーやアルマンの廃材を用いた「作品」は創造と破壊がセットになっていることも珍しくなく、参照項になり得るかもれない。しかし、ここではより身近でありふれた素材である「積み木」についての藤原(2019)の考察を導きの糸としたい。藤原はすでに一度参照した『分解の哲学』という著書において、生産を基礎にした世界ではなく、「分解」という観点から世界を描き直そうと試みており、この著書の第二章は子どもにとっては馴染み深い玩具である「積み木の哲学」にあてられている。

 この「積み木」論の冒頭で、藤原(同前,72-73頁)による乳幼児と大人が積み木で遊んでいる何気ない光景の描写において、大人には積み木を積み上げること、子どもにはそれを崩すことが割り当てられているのは本稿の『ハウル』、『崖の上のポニョ』(以下、『ポニョ』)論においても重要である。藤原(同前,74頁)によれば積み木遊びの面白さには積み上げること以外にも、「崩すこと、ばらばらにすること、あちこちに散らばること、偶然にできた散らばりの様子を見ること、そして音を鳴らすことも含まれている。いわば崩し木である」。そして、積み木によって作られた建造物の脆さ、崩れやすさは遊ぶ人びとに「内に秘められた破壊衝動を放出するというような快楽や、完成されているものを分解したいという欲望」を喚起する(同前,75頁)。

 積み木遊びに関して藤原が言うような、人間のなかの快楽や欲望の根強さは、積み木以外にも、ドミノ倒しや将棋倒しといったすでに完成されているゲームから逸脱した別の遊びが考案されることからもわかる。ドミノ倒しや将棋倒しといった遊びもまた、完成されたゲームの「本来」の遊び方を一度解体し、新たなゲームへと作り直すといった「分解」の副産物である。本節の結論を先取りして言えば、『ハウル』を観る体験は、将棋を観戦していたつもりがいつの間にか将棋倒しを見せられていた、といったものに近い。ラストの展開に苛立ちを覚えるとすれば、物語を制作/鑑賞する行為が積み上げること、論理的な整合性やリニアーな思考に基づいたものとして想定されているからであり、苛立ちを通り越して笑いがこみあげてくるとすれば、物事がバラバラになり、無秩序に広がっていく快楽を密かにに思いだしているからだろう。

 ハウルの動く城は素材からして積み木でできた建造物ほど脆くはないうえに、重力に逆らった接合がなされているため、どちらかといえば「接合ブロックやプラモデル」に近いが、ハウルたちの引っ越しからラストにかけて短時間で繰り返される城の創造-崩壊-再生のダイナミズムには、「積み木」が喚起する快楽や欲望を十分感じとることができる。

 藤原(同前,102頁)は「積み木」が現在とは別のしなやかな「世界」の在り方を示していると述べる。これは例えば現在都市にあふれている堅牢な「大人の作品」が、もし積み木のように脆く壊れやすい「子どもの作品」に置き換えられたら、というようなことを想像してみるようなことだと思われる(こうした「世界」の魅惑と恐怖を次作の『ポニョ』では垣間見ることができる)。

 人が何かを作るとき、たとえ子どもであったとしても、それが一定のかたちを留めておくには、その人が持っている「幼児性」を抑えつける必要がある。それが作品として市場に流通し、不特定多数の人間の目に触れる場合や、住居や店やビルなどの巨大な建造物の場合はなおさらである。このように、事前に何か目的があり、設計図などを用意して計画的に建設されるのが「大人の作品」とするならば、それに対置される「子どもの作品」は次のようになるだろう。それはより無目的で、無計画で、壊れやすい。その作品には綿密に構成された設計図が存在せず、その場にあるものを積み上げたり、つなぎ合わせたりして作り上げられるため、たいてい歪な形をしている。そしてそれが完成した段階で、すでに解体され、バラバラな部品の集合に戻ることが期待されており、「子ども」が作る作品の多くは短命である。作り上げられたモノが現実にほとんど何の影響も及ぼさないまま消える代わりに、現実的な様々な制約からは比較的自由に作られ、その行為は同じ制作であってもたいてい「遊び」となる。

 ハウルの動く城が戦争という重たい現実から逃れようと自壊と再生を繰り返すとき、崩壊の響きと運動の快楽とともに、こうした「子どもの作品」がもつガラクタの軽やかな自由と無力を伝えている。この作品のラストで展開される子どもと年寄りとペットの逃避行は、「大人」の影響を排除することによってできた小規模なユートピアが、戦争という「大人」の事情の回帰によって破壊される過程であるが、さしあたりソフィーの目的は大人=怪物化したハウルをもとに戻すこととなる。こうした本来無理のある「逆行」が作品全体に大きな負荷をかけ、物語の瓦礫化を促進することになるのである。

 

4-3 「崩し木」的作品

 

 ハウルの動く城の大崩壊は作品それ自体のメタレベルとスクリーンに映る城のオブジェクトレベルで同時に起こる。構造を失い、極度に説明を省かれ、有機的なつながりを失った断片的なシーンの連続はスクリーンに映る瓦礫の山そのものであり、観る者を途方に暮れさせる。ただ、一応筋といえるものを取りだすことは可能であり、それは大人=怪物化したハウルをソフィーが子どもに戻すというプロットである。

 城の崩壊以降の展開を簡単に通覧しておくと以下のようになる。城の瓦礫の中からなぜかハウルカルシファーの過去へとつながる扉が出現し、その扉を通じてソフィーがタイムトラベルすることで二人の契約の現場に出会うという超展開がはじまり、ソフィーが戻ってくると、ハウル人間性を完全に失う一歩手前のような状態でそこにいる。ソフィーがどれくらいの時間タイムスリップしていたのかは不明だが、少なくとも観客の視点ではハウルはついさっきまで多数の兵隊と交戦中だったはずであり、ここでもまた時空間の隔たりが物語の流れに対する抵抗として一切機能しておらず、説明を期待しているとさらにまた置いていかれることになる。この作品のラストでは隔たりは隔たりとして機能せず、一度はぐれたハウル、ソフィー、ヒンとマルクル荒地の魔女はそのまますぐに再会し、終幕に向かって超スピードで流れ込んでいく。荒地の魔女は一度奪ったハウルの心臓をあっさりソフィーに渡し、それをハウルに返すことで、物語はハッピーエンドを迎える。

 

ソフィー「温かくて小鳥みたいに動いてる」

カルシファー「子どものときのまんまだからさ」

ソフィー「どうかカルシファーが千年も生き、ハウルが心を取り戻しますように……」

 

 ソフィーが「子どものときの」心臓をハウルに戻すことで、無事ハウルは子どもに戻った=人間性を取り戻したわけである。その後、案山子姿のカブがソフィーのキスによって呪いが解けるというシーンが挟まったあと、サリマンはあっけなく戦争を終わらせる。ハウルとソフィーの物語の完結が背後に控えた戦争という問題の終結にも短絡されるこの展開が、前後の因果関係やシーン同士の連関を追うことに慣れている観客にとって、あまりにも都合がよすぎることは明らかである。実際、この展開は多くの不評を買った。この物語は嘘が嘘であることを隠さず、よくいえば現実の重力から解き放たれた、悪くいえば薄っぺらな世界になったまま終わる。ラストの展開をまとめると、ソフィーの目的はハウルの大人=怪物化を解くことであり、そのために解決しなければならない問題は、ハウルカルシファーの契約と戦争の二つであったが、一つ目は過去への遡行という荒業による「解決」であり、二つ目は何の仕掛けや理由もなく自動的に「解決」される。

 タイムトラベルや戦争の終結といったような、本来ならばさまざまな条件や理由を必要とするはずの出来事を含めたあまりにも多くのことが、太陽や星の光の煌びやかなイメージや無重力状態のスクリーンを軽やかに移動するキャラの運動と一体となって降りそそいでくる。ただでさえ、目の前で起こっていることを受け止め、了解するには負荷のかかる出来事が短時間で何の説明もなしに畳みかけるように起こる。この作品のラストが「カオス」と言われる所以である。

 なかでもやはり特に観る者を混乱させる展開がソフィーと幼少期のハウルカルシファーとの出会いである。時間遡行という壮大で物語上大きな意味をもつ出来事が唐突に、物語終了間際のわずか数分に挟まれるのは、作品全体にとって破壊的であり、複数の意味で大きくバランスを崩している(ことの大きさとかけられる時間の短さ、起承転結の結に重大な出来事が捻じ込まれることによるまとまらなさ)。ソフィーは過去から現在に戻る直前、ハウルたちに「わたしはソフィー、待ってて、わたしきっと行くから、未来で待ってて!」と声をかけ、ソフィーが現在の時空に戻ってくるとハウルは都合よくそこにいる。その後すぐ、そこでソフィーがハウルにかける「ごめんねわたしグズだから……ハウルはずーっと待っててくれたのに」という言葉がまた厄介である。

 このセリフは一体何を意味しているのか。直前のシーンによって過去が改変され、かつてソフィーとハウルですでに一度出会っている「世界線」に移行したのか。それとも、ハウルとソフィーは本当にずっと前に出会っており、過去の映像は以前の記憶だったのか(ソフィーが同じ場所に連れられたとき、「不思議ね……わたし前ここに来た気がするの……」というセリフがあるのでこちらの解釈も排除できない)。こうした考察は『ハウル』の作品世界が、過去から現在まで有機的な連関を持った一貫性のある世界として存在していること、現実世界と相似形の秩序やリアリティを保っていることへの鑑賞者自身の期待を伴って行われる。しかし、ここではそうした秩序への欲求を抑えて「別のしなやかな世界」を見出せるよう方向転換すべきである。すなわち、『ハウル』を堅牢で重みのある「大人の作品」であることを前提に解釈するのをやめ、秩序から無秩序へ移行するさまを、徐々に柔らかく軽やかな「子どもの作品」へと変質していく様相をそのまま捉えられるよう思考を転換する必要がある。

 動く城の崩壊とともに作品内部の自律した「世界」はバラバラに砕け、リニアーな時の流れも断裁され、リレーしない断片的な出来事の瓦礫として散り散りになっていく。ラストの展開は、世界線や過去の想起といった「全体」を想定した用語では語りえない。もっと「乱暴」で「幼稚」に、部分へと解体された時空間が都合よく切り取られ、全体の整合性(超自我による検閲)を無視して運動の視覚的快楽や組み合わせの面白さなどの快感原則だけを優先して継ぎはぎされている。ここにあるのは、「大人」による丈夫な構造ではなく、バラバラに崩し、自由に継ぎはぎしてはまた崩すという崩し―積み木的な「子ども」の遊びである。

 最後に、作品終了間際に目を引くほど繰り返されるソフィーの「口」づけについて言及する。前二作では独特の意味をもっていた「口」は今作では、男女が逆転しているものの、キスによって相手にかけられた呪いを解くというクラシックな使い方がなされている(ハウルと隣国の王子)。しかし、ソフィーの「口」づけは「本夫」といえるハウルのためにとっておかれるわけではなく、カブ、荒地の魔女カルシファーと相手を変えて繰り返され、ほとんどパロディーとなっていく。物語のクライマックスにおける「口」づけというプラトニックな愛を象徴する行為が、繰り返されることで重みを失くしていくこのソフィーの「軽さ」は、「疑似家族」において肯定的な意味をもつ。ここでも、「紛い物」であることを積極的に引き受けることで「本物」の家族の神話や性規範を「分解」していく作用を見て取ることができるだろう。

 

 本節では、『ハウル』における、様々なレベルでの「分解」現象を記述してきた。「城」やソフィーの若くてきれいな肉体の物質的な分解、ハウルの「大人」への「成熟」、そして「家族」といった価値の分解、最後に「作品」それ自体の分解。この作品が一見滅茶苦茶にもかかわらず失敗作では無いといえるのは、第3章、第4章で通覧してきたさまざまなモチーフが、単にバラバラにあるのではなく密接に絡み合い、統一的な視点での読解にも耐えうる作品となっているためである。そして、こうしたそれぞれの「分解」に共通するのは、総じて「大人」性の分解であったということである。ここで標的となっている「大人」性の外延的記述を作品に現われている限りで行うならば、真性さ、堅牢さ、清潔さ、新品、同一性、戦争、美、整合性などである。

 こうした「分解」は秩序だった物事をバラバラに崩し、ただ無秩序に戻すだけでなく、豊かな副産物を生み出す。次作の『ポニョ』もまた、そうした「分解」現象の副産物である。再び将棋のアナロジーを用いるなら、将棋という完成されたゲームが一度壊されることではじめて、将棋倒しのような新しい遊びが生まれるように、『ハウル』の大崩壊は『ポニョ』という新たな副産物を生み出すことになる。今作は、『もののけ姫』以降の逡巡や混乱の傷跡を確実に残してはいるものの、そこには再生への兆しがあり、それは『ポニョ』として結実することとなる。『ポニョ』の真に子どもによる子どものための世界といえる作品は、『ハウル』の混乱や破綻なくしては生まれなかっただろう。秩序から別の(無)秩序への移行が一体どんなものを生み出したのか。最後に、簡単にではあるが『ポニョ』で起きた地殻変動と再生を見届けることで本論の結びとしたい。

        

4-4 「あの世」で子どもと〈自然〉が再会する——『崖の上のポニョ

 

 前作の『ハウル』でわけがわからないのはおよそラストの展開くらいであったが、今作の『ポニョ』でわけがわからないのは最初から最後までほとんどである。前作終盤の、現実的な整合性や論理の重さ・遅さを置き去りにしていく軽やかな「世界」はこの作品の基調を決定づけている。こうした変化を一言でまとめるなら、やはり「原アニメーション」への回帰ということになる。3DCGを排し、クレヨンや色鉛筆、パステルなどの画材によって描かれる柔らかくて膨らみのある画面は、現代の日本が舞台でありながらも、同時に非現実感の漂う「どこでもないどこか」を演出している。

 こうした『ポニョ』における遡行は、アニメーションの歴史においてかつてディズニーがたどった「成熟」の過程をあえて逆行するものである。清水(2021)はソ連の映画監督エイゼンシュテインが、ディズニーは「インファントな領域」から「成熟の域」に移行してしまったと述べたのを受け、そうした「成熟」が何を意味するのか、そしてその「成熟」によって何が失われたかのかについて論じている。以下、清水の議論を簡単に確認する。

 元々、アニメーションにとって「自由」とは、「二次元の平面的な存在でしかない」からこそ、「さまざまな制約に絡めとられた「現実」を茶化し」、そこから解き放たれた「ファンタジーの論理」によって「変幻自在に変化し、世界のかたちをかえることができる」という点にあった(清水,2021,42頁)。そして、初期のミッキーもまた、こうした「自由」を享受しており、その前衛的で人工的な身体の開放感によって、モダニストたちを魅了し、また機械であると同時に動物でもあるという「サイボーグ的性質」は「人間と自然の関係を再組織化するユートピア的な潜勢力」をも胚胎していた(同前,57-67頁)。

 こうした「他のリアリティ」はディズニーにおいていかにして失われたのか。清水によれば、それは「本物と思える」キャラクターからなる「生命の幻影」の追求、「写実的なリアリティ」の模倣(「戯画化されたリアリズム」)によってであった(同前,78-80頁)。

 

動物を人間のように、人間を動物のように変身させる、わたしたちの意識を解放するドローイングの魅力は、人間や動物が自在に境界線を越えて変容する世界を可能にする。そこには、現実の法則などものともしないアニメーションならではの魔法の論理があった。しかしそれは、ディズニーが「生命の幻影」を追求するなかで失われ、ディズニーはキャラクターたちを現実の論理のなかに組み込んでいくことになる(同前,80-81頁)。

 

 ポニョはこうした「現実の世界の論理に即した重い足枷」から再び放たれ、魚/半魚人/人間のあいだを自由に行き来する。こうした変身を媒介するのはやはり「口」である。グランマンマーレによれば、ポニョは宗介の血をなめることで半魚人になったのだという。そして、ラストで魚にも人間にもなれる半魚人という中間的形態から宗介と同じ5歳の女の子に移行させたのは宗介とポニョのキスである。『もののけ姫』において「口」は何よりもまず関係を引き裂くものであり、『千と千尋』において「口」を介した変身は越えてはならない境界線を越えてしまうことだった。しかし、『千と千尋』と『ハウル』において子どもと大人の間に引かれていた境界線は、動物(自然)と子どもの間に引き直され、ポニョは二者を媒介する存在となる(『ポニョ』の世界から大人はほとんど排除されており、またしても子どもと年寄りの世界である)。宮崎にとって、動物(自然)/子どもの距離は、子ども/大人のそれよりもずっと近いのである[1]

 そうしたポニョの「口」を塞ごうとするのは、宮崎自身を戯画化した存在のようにも思われる父親のフジモトである。フジモトは半魚人化し、よごれた人間によって娘が穢されたことを嘆く。ポニョは人間の血をなめることで、人間の言葉を話すようになり、ハムという「恐ろしいもの」を好んで食べるようになってしまったため、フジモトは緑色の薬のようなものを食べさせて無垢な動物に戻そうとするが拒否される(ここでフジモトが与えようとしている食べ物は、『千と千尋』でハクやカオナシの変身の呪いを解いたニガダンゴに似ている)。ナウシカ千尋を少食、菜食ヒロインとするなら、ポニョはサンと同じ肉食ヒロインであり、無垢な存在ではない。彼女らに共通するのは、自然の側に属しているにもかかわらず、人間の言葉を話し、同胞である動物を食べるという特徴である。

 フジモトはポニョをなんとか動物のまま、そして人間に汚されないよう自然の中でだけ暮らすよう仕向けるが、ポニョは何よりもそうした閾を飛び越えるのに長けたキャラクターである。ポニョが海/陸の違いをのり越え、宗介と出会ってから関係を継続させることができたのは、海水/水道水といった違いをものともしない生き物としては異様な適応能力のおかげであった。ポニョの半魚人という中間的形態は、子ども/動物、陸/海、人間/自然といった異質な存在を結び付ける媒介項として機能する。

 ポニョは深海に連れ戻された後、宗介の元に戻るため、大波=大量の巨大な魚を連れて再び陸に戻ってくる。波の上を高速で走り、宗介とリサが乗った車を追いかけてくるポニョや大波の運動のイメージは凄まじく、この映画のハイライトといってよい。「カンブリア紀にも比肩する生命の爆発」によって「人間の時代」を終わらせ、地球を再び海の時代へと戻すというフジモトの計画が、ポニョの悪戯によって、予定よりずっと早く始まってしまったのだ。

 媒介者としてのポニョの暴走は「現実」にとって破壊的な意味をもつ。一つは、崖の上の宗介らの家以外の建物や人びとをすべて沈めてしまったという点においてであるがそれだけではない。スクリーン上においてポニョらの「騎行」は、目の前で起こっていることが祝祭なのか大災害なのか判然としないまま展開される。そして、このシーン以降、ポニョによって祝祭/災害、生/死、陸/海は媒介され、渾然一体となり、「現実」は破綻へと追い込まれ、作中人物の言葉で言えば、『ポニョ』の世界は「あの世」へと変質していく。

 こうしたポニョの活躍によって、「世界」は滅茶苦茶になるが、再び子どもと自然は結びつくことができた。子どもだけが〈自然〉と交通できるというモチーフの回帰は、ナウシカ王蟲、サツキとメイートトロといった〈自然〉が生きていた幸福な時代の再現である。子どもと〈自然〉のアルカイックな関係が、「あの世」においてほんのひととき再生する。しかしこの祝福すべき光景は、もはや人びとの生きるこの世の出来事ではないのである。

 

終章 おわりに

 

 本論稿では、『ナウシカ』や『トトロ』にみられる大文字の〈自然〉が、『もののけ姫』において死に至り、『ハウル』を重要な転換点としたのち、『ポニョ』において「再生」する過程を描いてきた。かなりの省筆を承知で、この過程を人の一生になぞらえてみるなら、『ナウシカ』や『トトロ』は最も輝かしい子ども時代といってよい作品であり、『もののけ姫』『千と千尋』は成熟がそのまま喪失であるような爛熟期、『ハウル』に関してはその果てにやってくる老年期の作品といえるが、「老い」という現象そのものに伴う再生の萌芽を捉えることで、同時に冥府への道を切り開いてしまったものと思われる。『ポニョ』がみせる異様な幸福感と恐怖が一体となった光景はやはり死後の世界そのものだろう。

 このように、取り上げた作品を制作順にならべて物語として再構成することが可能なのは、宮崎自身が自然の栄光と不可逆な衰頽に並走しながら制作を続けてきたからにほかならない。コピーライターである糸井重里は、当初『となりのトトロ』のコピーを「このへんないきものは、もう日本にいないんです。たぶん」と書いたが、宮崎がこのコピーを「このへんないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん」と変えさせたという有名な話がある。このエピソードから見えてくるのは、迫りくる「現実」に対し、時代が変わっても子どもだけは〈自然〉とのプリミティヴな関係を保ち続けることができるという信念を守ろうとする作家の姿である。あいだ二作を挟んで、『もののけ姫』で〈自然〉の死を描いたとき、やはりそれは苦渋の選択であったことがうかがえる。

 『もののけ姫』以降の零落の道はやがて「あの世」へと続いていき、子どもと〈自然〉はそこで幸福な再会を果たした。この結末で宮崎は〈自然〉の死というテーマを清算し終えたのだろうか。本論稿では扱えなかったが、宮崎はこの後『風立ちぬ』(2013)という妙な映画を製作している。そして現在、吉野源三郎原作の『君たちはどう生きるか』を製作中とのことである。この原作はまさしく子どもから大人への「成長」を描く教養小説であるが、『ハウル』論で宮崎に「成長」は描けないと分析した筆者としては、また無理を強いておかしな作品が出来上がるのではないかと期待している。いずれにせよ、この作品によってまた『風立ちぬ』だけでは分からなかった、『ポニョ』以降の新たな展開を読み取ることができるようになるかもしれない。一度「あの世」へといってしまった作家が今度はどのような作品をつくるのか、新作の完成が待たれるところである。

 

[1] ただし、動物のなかで豚は『紅の豚』、『千と千尋の神隠し』において零落した大人の比喩として扱われる.

 

引用文献

清水知子 (2021)『ディズニーと動物——王国の魔法をとく』筑摩書房.

藤原辰史(2019)『分解の哲学——腐敗と発酵をめぐる思考』青土社.

 

〈自然〉の死と再生の物語(3)『ハウルの動く城』①

第2部 衰頽から再生へ——『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』論

第3章 衰頽に宿る可能性——『ハウルの動く城』①

 

 第1部で確認したように、『もののけ姫』と『千と千尋』は〈自然〉の死というパラダイムの上に成立しており、ある種『ナウシカ』や『トトロ』からの退却戦であったといえる。『ハウルの動く城』(以下、『ハウル』)もまた、こうした後退のなか制作された作品ではあるが、同時に前二作とは異なる要素も含まれている。その新しい要素とは、すでに生命力を失い、死に至る過程にあるものごとが、再び息を吹き返し、活性化していくプロセスである。本章では、その過程を「老い」と「ゴミ」に関して確認していく。

 

3-1 対照的な空間——ハウルとサリマンの城

 

  宮崎が手掛けた映像作品のなかで、キャリア全体のハイライトになり得るほどの強度をもつイメージを一つだけ上げるとするならば、それはこの作品の動く城をおいてほかにない(図3)。冒頭の数秒、短い鶏のような足がついた、巨大で不気味な建造物が山道を進んでいくシーンは観客に強烈な印象を与える。この城の外観と内装は、宮崎がこれまで愛用してきたイメージやモチーフを凝縮している。外観の大半は赤、あるいは緑色の金属の廃物の寄せ集めでできている。エネルギーを失い赤く錆びた鉄、所々緑青が発生した銅、いずれにせよ腐食した金属と思われる素材を中心に廃屋の断片や送電塔などがつなぎ合わされている。動く城の外観は「ゴミ」を用いた作品である。前作でも確認したが、宮崎にとって「ゴミ」問題は重要であり、それはつねに人間と自然の関係の変化を表すパラメーターとなる。例えば宮崎が『千と千尋』や次作『崖の上のポニョ』(2008)において、大量に「ゴミ」を描き出す時、それは〈自然〉の死と結びついている。

 

図3 巨大な動く城

 

 また、動く城は「折り返し点」以前の作品で頻繁に登場していた、生き物との類似性をもった奇妙な形態の乗り物の復活である。そして、その中身は常軌を逸した「ゴミ」屋敷であるが、ヒロインが埃などで汚れた部屋を掃除するところから始まる、というのは『魔女の宅急便』(1989)や『トトロ』などでも用いられるお馴染みの展開であった。しかも、動く城のなかには最初、『ナウシカ』の腐海で見たような植物が生えており、現実的なサイズに収まっているが節足動物が多数生息している。

 宮崎はこれまでも、清潔的な空間のなかで生活するのに慣れている人間にとっては生理的な嫌悪感をもよおすようなイメージを平然とアニメーションのなかに取り込んできた。巨大化した菌類や節足動物、大量の触手のようなどろどろとした物体に包まれた祟り神、オクサレ神がまき散らすヘドロや、中から大量に出てくるごみ、カオナシによる吐物、そして癇癪を起こしたハウルの出す緑色のねばねばした液体などの、現実離れした過剰な「汚物」は、モダニズム、すなわちアニメーションや現代的な生活空間が抑圧してきたものの回帰である。動く城の外観と異様に汚れた室内は、「汚物マニエリスム」ともいうべき宮崎特有の表現を結集したものである。

 そして、この作品において重要なのは、動く城とハウルの師であるサリマンのいる王宮の対比であり、これら二つの空間は多くの点で対照的である。

 サリマンの城が清潔さ、堅牢さによって特徴づけられるとすれば、動く城は不潔であり、雑菌塗れであり、その継ぎはぎの形態から見て取れるように壊れやすく、変形を繰り返す。サリマンの城が「真性な」城だとすると、ハウルの城は「紛い物」だといえる。

 サリマンのいる部屋はガラス張りで清潔に保たれており、にもかかわらず観葉植物にしてはあまりにも大量で多種多様な植物で室内を囲んでいる。ハウルの城に生えていた「汚く」てあまり見慣れない植物とは対照的に、「清潔」で目に優しい植物だけがそこにあり、そこは自然の美しさが演出されると同時に、無菌化、無臭化による自然の飼い馴らしが実現している空間でもある。この対比は『ナウシカ』と『もののけ姫』の森の違いを想起させる。

 また、ハウルの城が開かれ、外的なものを受け入れる空間なのに対し、サリマンの城は閉じられ、自律し、純化された空間である。サリマンの城には入口が一つしかなく、近衛兵がよそ者の侵入を防いでいる。前作の湯屋もこの城と同じく清潔な空間であるはずだったが、千尋やオクサレ神、カオナシの侵入によって幾度も室内を穢されていく。しかし、サリマンの城はサービス施設ではないため、セキュリティがより強固であり、中に侵入が可能だったのは変装ができるハウルだけであった。逆に、ハウルの城にはさまざまなよそ者が侵入する。ハウルの城の入口は、レバーを引くことで別の空間に接続することができる。そのため、最初から最後までソフィーを含め、様々な客に訪問され、時には無理な侵入によって破壊されたりしている。

 最後に、この動く城は乗り物でもあるという点において、王国が戦争に用いる機械類に対しても批判的な関係をもっている。ラマール(2013,94頁)は宮崎の「奇形」で人間の身体に似た乗り物について次のように述べている。

 

このようにおかしくて風変わりな乗り物——ぱたぱた動く足やくるくる回る手がついていることが多く、奇妙にも人間の身体に似たものとなっている——はどれもこれも、弾道的なデザインをもつ流線型の飛行機を避けるよう計算されているように思われる。宮崎はジェット機やロケットを故意に避けており、彼がそうしたデザインを引用するときには、それは戦争の害悪と密接に結びついている(とりわけ『ハウルの動く城』ではそうである)。そして、宮崎はユーモラスでエキセントリックなデザインを、私たちの生きる近代世界のテクノロジー的な秩序付けを他の様々な可能性へと開放するために用いている。

 

 ガラクタを積み重ねたような動く城のデザインは、図体こそ大きいものの、破壊や殺戮のために用いられる機械と比べれば、後に再び触れるように肯定的な意味で、どこか子どもが「ゴミ」を集めて作った「おもちゃ」のようであり、この作品にとって大きな意味を持っている。

 

3-2 老いるソフィーと怪物になるハウル

 

 動く城についての言及を続ける前に、二つの城に住む人間の差異についても指摘しておく必要がある。動く城に住むことになる者たちは、ハウルとソフィーを筆頭に物語を通して変身をし続ける。マルクル荒地の魔女、そして城自身もハウル陣営の全員が作中何度も容姿を変える。それも大抵は、以前よりも醜く、老けて弱々しい姿への変身である。これらの特徴は、サリマンの城にいる、全く同じ姿かたちをした金髪の美少年たちの存在によってより顕著になる(図4)。

 

図4 全員同じ姿かたちをした金髪の美少年たち

 

 変装してサリマンの城に侵入したハウルは「確かにこの王宮にはサリマンの力で敵の爆弾は当たらない。そのかわり周りの町に落ちるのだ。魔法とはそういうものだ」と述べる。こうしてみると、サリマンが魔法の力で外へと押しやっているのは爆弾だけではなく、肉体を含めたモノが汚れ、腐り、醜くなってゆく作用も含んでおり、まるでその被害をハウルやソフィーたちが代わりに被っているかのようである。

 ハウルたちはしばしば容姿に連動して性格も変動しているようにみえる。ソフィーは老婆のときとそうでないときで大きく性格が変わっているようにみえるし、ハウルも金髪のときは女性を眩惑する美青年だが、オレンジ色や黒髪になるとハウルに対して駄々をこねる幼児のようになる。そして、これらキャラクターの分かりにくさを最も体現しているのは、荒地の魔女であろう。荒地の魔女は、魔法によって自らの容姿を保っていたが、サリマンによって強制的に本来の老けて弱々しい姿に戻される。すると、それまでの高圧的な性格から一転、ソフィーに介護されるおとなしい老婆になり、ソフィーの恋愛相談に乗るようにもなる。しかし、仲間になったのかと思えば、実は自らのハウルを手に入れるという野望を未だ隠し持っており、カルシファーから無理矢理ハウルの心臓を取りだそうとする。

 これらハウルたちの絶え間ない変身や爛れは、前作における、千尋の消極的なかたちでの自己同一性への執着の後にやってくるものである。千尋の食の拒否は、そのまま変身の拒否、消費社会への「適応」の拒否であり、千尋にとっての最大の問題は「千」ではなく、「萩野千尋」であり続けること、すなわち私であり続けること=子どもであり続けることであった[1]。一方、『ハウル』の世界おいては環境に「適応」するか否かといった問いかけはすでに過去のものであり、すでにその環境は新たな「自然」となっている。

 この変身に伴う自己の喪失といったモチーフは、ハウルに関しては引き続きあてはまる。ハウルは黒い鳥のような姿に変身することで、戦争への加担を強いられている。そして、ハウルのその姿を見たカルシファーが「あんまり飛ぶと戻れなくなるぜ」と声をかける。そのシーンでは次のような会話が交わされる。

 

ハウル「同業者に襲われたよ」

カルシファー荒地の魔女か?」

ハウル「いや三下だが怪物に変身していた。そいつら後で泣くことになるな、まず人間には戻れないよ」

 

 このように、変身とはまず人間性の喪失であり、基本的には否定的な意味を持っている。しかし、ことソフィーの変身、すなわち「老化」については必ずしもそうではない。斎藤(2005,40-41頁)はソフィーの「老化」について次のように述べている。

 

原作にはなくて映画に付け加えられたソフィーのセリフに、「年を取っていくことは、捨てるものが少なくなることだ(大意)」というものがあった。これは宮崎の素直な心情吐露のように私には思われる。(…)しかし加齢することは、必ずしもセクシュアリティをそぎ落としていく過程ではない。むしろその反対である。加齢は、性の根幹を覆い隠していた幻想の枝葉を少しずつ落としていき、個人のセクシュアリティの本質をいっそう露わにしていく過程にほかならない。ソフィーは九〇歳の老婆になったことにショックを受けるが、それが自分にとって大きな救いであり解放であるという事実に気付いていない。

 

 たしかに、ソフィーは「老い」によって失ったものよりも得たものの方が多い。ソフィーは容姿へのコンプレックスから解放され、掃除婦としてハウルの城に住みつく大胆さを獲得する。また、掃除や洗濯の後、星の湖を眺めながら「不思議ねえ、こんなに穏やかな気持ちになれたの初めて……」とつぶやくシーンがあるが、これもまた「老い」によってはじめて手に入れた感情だといえる。このように、この映画のなかでは、「老い」は必ずしも否定されるべきものではなく、むしろ肯定的なものとして描こうとしている。そのためか、この映画では原作とは異なり、最後までソフィーの髪色は白髪であり、「老い」の呪いが解けたのか定かではなくなってしまっている(以上、岸野,2014,11-12頁)。岸野(2014,12頁)は原作と宮崎の映画における「老い」の意味の変化を比較しつつ次のように述べている。

 

原作のソフィーは老人として生きることでコンプレックスから解放され、危うく老人の姿にとどまりかけてしまう。ジョーンズの他の作品でも、変身したり記憶を失ったりした登場人物たちは、変身した姿や新たなアイデンティティに従属してしまい、本来の自分を見失う危険のなかにいる(映画のハウルも鳥の姿から戻れなくなりかけるが、こちらはル=グウィンの『影との戦い』(A Wizard of Earthsea)の影響もあるだろう)。(…)つまり原作では、老人の姿への依存を止め、本来の自分の姿で生きる勇気を持つことが必要であった。老人のふりをする生き方から訣別できた原作に対して、宮崎の解釈では、他者から押し付けられた姿をも取り込んで(誰も逆らえない老いを受け入れて)新たな存在に生まれ変わったとも受け取れる。

 

 岸野の指摘によれば、原作においてはソフィーの変身もまたアイデンティティ喪失の危機が問題になっており、映画のハウルの変身と近い意味を持っていた。しかし、宮崎は独自の解釈でソフィーの変身に「老いを肯定するメッセージ」を重ねていく。この作品における変身の多義性は一体何なのか。ハウルとソフィーの変身は正反対の意味を持っているとさえいえる。この捻れを理解するためには、宮崎独特の人間観を介す必要がある。

 

3-3 子どもと年寄り

 

 宮崎の子どもという存在に対する強い執着はよく知られている。杉田(2014,136-137頁)で宮崎の発言を参照しつつ次のように述べている。

 

子どもの身体こそが本来の自然であり神々の身体である、と信じる宮崎にとっては、普通の意味での人間の成長や成熟や自立は、早くも、存在として老いはじめていくことに等しかった。もちろん無垢で美しい幼年期や少年時代をなつかしくふりかえる物語や小説は山ほどある。しかし宮崎の場合、その零落や老いが奇妙に過剰なのだ。(…)子どもと大人の間には、成熟や成長によって架橋できない断絶(絶縁体)がある。そのラインを一度超えれば子どもたちが「くだらなくなる」「つまんなくなる」ような、二度と引き返せない一線がある。

 

 前作の千尋ハウルにとって、変身はこの「断絶」を飛び越えてしまうことを意味した。すでに確認したように、千尋は拒食によってこの境界線の手前でとどまっていたが、ハウルはこの「子ども」と「大人」の境界線を行き来し、さまようことで自己を喪失する危機に陥っている(ハウルは中盤、気味の悪いナーサリーなどによって、幼児として描かれる)。では、宮崎にとって、子どもは一度「子ども」性を失って、零落した存在になってしまえば、その子は残りの人生を転落していくほかないのかといえば、実はそうではない。「子ども」から「大人」への変身を、必ずやってくる喪失だとするならば、「大人」から「年寄り」への変化という二度目の変身があり、この変身はどちらにも転びうるものであるからだ。

 元々、宮崎作品においては、年寄りは主人公たちを導く重要な役割を果たし、子どもにとって肯定的な存在であった。子どもから大人への変化は明確な零落であるが、二度目に訪れる変化である、大人から年寄りへの「老い」は必ずしもそうではない。『ハウル』においては、大人から年寄りへの変化は肯定的なものとして描かれている。荒地の魔女は魔法によって、本来の老いた姿を隠して若返っていたが、サリマンにその魔法をとかれ、ただの年寄りの姿に戻ることによって、ハウルたち「家族」の一員となり、ソフィーを導きもする存在に変化するのだ。

 ハウルが子どもから大人になることによって何かを失おうとしているのに対し、ソフィーや荒地の魔女は「老い」という見かけ上の「喪失」によってはじめて恋人や「家族」といった関係を築くことができた。宮崎がこの作品で打ち出している子ども/大人/年寄りの価値づけは、近代以降の人びとが想定する人間の「成長」モデルをそのままひっくり返したものである。図式的に言えば、子どもが肉体的にも大きくなり、さらに経験や知識を「積み上げる」ことで「成長」し、大人時代に人生のピークを迎えたあと、肉体は腐っていき精神的にも衰弱していくという凸型の曲線に対し、宮崎のそれは、子どもが大人になることによって決定的な何かを失うが、実はその後訪れる「老い」は失ったものを取り戻していく過程であり、それは凹型の曲線となる(この子ども≒年寄りの図式は次作でよりはっきりと打ちだされる)。これは、「成長」のなかに喪失を、「衰頽」のなかに再生の萌芽を見出すことである。

 ソフィーとハウルの変身の違いについて戻る。ハウルの変身は「子ども」と「大人」を行き来するものであり、変身は人間性を失った怪物に変化してしまうことを意味した。それに対して、ソフィーの変身がハウルのそれと違って、全く悲観的な意味を持たないのは、それはソフィーが「子ども」と「年寄り」の間にある巨大な穴(「大人」)を、荒地の魔女の魔法によって一気に飛び越えてしまったからにほかならない。また、マルクルの変装も、「子ども」と「年寄り」を行き来するものであった。

 肉体が衰弱し、「廃品」として活力を失っていく過程である「老い」に再生の可能性を見出すことは、使い古され、汚れ、腐っていく「ゴミ」に再び用途を見出し、例えば宮崎-ハウルが遊び道具として使いなおしてしまう作用と同質のものである。

 

3-4「ゴミ」を使った遊び

 

 ここで、再び考察の対象を動く城に戻す必要がある。動く城が、ハウルの幼児性やそのフォルムも相まってどこか「おもちゃ」の城に見えることはすでに述べた。この「おもちゃ」感は、「張りぼて」感とも言われ、ハウルの「見せかけ」の虚栄心や大人になりきれない心の反映として、ハウルが「ゴミ」を用いて作った作品は正当な評価を受けてこなかった[2]。たしかに、ハウルが師であるサリマンの王宮を真似て自らの城を拵えたのだとすれば、随分とできの悪い、奇形化した「模造品」だともいえる。ハウルが「大人になりきれない心」の持ち主ならばなおさら、彼がガラクタで城を作る行為は、子どもが身の回りにあるもの、あるいは買ってもらった玩具などを活用して大人たちが作った建築物を再現しようとする行為とそう変わるものではない。しかし、その「子ども」の建築物に価値がないといえるのは「大人」の目線からでしかない。少なくとも、宮崎が入れ込んでいるのはサリマンの純正で立派な城の方ではなく、ハウルのニセモノだが猥雑さを排除しない「おもちゃ」の方であることはもはや言うまでもないだろう。

 宮崎がこの作品のなかで仕掛けているサリマンとハウルの城の対立、すなわち純正できれいな城よりも、廃品を利用した継ぎはぎだらけの汚い動く城を魅力的に描き出す筆致は、藤田(2003,276頁)による「新品文化」批判と響きあう。藤田は新品の世界にはない修繕の美学を次のように語る。

 

例えば一枚の戸板が修繕された時そこに現われる「更められた新しさ」すなわち更新はここにはない。戸板の一枚だけが周囲との延長的連続から断ち切られ、連続の中断を以て「引用」され、その抽き抜かれた部分に新しい挿入が、機械的にではなく周囲との関係の再形成として行われる時、並べ直された断片のそれぞれは変身し、そこに現れるモンタージュ効果は関係の更新という点で全的に新しい。(…)例えばまた綻びが巧みに継ぎはがれた時そこに現われる「再生」と「復活」の新しさも新品の世界にはない。継ぎはぎの繕いが、周囲の部分との抵抗関係を考慮しながらそれとの「対立を含む和解」として出来上がった時、そこに現われる新しさは一個の全体的関係における新しさである。再生や復活はそういうものとして部分的でありながら関係的全体の蘇生であった。

 

  ここで藤田が述べている修繕の魅力は、寄せ集めや縫い合わせなど、複数の断片的な素材を組み合わせることで新たなものを創造する行為にもあてはまるだろう。ハウルの動く城は、さびた鉄や銅、木板やレンガ、廃屋の断片や大砲に煙突に送電塔など、あまりにも雑多な素材のパッチワークであるにもかかわらず、「一個の全体的関係における新しさ」を城という形式において実現しており、それによってまた、廃物化し、一度死んだはずの素材が再び変身し、「再生」を遂げる。しかし、それはあくまでも「対立を含む和解」であるため、その集合体を一度捕捉した後も、それぞれの細部がその配置、周囲の素材との関係によって独自の質感や面白さを持っており、観る者を飽きさせない。

 修繕がそうであるように、「ゴミ」を用いた創造行為もまた、一度死んだモノに再び命を与える行為であるといえる。藤田のいうような新品文化が社会を覆い、子どものおもちゃも既製品で溢れるようになる以前、子どもはそうした「再生」の重要な担い手でもあった。シルギー(1999,208-209頁)は人間とごみの関わりについて論じた著作のなかで次のように述べている。

 

子どもたちは大人になりたいと願う。だから、イメージのなかで、疑似的な世界を作り上げる。大人の仕事を真似たり、戦争や平和を疑似体験したりする。既成のおもちゃに恵まれない子どもたちは、想像力を駆使して、自分たちのまわりにある粗末な物品を使ってそれなりにおもちゃをこしらえる。日常生活の余り物から生まれた遊びやおもちゃは、いつの時代にもあるものだ。(…)二〇世紀初頭、子どもたちはさまざまなおもちゃをわずかな元手で自前で作っていた。廃品を利用して、列車やままごとの遊具、ときには工夫を凝らしてトラックまで作っていた。くず屋から空き缶を買い、火をつかってハンダづけして、ブリキを平らにしてから好きな形に作りなおしていたのである。

 

 子どもたちによって、誰かにとって不要な廃品が再び価値を見出され、息を吹き返す。藤原(2019,18頁)は、自然と人間社会を貫く「ものの属性(何かに分かちがたく属していること)や機能(何らかの目的のために振る舞うこと)が最終的にしゃぶりつくされ、動きの方向性が失われ、消え失せるまで、なんども味わわれ、用いられる」という普遍的なプロセスを「分解」と呼んだ。子どもたちもまた、こうした遊びによって「分解」の担い手となる。工業化・都市化は〈自然〉が「分解」のアクターとして活躍できない領域や「ゴミ」を増やしてきたが、かつて子どもたちはそうした厄介な領域においてこそ「分解」のプロセスに積極的に参入してきたことがわかる。子どもたちにとって、そのほとんどが別の生き物の食べ物くらいにしかならない有機廃棄物よりも、耐久性の高い「ゴミ」の方がおもちゃとして利用価値が高いわけである。

 こうした「ゴミ」は子どもに限らず、創造行為に勤しむ人間たちを刺激し、魅了する。「くず屋の王様」と呼ばれたピカソの立体作品、シュヴィッタースのがらくたを駆使したコラージュや『メルツバウ』などの著名なもののほかにも、「精神障害者」とされた人々は独自の幻想を具体化するのに廃品を用いることを厭わなかったが、その作品はシュールレアリストたちを魅了し、デュビュッフェに「アール・ブリュット」という概念を創出させた。その後の、1950-60年代は廃物(ジャンク)を用いた芸術の最盛期だったといえる。ニューヨークではジョーンズやラウシェンバーグらによるネオ・ダダ、同じころフランスではティンゲリーやアルマンらによるヌーヴォー・レアリスムの運動が盛んになっていた。彼らは積極的に既製品や廃棄物を自らの作品に利用する。産業消費社会化に拍車がかかり、技術革新によって多種多様で豊かな廃棄物が「漂流している」時代になると、「ゴミ」に新たな価値が見いだされたのだ[3]。こうした「風変わりな」人間たちは、〈自然〉が排除された領域において、ささやかながらも「分解」活動の維持に貢献していたといえる。

 シルギー(1999,231-232頁)は、「創造の材料としてのごみの魅力」は、「環境破壊や汚れものに対する強迫観念、あるいは排除という偏執への反動、それに種としての人間を否定しかねない過剰な無菌状態に対する反動」として現れ、「廃品が芸術や遊戯に使われることで、その名誉は挽回され」ると述べている。宮崎がサリマンのいる王宮に対してハウルの動く城を対置するとき、かつてのポップ・アートやジャンク・アートの担い手たちがそうだったように、このような価値転換の美や使い捨て文化や清潔志向に対する批評性を継承しているのである。

 

 本節では、この作品において宮崎が特別な愛着とともに目を向ける、老いてゆくモノ、腐り、古びてゆくモノの描かれ方について論じてきた。宮崎はこの作品において、前作において用いられていた「変身」や「ゴミ」といった否定的なモチーフから、なんとかそれらを中性化し、そこから肯定的なものを取りだそうと使いなおしている。少なくともソフィーにおいて「変身」は成長-喪失から老衰―再生へと折り返され、肉体の崩壊と腐敗を加速させながらも精神的な「復活」を果たした。また、前作では湯屋のなかを汚し、占拠するただ厄介な廃棄物でしかなかった大量の「ゴミ」の表象をリサイクルし、ハウルはそれらを巨大な建築物へと転生させた。

 『ナウシカ』、『トトロ』の不可能性から生まれた『もののけ姫』と『千と千尋』には戸惑いや逡巡の気配が濃厚だった。しかし今作においては、そうした遅疑逡巡の果てにすこし踏ん切りがついたのか、衰頽から再び前を向き直し、喪失や頽廃のプロセスにおいても潜在的にある生の活力や再生の萌芽を拾い上げようとする志向性がより前面に出ている。正確に言えば、前二作においてもそれを描こうとしていたが、あまり上手くはいかなかったように思われる(『もののけ姫』に存在した混乱や破綻がむしろ強くなっている点において今作も決して大成功とは言えない)。頽廃していく自然と身体から翻って「ポスト自然」における再生の方法を描くこと。本稿においては「折り返し点」以降に生じた『ハウルの動く城』におけるこの変化を、更なる転回として位置づけることとしたい。

 

[1] 変身の拒否と資本主義への「適応」の拒否の等価性については樫村(2004)の楳図かずお論を参照した.

[2] そうした評価は例えば、村瀬(2015,183頁)や岸野(2014)を参照.

[3] こうした廃棄物と芸術の歴史に関しては、シルギー(1999)第九章や、末永(2013,133-164頁)を参照した.

 

引用文献

樫村晴香(2004)「Quid?——ソレハ何カ 私ハ何カ」『ユリイカ』36巻7号,81-94頁.

岸野あき恵(2014)「『ハウルの動く城』における原作の精神とは――宮崎駿監督が目指したもの」『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集』 17,1-18頁.

斎藤環(2005)「キスのある風景」海岸洋文編『宮崎駿の世界』竹書房,33-41頁.

シルギー、カトリーヌ・ド(1999)『人間とごみ——ごみをめぐる歴史と文化、ヨーロッパの経験に学ぶ』久松健一編訳,ルソー麻衣子訳,新評論.

末永照和監修(2013)『増補新装[カラー版]20世紀の美術』美術出版社.

杉田俊介(2014)『宮崎駿論』NHK出版.

藤田省三(2003)「新品文化——ピカピカの所与」『精神史的考察』平凡社(初出は『みすず』1981年2月号,みすず書房).

村瀬学(2015)『宮崎駿再考——『未来少年コナン』から『風立ちぬ』へ』平凡社.

ラマール,トーマス(2013)『アニメ・マシーン——グローバルメディアとしての日本アニメーション』藤木秀明監訳,大崎晴美訳,名古屋大学出版会.

〈自然〉の死と再生の物語(2)『千と千尋の神隠し』

第2章 消費社会と「ゴミ」——『千と千尋の神隠し

 

2-1『もののけ姫』以後の世界

 

 前節では、『もののけ姫』を『ナウシカ』的〈自然〉の不可能性の表れとして特徴づけた。自然はもはや人間的なものの外部としての価値を担保することができなくなっている。次作の『千と千尋の神隠し』(以下、『千と千尋』)もまた、そのような圏域にある作品である。この作品の舞台である湯屋には、八百万の神々が訪れる。これらの神々は「折り返し点」以前であれば、トトロのように<自然>の怪異、そして魅惑を体現するような生き物として存在していたはずであるが、すでに神々からはそのような性質は失われてしまっている。

 清水(2005,108頁)はジブリのモンスターたちを「現代日本の近代化の過程で次々とは喪失・廃絶されたもの——いわば近代化の剰余」とし、「私たちはこれらのモンスターの喪失により、市場の富に基づく現代的な生活/風景を手に入れた。しかし同時にいわゆる贈与の富の基づく計算不能で肯定的な交易を失った」と述べる。『千と千尋』における神々は、人間による自然の飼い馴らし、無菌化により働き場所を失い、純粋な消費者へと変質した。大文字の〈自然〉が不在の時代においては、八百万の神々には、「トトロのように贈与を与える仕事」がないのである(同前,109頁)。すなわち、『もののけ姫』と『千と千尋』はともに、『ナウシカ』や『となりのトトロ』(以下、『トトロ』)の不可能性という斥力を重要なモチーフとして採用している。

 

2-2 「口」を開く大人と閉じる子ども

 

 『もののけ姫』において「口」は自然を生きる神々を卑俗化させ、擬人法的秩序のもとに動物を引き入れるという重要な役割を果たしていた。同様に、『千と千尋』においても「口」は最も大きな役割を与えられている器官である。物語序盤、千尋とその両親は神々のために用意された料理に対して「口」を開くか否かが運命の分かれ目となる。両親はひっきりなしに食べ物を「口」に放り込んだ結果、そのまま豚へと変身してしまう。のちに再び触れるが、萩野家が迷い込んだ世界では、「この世界のものを食べないと」消えてしまうため、千尋はハクからもらった薬を飲み込んだ。カオナシはその巨大な「口」による凄まじい暴食と吐出のイメージが強烈な妖怪だが、カオナシは青蛙を丸呑みすることによって巨大な怪物へと変身する。千尋は「ニガダンゴ」という催吐薬のような効用を持つダンゴをハクやカオナシの「口」に入れ、呪いや変身を解く。

 このように列挙してみると、この物語において「口」が担う機能は大きく分けて二つあることがわかる。⑴消費社会における無尽蔵な欲望の象徴と⑵変身、呪い、怪物化(またその解除)の経由地である。こうしてみると、物語の最初に赤色のトンネル(「口」)のなかに萩野家が入っていく場面は、この時点で人間が神々によって食べられ、人間が人間でなくなることを象徴的に示している(加えて、千尋が車の中から見る石像、そしてなぜかトンネルの前にも立っている石像はみな不気味に「口」を開けている)。

 そして、本作の主人公である千尋は「口」に関して特筆すべき点がある。千尋はこれまでのジブリヒロインと比べると、突出してひ弱で何もできない「見るからにグズであまったれで泣き虫で頭の悪い小娘」である。このように「無能力」によって特徴づけられる千尋であるが、そのなかで、作中で唯一ポジティヴに作用する「無能力」が「口」を開くことができないという特徴である。

 作中で、千尋は幾度となくモノを差し出され、それを前に受け取るかどうかの選択(その多くは食べるかどうか)を迫られる。⑴両親に勧められる店の料理、⑵ハクが差しだした薬、⑶ハクがくれるおにぎり、⑷カオナシが差し出す大量の札、⑸リンがくれる饅頭、⑹カオナシが差し出す大量の金、⑺カオナシが差し出す料理と金。このように計7回、そのような場面があるが、両親に勧められた料理には強い調子で「いらない!」と言い、ハクがくれる食べ物には一度拒否してから受け取り、カオナシが差し出すモノは断固として受け取らない。千尋が差し出されたモノを素直に食べるのはリンがくれた饅頭だけである。千尋が食に関して何かトラウマがあるのかどうかは定かではないが、この拒食症的傾向がなければ萩野家が生還することは不可能だったことは確かである。

 また、ハクは千尋に薬を飲ませるとき、「この世界のものを食べないと、そなたは消えてしまう」と言う。これは、湯婆婆が統治する世界のルールの一つであるが、効率的に経済を回すために設けられた規則であろう。湯屋とその周辺の汎神論的世界においては消費者と生産者が格差によって分断されており(神々/それ以外の(非)生物)、すべてのモノがいずれかに配属されていなければならない。千尋が消えかけていたのは、両親から勧められた料理に対して「口」を開くことを渋ったために、この世界における存在資格を失っていたからである。千尋の固く閉じられた「口」が生産と消費のサイクルを滞らせるのに対し、千尋の両親はよく食べる分だけ神々(より豊かな生活を享受する消費者)のエサになり、利用価値があるため豚になりはしても存在を否定されることはない。消費社会において口-欲望は最も重要なエンジンであり、この世界におけるタブーは与えられた料理を食べることではなく、むしろ食べないことなのである。

 

3-3 千尋バートルビー——拒食者の倫理

 

 アメリカの小説家ハーマン・メルヴィルの短編「バートルビー」(“Bartleby”,1853年)の主人公は、口-欲望の機能不全という点で千尋と共通点をもつ。バートルビーは最初、与えられた筆耕の業務を機械的に桁外れの量の仕事をこなす反面、それ以外のことはどんな些細な頼み事も“I would prefer not to”とだけ返答し、決して動こうとしない人物として描かれる。この時点ですでにかなり奇妙だが、あるときから筆耕の業務すらも拒むようになってしまう。雇い主である語り手は金を渡してでもバートルビーを追い出そうとするが、一向に出ていこうとしない。結局、語り手は事務所を移転するが、それでもバートルビーはそこに居続け、ついには留置所に収監される。最終的にバートルビーはそこで食事すらも拒み、餓死する。

 自らを穏やかな人間であると自認する語り手は、バートルビーとコミュニケーションを取ろうとしては跳ね返され、苛立ちを重ねる。自らの良心が通用しない、理解不能な相手だとわかると、金を用いた説得も試みるが、バートルビーにはそれも通用しない。この小説における、語り手がバートルビーという人間を前に直面した困難は、カオナシ千尋の関係においてもそのまま当てはまる。「バートルビー」の語り手は、資本主義的な生活のなかで金が相手を懐柔するための強力な手段であることを知っていたが、カオナシ湯屋への潜伏という短い経験のなかでそのことを学んでいた。金を持っていれば、食欲も承認欲求もどうにかなり、大量の人間を動員できる。しかし、それはあくまでも口元のゆるい大多数の人間だけであり、バートルビー千尋のような口-欲望が「欠損」した相手をコントロールするのは至難の業である[1]。だからこそ、カオナシは何を渡しても拒否する千尋に対して「千ほしい、千ほしい」「ほしがれ」「取れっ、取れっ」と迫るほかなかったのである。

 バートルビーの「人間」離れした「狂気」に資本主義をラディカルに批判する倫理性を見出そうとする論者は少なくない[2]。たしかに、資本主義的な論理や欲望を頑なに拒絶して餓死したバートルビーと比べてしまえば、たいていの人間は卑俗で凡庸に映るが、彼ほど極端でなくとも千尋は充分に倫理的である。千尋の両親やカオナシが「金を払ったら払った分だけ食べても良い」という資本主義下では不可侵の論理で暴食を犯す一方、千尋はそのような法とはまったく無関係に、「何を食べ、何を食べるべきでないか」という問いに直面している。すでに確認したように千尋はむやみに食を拒否するわけではなく、ハクが純粋な善意でくれたおにぎりはいったん拒否しつつも食べ、リンがくれた饅頭は素直に受け取るようになっている。そして、少なくともこの映画のなかでは、両親やカオナシに勧められる動物性の食品を拒否する菜食主義者である。またそうした千尋の判断は、ありふれた食べものは食べたがらない割に、得体の知れない苔を固めたようなダンゴは齧るといった子どもらしい可笑しさをも含んでいるが、それもこれらすべてが千尋の内的な固有の判断の結果であったことの証左である。

 

4-4 「ゴミ」の不在と回帰

 

 『千と千尋』には、湯屋のような場所で必ず発生し、本来なら悩みの種にはずの物質が描かれていない。生産と消費のプロセスの加速が発生させる、大量の廃棄物である。湯屋のなかではそれら「ゴミ」の存在は隠蔽され、清潔な空間を装っているが、その代わりにこの建物のなかにはさまざまな「汚物」が侵入してくる。一つ目の「汚物」は千尋であり、従業員に「あたしらのとこへはよこさないどくれ」「ヒトくさくてかなわんわ」といった言葉を吐かれ、蔑まれることになる。

 次にやってくる「汚物」は大量のヘドロを纏ったオクサレ神であり、同じ「汚物」である千尋は対応を命じられる。オクサレ神は白米を瞬時に腐らせるほどの腐敗力をもったヘドロを湯屋のなかにまき散らしていく。しかし、千尋がオクサレ神のなかから自転車のハンドルが飛び出しているのを見つけたことで、湯婆婆はオクサレ神が実は名のある川の主であることに気づく。自転車のハンドルを引っ張ると、オクサレ神のなかからは大量の「ゴミ」が出現する(図1)。

 

図1 オクサレ神の体内から出現した「ゴミ」

 

 川の主がオクサレ神になってしまっていたのは、人間が川に捨てた「ゴミ」が原因であるといえるが、同時に湯屋=消費社会が普段見ないようにしている大量の廃棄物の回帰でもある。これらの廃棄物は<自然>の治癒力や分解力を超えてしまったために地球上に「ゴミ」として堆積していく物質である(小野(2016,46-47頁)を参照)。

 最後に侵入してくる「汚物」は、カオナシである。カオナシは金を生成することのできる妖怪であり、その金で暴飲暴食を繰り返す。千尋との面会時に、口から唾液のようなものを垂らし、すこし気持ち悪そうにしているのは、短時間での大量の飲み食いによる急性消化不良症のように見える。そして、千尋がオクサレ神との一件で手に入れた「ニガダンゴ」を飲ませたことで、今度は飲み食いしたものを一気に吐き出し始める。カオナシの吐物によって、またしても湯屋は「汚物」塗れになってしまうのだ。湯屋は暴飲暴食をくりかえしたカオナシによる吐出物によってふたたびヘドロ塗れにされる(図2)。

 これらのシーンで不思議なのは、カオナシに捕食された青蛙や湯屋の従業員が、カオナシの体内で全く消化されず、そのままの姿で吐き出されることである。カオナシは「口」は大きく、無尽蔵に食べものを吸い込むことができるにもかかわらず、消化はそれほど上手ではない。オクサレ神とカオナシのシーンは、それぞれ土と内臓という環境を変えた、モノの過剰による分解の機能不全という同じ表現である。この映画では、自然の分解力を超えて「ゴミ」を発生させることと、人間が本来の必要分を超えて暴食を繰り返すことが同じレベルで、消費社会の問題として描かれている。

 

図2 カオナシの吐出シーン

 

 『千と千尋』では暴走気味の生産と消費が目を見張るからこそ、モノの分解の(不在ではなく)困難さが注目すべき要素となる。ここにもまた、〈自然〉の死といったテーマを見出すことができる。〈自然〉の分解力を超えたモノが爆発的に増えると同時に、土で覆われた地球がコンクリートに塗り替わることで〈自然〉は分解力、腐敗力を弱らせてきた(『耳をすませば』(1995)における「コンクリートロード」の替え歌を想起されたい)。

 この作品の冒頭は、都心から郊外への引っ越しという昭和三〇年代を舞台にした『トトロ』と全く同じ展開であるが、オート三輪に乗って引っ越してきた草壁一家が住むことになる建物は木造家屋なのに対し、千尋の家族が最初にたどり着くトンネルは、千尋の父親によれば「モルタル製」で「けっこう新しい建物」らしく、郊外にも厄介な「ゴミ」である建物が蔓延したことがわかる。小野(2016,44頁)は『ナウシカ』が提起する問いに「人間と人間が築き上げた文明は、地球全体から見て不要で捨てられ処分されるべき「ゴミ」なのか、という問い」を挙げているが、この作品においても同じことが問われているといえる。アシタカに森ではなく、タタラ場で暮らしていく決意をさせた以上、ますます避けられない問いだからだ。

 湯婆婆の手下の頭が瀕死状態になり用済みになったハクを処分しようとする場面が、この作品における唯一の「ゴミ」処理のシーンであるが、そこは黒い多数の巨大な生命体が蠢いている不気味な場であり、その生き物たちが湯屋の過剰な生産と消費の最終処理を一挙に引き受けているのだと考えられる。ここで宮崎は、腐海のシステムを流用している。『ナウシカ』の舞台は「錆とセラミック片におおわれた荒れた大地」であり、「ゴミ」で覆われた地球を無理やり「循環」の輪に組み込みなおし、「持続可能」なものにするシステムが腐海だった(漫画版では、その腐海も人工的なシステムだったことが発覚し、「人新世」における文明=自然の未来についての一つのシナリオを提起している)。この作品の湯屋もまた、生産と消費のサイクルを滞りなく回すため、いわば超-分解者である生命体を再度召喚しているのである。

 作品のラストでは、ハクもまた、オクサレ神と同様「ゴミ」の被害者だったことが発覚する。ハクの正体は、マンション建設のために埋め立てられたコハク川であり、人間が〈自然〉を「ゴミ」によって上書きすることによって、居場所を失っていた存在であった。そのように「ゴミ」に埋もれ、忘れられていた景観の名、そしてかつての〈自然〉の風景を千尋が思いだすことで、ハクの呪いが解けるシーンがこの映画のクライマックスとなる。

 このように、この映画は直接人間と自然の関係をテーマにしているわけではないが、さまざまな形で〈自然〉の死と「ゴミ」問題が流れ込んできている。そして、アシタカやエボシが最後まで火-技術を捨てようとしなかった以上、オクサレ神やハクたちのような「ゴミ」の被害者が出てくるのは必然である。この作品は『もののけ姫』という作品があるからこそ、単なる一方的な文明批判として読むことはできない。もしそうなのだとしたら、アシタカはサンとともに森で暮らし、宮崎は引退宣言通りアニメーションを作るのを止めるべきだったはずである。『もののけ姫』と『千と千尋』はセットで読まれるべき作品群であり、この時期の作品から読み取れるのは、人間と自然の関係の後戻りできない根本的な変化に対して、肯定も否定もできずに戸惑い、揺らぎつつも何とか変化に応答しようとする作家の苦悶の跡である。

 

[1]  ボヌイユ・フレソズ(2018,190-191頁)は、「より働き、より稼ぐ」という規律が一八世紀の人々に受け入れられたのは、当時新しく生まれた魅力的な商品に対する人間の欲望のおかげであると述べる.そして、同時に「日々を労働で埋めつくす規律を農村部から出てきた労働者や職人にたたき込むのは困難であったことを証明する事例がいくつも存在する」ことから、「人間の消費欲を自然化」してしまわないよう注意を促している.

[2] 例えば、渡辺(2016).また、ネグリとハート(2003,p264-267)は留保をつけつつも、バートルビーの絶対的な拒否に「解放の政治」の始まりを見出している.

 

引用文献

小野俊太郎(2016)『「里山」を宮崎駿で読み直す——森と人は共生できるのか』春秋社.

清水知子(2005)「<ジブリ・モンスターズ>と感覚のトポロジー」海岸洋文編『宮崎駿の世界』竹書房,107-115頁.

ネグリ,アントニオ,ハート,マイケル(2003)『<帝国>——グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲,酒井隆史,浜邦彦,吉田俊実訳,以文社.

フレソズ,ジャン=バティスト,ボヌイユ,クリストフ(2018)『人新世とは何か——<地球と人類の時代>の思想史』野坂しおり訳,青土社.

渡辺信二(2016)「バートルビーの倫理と資本主義の良心 : 叙述トリックを解く」『フェリス女学院大学文学部紀要』51,227-251頁.

〈自然〉の死と再生の物語(1)『もののけ姫』

目次

序章 はじめに

第1部 〈自然〉の死をめぐる逡巡——『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』論

第1章 死に至る〈自然〉の物語——『もののけ姫

                1-1 『風の谷のナウシカ』からの反転——回帰する「口」と神々の卑俗化

                1-2 再編される人間と自然の関係

                1-3 『平成狸合戦ぽんぽこ』との差異

第2章 消費社会と「ゴミ」——『千と千尋の神隠し

                2-1 『もののけ姫』以後の世界

                2-2 「口」を開く大人と閉じる子ども

                2-3 千尋バートルビー——拒食者の倫理

                2-4 「ゴミ」の不在と回帰

第2部 衰頽から再生へ——『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』論

第3章 衰頽に宿る可能性——『ハウルの動く城』(1)

                3-1 対照的な空間——ハウルとサリマンの城

                3-2 老いるソフィーと怪物になるハウル

                3-3  子どもと年寄り

                3-4 「ゴミ」を使った遊び

第4章 瓦礫と再生——『ハウルの動く城』(2)『崖の上のポニョ

                4-1 崩壊していく城と物語

                4-2 創造-崩壊-再生

                4-3 崩し―積み木的作品

                4-4 「あの世」で子どもと〈自然〉が再会する——『崖の上のポニョ

終章 おわりに

引用文献

要約

 

序章 はじめに

 

 本稿は宮崎駿による『もののけ姫』(1997)以降の作品を後期作品として位置づけ、それらの作品にみられる人間と自然の関係の根本的な変容を描き出す試みである。後期作品を扱うのは、前期作品(『風の谷のナウシカ』(1984)、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)など)についてはこれまでも多く、積極的に語られてきたのに対し、後期作品については説得力のある批評が相対的に乏しい状況にある、という問題意識からである。例えば、ラマール(2013)は、一貫した視点によって前期作品を総括するような論を展開しているが、後期作品についてはほとんど触れられていない[1]管見の限り、後期作品については各作品を別個に論じたものはあっても、それらを総括する視点を提供する論はいまだ存在しない。本稿は『もののけ姫』から『崖の上のポニョ』(2008)までの展開を一つの物語として、通史的な記述を試みるものである。

 

 杉田(2014,163頁)は『もののけ姫』を宮崎の「折り返し点」と位置づけ、前期と後期で変化した事柄の一つに「〈自然〉のどうにもならない変質を受け入れること」を挙げている。この「変質」とは、一つには人間の活動による汚染や環境破壊などの目に見える変化であるが、それ以上に人間と自然の関係の根本的な変容、すなわち人間の外部の価値を担保する理念としての〈自然〉の死を意味する。そして、『もののけ姫』に生じたこうした「変質」は現実に存在する「人新世」的な状況と類似するものである。フレソズとボヌイユ(2018,112頁)は人新世に関する共著の中で次のように述べる。

 

人新世の到来を公言することで、大文字の〈自然〉、すなわち人間に対し、完全に外部的なものとして見られていた自然の死を宣言することが可能になった。人為的自然、技術的自然、ラトゥールの言うハイブリッドでダイナミックな「ポスト自然」へと入り込み、人間はそこでようやく自身を当事者として認識するだろう。

 

  こうした〈自然〉の死、人間と自然の関係に決定的な地殻変動が起きたという認識は人文社会科学の言説においてすでに強く根付いている。例えばネグリとハート(2003,243頁)もまた、『〈帝国〉』という広く読まれた著書のなかで、自然の内部化について次のように記している。

 

なるほどたしかに私たちの世界のなかには相変わらず森やコオロギや雷雨が存在しているし、また私たちはいまなお自分たちの精神構造が自然的な本能と情念によって突き動かされていると理解しつづけてはいる。だが、自然の諸力の力と現象がもはや外部としては受け止められなくなっているという意味で、私たちはすでに自然をもってはいないのである。ポスト近代世界においてはすべての現象と力は人為的なものなのであり、つまりは一部の人々が言うように歴史に属するものなのだ。そこでは、内部と外部の近代的弁証法は度合いと強度、混成性と人為性の戯れに取って代わられているのである。

 

 本論稿は杉田の区分に従い、『もののけ姫』以降の作品を、こうした大文字の〈自然〉の死というパラダイムのもとにあるものとして扱う。元々、アニメーションが自然を描くとき、メディアの性質上、こうした技術的・人為的自然、「ポスト自然」といった問題系と関係をもつことは避けられない。清水(2021,9-10頁)はウォルト・ディズニーが自然や動物を愛し、ディズニー映画には動物たちが必要不可欠な存在である一方で、彼の世界からは「自然を徹底して抹消し、浄化した衛生思想」や「メディアテクノロジーと資本を通して、人間を中心に、動物、自然界との共存を企図していこうとする、人新世的な視座から未来像」を読み取れると述べる。このように、アニメーションというメディアが素朴に自然を再現するならば、〈自然〉の不在のもと、それを人間の理想の反映物に代理させるというまさしく「ポスト自然」の産物となるが、本論で詳述するように、後期宮崎はそうした「ポスト自然」的状況それ自体について思考しているのである。

 その他、本稿において特に重要な参考文献に限り、ここに記しておく。藤原(2019)が『分解の哲学』で展開した議論は本論全体の裏地となっている。この著作は、生産を基礎にした世界ではなく、「分解」という観点から世界を描き直そうと試みており、とりわけ、第二章で扱う作品にみられる、崩壊や破綻という現象それ自体に一定の意義を与えることができたのは藤原の「分解論」の枠組みのおかげである。また、本稿では作品内に現われる「ゴミ」に着目した読解が行われるが、宮崎作品と「ゴミ」の関係については小野(2016)、本稿で「ゴミ」に関する記述を行う際には、シルギー(1999)を参照した。

 

 本論稿は映画評論である。批評にはさまざまな方法論が存在するが、基本的には作品論であり、画面に映っているものを最も重要な分析対象として扱う。ただし、必要不可欠な場合にのみ、作家の発言や書いたものを取り上げることもあるため、作家論としての側面も排除しない。また、宮崎の後期作品を「ポスト自然」について思考する作品として位置づけている点で社会反映論でもある。そして、作品内の物語やモチーフの意義を説明するのに有効な場合には、過去の文学、芸術作品を取り上げ、比較文学的な手法を用いる。

 続いて、本論稿の課題であるがすでに述べたように、『もののけ姫』から『崖の上のポニョ』までの展開を総括することである。続く本論では、この展開を〈自然〉の喪失から「再生」までの物語として描くことになるであろう。そして、それ以上に重要なのは、各個作品の意義を説得的に論じるという課題である。というのは、特に第二章で扱う『ハウルの動く城』のラストや『崖の上のポニョ』は混乱や破綻が激しい作品とされ、多くの論者が扱いかねている。例えば、先行研究に挙げた杉田(2014,239頁)は『ハウルの動く城』(2004)について、「正直なところ、終盤の『ハウルの動く城』の物語には、何が起こっているのか、さっぱりわからない。ただ、ものすごいカオスばかりがそこにある」と述べる。そして、宮崎自身この作品を失敗作として位置づけている節があり、杉田(同前,243頁)もまた「全体として見れば、どう考えても『ハウルの動く城』は失敗作だろう」と述べている。しかし、本論稿では「折り返し点」以降の作品において、更なる転回点となった重要な作品として位置づける予定である。

 最後に、本論稿の構成についてであるが、第1部は『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』(2001)についての論考である。第1章では、『もののけ姫』を〈自然〉の死そのものを描いた作品として位置づけ、第2章では、次作の『千と千尋の神隠し』がそうした〈自然〉の死以後の、「ポスト自然」の世界を描いた作品であると論じる。つづく第2部では、『ハウルの動く城』をそうした喪失感から更なる折り返しをはかる重要な作品として位置づけ、『崖の上のポニョ』に〈自然〉の「再生」を読み取ることになる。最後に、終章では宮崎作品において人間と自然の関係がいかに変遷してきたかをまとめ、本論稿を締めくくるという内容になっている。

 

第1部 〈自然〉の死をめぐる逡巡——『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』論

 

第1章 死に至る〈自然〉の物語——『もののけ姫

 

1-1 『風の谷のナウシカ』からの反転——回帰する「口」と神々の卑俗化

 

 『もののけ姫』は以前に公開された『風の谷のナウシカ』(以下、『ナウシカ』)のことを否応なく想起させるような作品となっている。それは、文明と自然の衝突というテーマ、二分された人間の世界と自然の世界という設定が繰り返されているためである。しかし、似ているからこそ、明確な差異が浮かび上がる。例えば、物語終盤の乙事主たちの捨て身の突進は『ナウシカ』のラストの王蟲たちの暴走を想起させるが、王蟲が人間の技術力(火)をも圧倒する力だったのに対し、猪たちは人間の火力に蹂躙され、次々と殺されるだけだった。また、両作品とも絶滅に危機に瀕している陣営ほど醜く争い合い、状況をより悲惨なものへとしていく。『もののけ姫』でも人間同士の政治的な争いが描かれないわけではないが、作中でそれらはあくまでもおまけであり、山犬神たちが乙事主や猩々たちと言い争いをしている場面の方が目につく。『もののけ姫』の山の神たちはどうして危機的状況にもかかわらず人間のように言い争ってしまうのか。

 村瀬(2004,52-53頁)は「王蟲」のイメージの特徴は「口がない」ことであり、「口」のあたりから「黄色い触手」が伸びていることに着目している。「口がない」ことで封じられるのは「しゃべる」ことと「食べる」ことである。山の神たちが言い争うのは、まず一つに、王蟲には封じられていた「口」が再度「与えられた」からである。そして、ナウシカもまた王蟲と同様に「口」の働きを制限されており、そのことによってナウシカ王蟲は交信することができた。劇中でナウシカは「チコの実」を少ししか口にしない。村瀬(同前,57頁)の言うように、ナウシカは「食」というあり方を回避している。

 このように「口」に着目すると、ナウシカとサンもまた対照が際立つようになる。サンはナウシカと異なり、「口」を過剰なほど使用し、さまざまなものを「口」の中に入れるからである。山犬神の血を吸い、口の周りを血塗れにしているシーンはこの映画の宣伝ポスターにもなっているが、それ以外にもエボシとの一騎打ちのときには大きく口を開け、アシタカに止められた時にはその口でアシタカの腕を噛む。アシタカが飲み込めない干し肉を、サンは自らの口で咀嚼し、そのままアシタカに口移しする。サンもまた、ナウシカが避けていた「口」の使用を引き受けているのである。

 王蟲に「口がない」ことは、『ナウシカ』の自然界において大きな意味を持っていた。劇中では、腐海の生物が攻撃されると王蟲は怒って人間に仕返しに来るため、腐海の生き物たち全員が「仲間」であるかのような印象を受ける(村瀬,2004,60頁)。そのため、腐海という生態系においても存在していたであろう、「食物連鎖」や「弱肉強食」の世界が上手く隠されているのである。しかし、『もののけ姫』ではサンや山の神には「口」が戻ってきてしまったために、厄介な問題と向き合わなければならなくなる。一つは「食べる」ことであり、それによって山の神たちは「仲間」を殺して食べなければいけない。山犬はヤックルを食べていいかサンに尋ねる。王蟲とは異なり、自らの食欲を隠すことはない。サンが持っていた「干し肉」は森の動物を殺して得た肉である。もうひとつは「しゃべる」ことであり、それは山の神たちに深刻な「仲間割れ」をもたらした。

 このように、ナウシカ王蟲が「口」封じによって、現実的な問題を回避し、超俗化していたのに対し、『もののけ姫』ではサンや山の神たちに「口」を返し―与え、そして過剰なほど使用させることによって、自然からかつてあった神聖さをはぎ取り、卑俗なものとして描き直した。なぜ宮崎は、崇高でときには人間に畏怖を与える存在として描いてきた自然を、『もののけ姫』においてわざわざ『ナウシカ』を上書きするように描き直す必要があったのか。

 

1-2 再編される人間と自然の関係

 

 元々、『ナウシカ』的な人類を滅亡に追い込む自然は、冷戦期の想像力の産物であった。杉田(2014,160頁)は宮崎の言葉を引きつつ、次のように述べる。

 

一九八〇年代までは、まだ、「世界は終わる」という終末論的な未来観があった。日本は経済的にも文明的にも成長していくが、ある日「ドカーンとなにかがはじけて」、繁栄も文明も一気に滅びる。関東大震災がもう一度来て、東京が一面、焼け野原になったら、阿鼻叫喚でひどいことになるが、「どこかみんなそうなったらせいせいするだろうなという、願望」が自分の中には根深くあって、それを否定できなかった。「一種、終末観すら甘美だった」。

 

 『ナウシカ』において宮崎が人間の文明を滅ぼす役割を自然に与えることができたのは、自然が人間の「外部」に存在するということが自明の前提としてあったからである。このような想定が不可能になった地点こそ、『もののけ姫』の出発点となる。そして、宮崎が変質した自然を描く上で、同時に浮上してくるのがディズニー的なものと向き合うという課題である。清水(2021,9-10頁)が述べたように、ディズニーの世界は資本と技術によって自然を人間のコントロール下に、自然を「外部」から「内部」へと引き込み、「ポスト自然」の情景を描いてきた。アニメーションというメディアはそうした「第二の自然」を描くのに最も適したメディアとさえいえるだろう。

 『ナウシカ』は、そうしたメディアが持つ傾向性に反発し、ポスト〈自然〉でありながらも人間には決してコントロールできない自然、すなわち自然の「外部」性を維持したまま描く試みであったといえる。腐海に住む生き物には当然言葉が通じず、人間にとっては不可解であり、『ナウシカ』は自然ではなく人間のほうが矮小な存在なのだと画面を通して訴えかけてくる。

 一方、『もののけ姫』の森はそうした〈自然〉の偉大さ、崇高さをほとんど失っている。かつての人間を感性的・身体的に撥ね退けてしまう森は、観る者を癒し、とっつきやすい小綺麗な森へと変質する。そのなかに住む生き物たちも人間の言葉を話し、事実上人間のコントロール下におかれている。〈自然〉は人間の領域へと堕ちてしまったようである。

 こうした自然の変質は、文化や想像力の問題としてのみあるわけではない。現実にはさまざまな分野でそうした人間と自然の関係の再編が進みつつあったのである。フレソズ・ボヌイユ(2018,267-268頁)は「人新世」時代の自然について次のように述べる。

 

一九世紀初頭の工業的近代は、自然が経済と外的な関係を持つものであり、無尽蔵の倉庫を満たす動員可能な貯蓄物であるとみなす思想を構築した。だが、二〇世紀末の金融的且つポストモダン的、柔軟でネットワーク化した資本主義の新たな段階によって、このような第一の近代性の存在論には疑問が呈されたようだ。(…)地球の限界を不可視化する行為はもはやその外部化(人間による採取や廃棄を問題なく受け止める巨大な外部として)のみならず、その過度なまでの内部化によって完逐されるものとなった。このような内部化は生態系の機能を金融の流れと共約可能なものにしようとする働きに伴って生じ、自然をそのプロセスの隅々まで資本化できる流動的なものとして再解釈する。(傍点原著者)

 

 工業的近代由来の自然の上に金融的且つポストモダン的な自然が重なってゆく。自然は貨幣、あるいは新たなメディアや言語によって容易に「翻訳」できるようになった。ボヌイユとフレソズ(2018,268頁)によれば、こうした自然の市場への内部化は、「構築主義の哲学者たちが自然の人間に対する他者性を否定し、存在論的に解体したこと」や「近年の工学的な研究がゲノムから生態圏に至る地球システムすべての面に関わってきたこと」とも関係しているという。

 『ナウシカ』から『もののけ姫』への移行もまた、このような動向の後を追うものである。ただし、『もののけ姫』で描かれる自然はそうした「内部」へと還元できない剰余を依然維持している。最後にその点に関して、同じく人間と自然の関係を描いた高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)と比較しつつ確認する。

 

1-3 『平成狸合戦ぽんぽこ』との差異

 

 小野(2016,195頁)は、ジブリが自然愛好と呼ばれることに対して宮崎が反発するのには、根底に高畑勲監督による『おもひでぽろぽろ』(1991)と『平成狸合戦ぽんぽこ』(以下、『ぽんぽこ』)への否定的批評があると述べる。そして、二人を比較しながら、「宮崎の荒ぶる森に対して、高畑の森はどこか調和がとれて静かである」と語る(同前,198頁)。それでは、これらの印象は具体的にどのようにして現れてくるのか。『もののけ姫』と『ぽんぽこ』を比較して確認してみる。両作品とも人間と自然の闘争を描いているが、たしかに作品から受ける印象はまったく異なる。

 まず、第一に視点の違いがある。『ぽんぽこ』は視点を狸陣営に限定することで、開発の純粋な被害者として狸が描かれ、狸側に感情移入しやすいつくりになっている。それに対して、『もののけ姫』ではサンではなく、主に部外者あるいは浮気者のアシタカ視点で物語が進行するため、鑑賞者は単純にどちらかに肩入れすることができない。

 そして二つ目であるが、擬人法という表現手法の扱い方の差である。一言で擬人法と言っても、動物の描かれ方は全く異なる。『もののけ姫』も『ぽんぽこ』も、動物には言葉が与えられており、動物は人間の秩序の下に存在するが、『もののけ姫』のそれはかなり慎重に扱われている。西が宮沢賢治の童話に関して述べるように、擬人法は動物を人間の友として迎え入れることで支配下におくという両義性をもつ表現である(西,2004,28-44頁を参照)。擬人法もまた、「ポスト自然」における人間と自然の秩序の形成に一役買っている。

 この表現がもつ威力は『ぽんぽこ』の冒頭シーンがよく示してくれている。狸たちの住処であった里山の空き家がショベルカーによって破壊されるシーンから始まり、食糧難が原因で狸同士が二つの陣営に分かれてにらみ合う、といった緊張感のあるシーンが続く。しかし、実際の戦闘シーンになると一転、狸は四足歩行から二足歩行になり、幼くて可愛らしいネオテニー的キャラクターへと変身する。そのディズニー的、より広くは漫画的で親しみやすい狸への変身と同時に一気に緊張は緩和され、コミカルなシーンへと変貌する。その後、かわいらしい小動物のような狸たちが人間と同じように言葉を話し、食事をし、恋愛し、家族をつくるシーンをふんだんに描くことで、人間の同類としての狸たちが生存環境を奪われたり、命を落としたりするシーンで同情を誘いやすくなっている。

 『もののけ姫』ではどうか。先ほど確認したように、『ナウシカ』では、自然を神聖かつコントロール不可能な存在として描き、擬人法には禁欲的だった宮崎も『もののけ姫』では部分的に解禁し、自然を人間によって対象化、掌握された空間として描くことを許している。しかし、同じ擬人法的表現でも宮崎のそれはかなり慎重に使用されており、人の言葉を話しはしても、獣は獣であり、人間の領域に完全に引き込まれ、馴化(キャラクター化)されることはない。

 また、『もののけ姫』の森は人間と自然、その関係性のバリエーションが場面ごとに変奏され、重層的に重ね合わされている。エボシらの視点による森の資源化や技術を介したモノ化は自然の外部化、機械論的自然観による自然の「純化」によって可能になる一方で、山の神々に焦点があたるとき、人間/自然を「翻訳」する方法である擬人法、自然を内部化していくプロセスによって、動物たちが人間による植民地的な秩序のもとに存在していることを示している[2]。『もののけ姫』の森はそのような二重のプロセスによって自然が翻弄されてきた歴史を背負っているが、しかしそのいずれによっても掌握しきれない自然の剰余としてシシ神やコダマが形象化されているようである。

 自然を人間的空間として牧歌的に描く高畑と、人間/自然が横断する領域を設けつつも、決して割り切れない剰余を同時に描く宮崎。この高畑と宮崎の違いは、それぞれが人間と自然、どちらを軸に思考しているかの違いを表していると考えられる。高畑が示す方法は啓蒙主義的であり、共感の対象を動植物まで広げられるよう人間を教化することである。そのために高畑は『ぽんぽこ』において擬人法を効果的に利用している。しかし、宮崎の高畑に対する批判は環境/動物倫理の基礎に人間の自然に対する同情や共感を置くという点に対して向けられている。宮崎には、いかなるかたちであれ自然を人間の制御下に置くことに対する不信がある。

 しかし、宮崎が人間による自然への介入を一切認めないのかといえば全くそうではない。アシタカは物語のラストで、タタラ場で生きることを決断したからである。そのことは、作中でエボシが単なる悪人として描かれていないことからもわかる。森の神々からすれば極めて暴力的なエボシも、タタラ場で生活する人々、特に差別を受けていた女性やハンセン病患者からすれば善良なリーダーなのである。すなわち、『もののけ姫』が喚起するのは、人間による開発や火の利用は善か悪かといった二者択一の問いではない。むしろ、人間の自然に対する暴力、搾取はどの程度なら、またどのような理由なら許されるのかといった折衷的な問いである。

 高畑の『ぽんぽこ』にはこのような両義性は見られない。物語に限らず、歴史や思想が情報・メッセージの伝達効率を高めるには、『ナウシカ』で宮崎が腐海の生き物たちにそうしたように、現実的な複雑に絡み合った事情はなるべく等閑視する必要がある。しかし、『もののけ姫』で宮崎は人間も自然も複雑なものを複雑なまま、何が善で何が悪なのか判然としない世界を描いた。哲学者の樫村(2002,80頁)は、無神論的で善悪が限りなく相対化されていく現代をストア派的な連続性の時代であると規定し、次のように述べる。

 

だが、後期ストア派の論理的帰結にあるのは、世界への冷静な認識が進めば進むほど、現在ある世界と人間の姿が必然的なものとして理解され、その汚濁と愚鈍さを含めて、そのようなものとしてあるしかない、全体の因果的連関と現在に至る経緯が、頑固に自己主張し始める、ということである。世界を夢想するのでなく、現実に改良しようとすれば、世界全部を焼き払うのでない限り、変えられる部分は驚くほど僅かである。

 

 この樫村の記述は、宮崎の『ナウシカ』から『もののけ姫』への移行を、そしてこの作品におけるサンやアシタカの無力感、無理矢理拵えられた大団円では拭いきれない徒労感を要約的に説明している。すでに確認したように、「世界全部を焼き払う」という夢想は宮崎のなかにも存在しており、それは『ナウシカ』として結実していた。しかし、『ナウシカ』的自然は既に存在しないし、文明の終焉も決して訪れないということは宮崎にも明らかだった[3]。宮崎は根本的な人間と自然の関係の変化を感じ取っていた。それゆえに、宮崎はかつての〈自然〉に引導を渡し、「ポスト自然」の光景へと描き直さなければならなかった。ラストのシシ神をめぐる混乱からは、現実と自らの〈自然〉への信念とに引き裂かれた宮崎の苦悩を読み取れるだろう。

 

[1] ラマール(2013)の第Ⅰ部を参照.

[2]純化」と「翻訳」については、久保(2019)第四章を参照した.また、擬人法と植民地主義の関係については西(2004)を参照.

[3] 宮崎(1996,520頁)における宮崎駿の発言を参照.

 

引用文献

小野俊太郎(2016)『「里山」を宮崎駿で読み直す——森と人は共生できるのか』春秋社.

樫村晴香(2002)「ストア派アリストテレス・連続性の時代」『批評空間』Ⅲ-2,79-89頁.

久保明教(2019)『ブルーノ・ラトゥールの取説——アフターネットワーク論から存在様態探求へ』月曜社.

清水知子 (2021)『ディズニーと動物——王国の魔法をとく』筑摩書房.

杉田俊介(2014)『宮崎駿論』NHK出版.

西成彦(2004)『森のゲリラ』平凡社.

ネグリ,アントニオ,ハート,マイケル(2003)『<帝国>——グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』水嶋一憲,酒井隆史,浜邦彦,吉田俊実訳,以文社.

藤原辰史(2019)『分解の哲学——腐敗と発酵をめぐる思考』青土社.

フレソズ,ジャン=バティスト,ボヌイユ,クリストフ(2018)『人新世とは何か——<地球と人類の時代>の思想史』野坂しおり訳,青土社.

宮崎駿(1996)『出発点〔1979~1996〕』徳間書店.

村瀬学(2004)『宮崎駿の「深み」へ』平凡社.

村瀬学(2015)『宮崎駿再考——『未来少年コナン』から『風立ちぬ』へ』平凡社.

ラマール,トーマス(2013)『アニメ・マシーン——グローバルメディアとしての日本アニメーション』藤木秀明監訳,大崎晴美訳,名古屋大学出版会.