3月21日

 大滝詠一の楽曲がようやくサブスク解禁。嬉しすぎる。ロンバケのような完成度がやばいアルバムももちろんいいし、『GO!GO!NIAGARA』や『NIAGARA CALENDAR』のような遊び心満載でそれでいて前衛的な感じもすごくいいし、幸せな結末や恋するふたりのような歌謡曲チックな曲もいい。これから聴きまくろう。

 エヴァの感想が解禁になったらしい。今日はこれといって何も無かったし、感想書こうかなあと思ったけど観たのがけっこう前というのもあってあんまり思いつかない。最初の10分、マリがパリで暴れ回ってエッフェル塔振り回したりしてたところはすごく良くてめちゃくちゃ興奮したのは覚えてる。逆に言えば、個人的にはあの映画のピークは最初の10分だったってことなんだと思う。Twitterとかでは肯定派、否定派の意見、両方いくつか読んだけど(とはいえ肯定の方がけっこう多かったかな?)、ぼくはどちらかと言うと否定的の方に傾いている、気がする。うーん、とはいえほかの否定派の人が熱量持って批判するほど、ぼくはエヴァというコンテンツに深く傾倒したことがない(後追いということもあるし)から否定派とも言えない。単純に作品単体で観てそこまでだったかなあと思った。あと、ある否定派の方が言っていたように、アスカやレイをあんなに雑に扱っていいの?と思った。特にアスカは毎回毎回本当に不憫だ。主題についても、最終的な落とし所が対話が大事、現実が大事ってところで、いやそこに着地するのは見る前からある程度分かってたことなんだけど…。主題だけ取り出して「成長」が見えたとか言われても、同じような問題系(オタクの実存、彼らがどう現実と折り合いをつけるか、それでもなお他者とつながるには、とか)でもっと複雑なことをやってるアニメ作品がすでにいくつか出てきてしまっている以上時代遅れ感が否めない。というかむしろエヴァは成長の失敗、破綻によって多くの人を惹きつけていたのに、あっさり「成長」しちゃっていいのかというのはあるが、「成長」しない限りは作品として終われないというジレンマが…。そういうわけで、主題だけを取り出して褒める言説は説得力がない。エヴァエヴァであるというそのことによって?あの作品を評価しないといけないんだろうけど、ぼくがそこまでエヴァにのめり込めないっていう。新劇場版はやっぱりマリの存在が大きかったんだなあ。ぼくはあのキャラ好きだから、とくにマリエンドに不満はないんだけど、ずっと観てた人からすると受け入れられない人がいるのもわかる。とりあえずこのへんで。

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3月19日

 快晴。窓を閉めるとき指挟んでちょー痛い。拷問の、指を金槌で打つシーン。指には末梢神経が集まっている。ありゃ痛いわ。バイトだった。最近は昼頃に起きてるから起きたらすぐバイトだ。祇園四条から河原町に乗り換える。後ろで男が女に「二浪の浪ってどういう意味かわかる?まあ、現代で言うニートみないなもんよ。実際俺は浪人のときニートみたいな生活送ってた。でも実はもう一つ意味があんねん。それは二つの波って意味や。俺にとってそれは一つがコンサルティング事業で、もう一つがIT事業で…」と、クソつまんない話をでかい声で喋っていて、さっさと死ねばいいのにと思いながら歩いていた。

 『猫のお化けは怖くない』(武田花)、「夏休み」より。

≪ 勉強もせず、夏休みの日々を私はなにをして過ごしていたのか。大体はボーッとしていたのだが、中学から高校にかけての数年間は盆踊りに夢中になり、東京および近郊の盆踊りをはしごして回った。櫓のまわりをぐるぐると、いい気分で踊り続けるうちに、休憩時間がくる。踊りの輪が崩れた中に、ぼんやりとひとりたたずんでいると、ふいに宿題や学校のことが頭をよぎり、気持ちが沈む。しかし、ドドンガドンドドンガドン、太鼓の音と共に再び音頭が始まれば、憂鬱はたちまち吹き飛び、手足がクイックイッと動き出す。ああ、このまま踊りながら、あの月や星のずっと向こう、宿題も学校もない世界へチャンチャカチャンチャカとにぎやかに昇って行っちゃったいなあ。いい形に指を反らした両手の間から夜空を見上げ、溜息をつくのである。≫

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3月18日

 授業料免除継続の申請をしに久しぶりに大学に行った。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』を観た。これは去年公開された劇場版とは別の映画で、あの痛ましい事件が起こる前に公開された作品。TV版があまり好きじゃなかったから、ほとんど期待せずに観たのだけど、この作品はとんでもなくよかった。TV版だけを観てぐちぐち文句を言う前にこっちを早く観ておけばよかったのにと思う。

 外伝はTV版と連続的であると同時に対照的だった。TV版が家族や恋人といった愛ー呪縛で結ばれた関係ばかりを扱い、全編通して息苦しかったのに対し、外伝ではAパートがヴァイオレットとエイミーの友情ー百合関係がメインプロット、過去のエイミーとテイラーの家族のような(!)関係がサブプロットもしてあり、Bパートでは成長したテイラーを主役にヴァイオレットやベネディクト、そしてイザベラ(エイミー)との師ー弟、かつての(擬似)姉ー妹関係が描かれる。数日前の日記に、TV版は愛という主題にこだわりすぎた結果、描かれる人間関係がどれも見覚えのある紋切り型になり、単調でつまらなくなったと書いた気がするけど、TV版の評価が変わるわけではない。同じ京アニの『中二病でも恋がしたい!』も愛、あるいはそれよりも限定的な、恋愛を扱った作品だけど、「中二病」は主人公とヒロインが親密になっていく過程が、世間一般の「恋人」関係を批判的に解体しつつ、新たな自分たちだけの関係を生み出していくプロセスでもあるというような、10年代の京アニらしい屈折を含んでいた(あの作品において愛はむしろ畏怖すべきものだったけど、その代わり「友情」は無条件に肯定される)。それに比べるとTV版の「ヴァイオレット」はなんの躊躇いもなく直接愛を賛美していて、ちょっと世間に迎合しすぎじゃないか思った。だからこそ大ヒットしたんだろうけど。

 しかし、外伝の方は「外伝」だからこそよかったのか、家族や恋人に限定されない、より多様な関係性を描いているし、家族の呪縛的な側面をきちんと描き、TV版をやんわり批判するような関係にもなっている。前に愛のような重たい関係だけじゃなくて、「友情」のような流動的で多様な関係性も描いてほしかったといったけど、それもこの作品できちんと補完されていた。ヴァイオレットのセリフに「イザベラ様は私に初めての友達をくださいました」とあるように、二人の関係は単純な「友情」でありつつ、一緒に風呂に入ったり、舞踏のシーンでヴァイオレットがタキシードを着る⇆イザベラの一人称は「ぼく」など、男/女⇄女/女⇄女/男と非常に流動的で百合の気配が濃厚な関係でもある。ヴァイオレットが愛を知るためには、TV版のように傍観者であるだけでは不十分で、実際に誰かと愛を育む必要があったのだろう(男にはギルベルト大佐という替えのきかない相手がいるので、女でなければならなかった。外伝ではギルベルトという名前が一度も出てこない)。愛という主題は継続しつつ、より不安定で刹那的でもある関係を肯定的に描く。その意味で、エイミーとテイラーがほんとうの家族ではないという点が極めて重要だろう。二人の家族のまがいものにもかかわらず/であるがゆえに家族を越える関係は素晴らしかった。これまでほとんど活躍のなかったベネディクトが重要な役割(テイラーとの師弟関係)を果たしていたのもよかった。TV版を観て物足りなかった部分がかなり補われている。

 数日前の自分に早くこれを観ろ!って言いたいくらいすごかった。ほんとに同じ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』とは思えないくらいの傑作だったから、途中で見るのをやめなくて良かった。

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3月17日

 晴れ。塾のバイト。ぼくは多くのことを無意識にとどめたまま思考したり生活することが多いタイプで、だから意識化ー言語化を求められる場面ではあたふたしてしまうことが多いなあ、と勉強を教えるなかで思い知らされる。自分だけで完結する場合は、無理に多くのことを意識に持ってくる必要はないけど、人に教えたりする場合にはそうもいかない。

 たとえば、ぼくにとって-5+8のような計算は無意識が勝手に処理してくれるけど、習いたての子にはまだそういう無意識が発達していないから、頭をフルに使って解くしかない。オセロや将棋などの多くのゲームに「セオリー」があるように、あれも要は思考の節約の道具で、そういったものが完成していない場合、こんな簡単な計算も大変な作業になる。-5+8の解を導くまでのプロセスが「セオリー」化していない子を相手にする場合、-5+8=3となるのを理屈で説明(言語化)する必要がある。無意識を使用できないということはつまり思考停止であることを許されないというわけで、何かを教えるというのは、自分がすでに無意識で解いてしまっている問題に対して、再度そのプロセスを意識が検証し、それを説明するという大変な作業になる。簡単にできてしまうことをできない状態に分解して再構築するというのは難しい。一度歩けるようになってしまったら、自力で歩くことができなかったときの感覚を思い出すことが不可能なように、不可逆的な変化がほとんどだ。成長過程で人はあまりに多くのことを無意識に自動的に処理させるようになるため、できないということができなくなる。だからこそ勉強を教えるなかで、自分が当たり前にできてしまうことが他人には全然できない、その「できない」という感触は自分にとっても新鮮で、大事にしたいと思っている。無意識が発達しきっていないというのは、常識や臆見に毒されていないということでもあるし、その段階は大切な時期だと思う。何かを教える人として、相手がなるべく使い勝手の良い、できるだけ「正しい」(より良い?)無意識を構築できるように導いてやる責務があるが、精神分析に習うなら、この教えるプロセスで、教える側の人間の無意識も再構築されなければならない。理想的な教育とは、意識化可能なものをただ伝授するのではなく、そのプロセスで無意識を上手く構築するーされるようなものなんだろう。

 それで、ぼく自身があまり理屈っぽい人間ではなく、普段から思考するときもイメージや感覚とかの無意識に多くを頼っている(象徴界よりも想像界が優位の、まあダメ人間)から、その教育がとても苦手だという話なんだけど、こういう個人の性質はどうしようもないことだから無理に鍛えようとはべつに思わない、少なくとも他人と接する場面以外ではなんの弊害もない、とか言って割り切っちゃうところがぼくの社会性のなさというか自閉的なところなんだろうか。誰かといる時間より一人でいる時間の方が圧倒的に長い人間だとそうなってしまうのも仕方がない。まあでも、日記を書くことは訓練ではあるか。日記を書くの向いてないなあと思うこともあるけど、続けてるとなにかあるかもしれないしなにもないかもしれない。いまのところ読み返すこともあまりなく、ただ書き散らしているだけなんだけど。

 『猫のお化けは怖くない』(武田花)より。

≪ どんよりした空の下、暗く灰色がかった景色の中に、派手な真紫色の、変な物体がひとつ。なんだ、あれは。猫に似ているけれど。近づいてみたら、土佐犬ぐらい大きい、ぬいぐるみ。

 地べたの上で前肢を揃え、クナッと木の幹に凭れかかる様子、首の傾け具合、背中からお尻にかけての太い線など、まるで生きているみたいだ。ふっくらした背中を指で押してみたら、生暖かい水がしみ出てきた。≫

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3月16日

 雨のちくもり。昨日の日記に書いたように昼に起きてから、雑誌から小説を切り抜いたり、写真を入れるようのケースを手作りしたりしていた。それを終えてからコンビニに出て、今日の分の食事をてきとうに買う。今日の外出はそれだけ。

 『虹色と幸運』(柴崎友香)を読みはじめる。去年の末に読みかえした『ビリジアン』にとてつもない衝撃を受けたあと、その余韻があったからか柴崎友香の小説をしばらく読んでいなかった。ようやく準備が整ったのか、急に読みたくなった。開いてすぐ目に飛んできた一行目の文が「晴れていた。」でブワーッと一気に幸福感を感じて、そうそうこれこれ、まさにこういうのが読みたかった!と思った。『ビリジアン』のときもこういうぶっきらぼうな感じにすごく惹かれた。最近読んでいる武田花も似た感じのものを持っている。きれいで読みやすい文章を書こうという意志は、きっぱり捨て去るべきなんだと思う。この小説は三人称によって書かれていて、視点のスイッチングが頻繁に行われる。最初の書き出しがすごく鮮やかで、この小説で用いられている技術の結晶のような場面なので引用する。

≪ 晴れていた。

 各駅停車しか停まらない駅の、乗車客の数に比して少ない自動改札機を抜けた人々は、まず、ロータリーの上に広がる薄い水色の空から差す日光の眩しさに目を細めた。「けやき広場」と看板は出ているがイベントができるほどの広さはない駅前の場所には、欅が等間隔で四本並んでいた。そのなかでいちばん大きい木の下で、本田かおりは、人を待っていた。

 ごめん遅れます、というメールを再び確認して携帯を閉じ、顔を上げると、藤色の帽子をかぶった子どもたちが広場を横切っていくところだった。前後左右を四人の保育士に囲まれた子どもたちは二人ずつ手をつなぎ、見慣れない人が行き交う周囲を、珍しいような不安なような顔つきで落ち着きなく見上げていた。≫

 まずカメラは駅の改札を出てきた人々を映し出し、次に切り返しで人々が見上げたであろう空を映し、ティルトダウンして駅前の広場を映す。カメラが広場にいる本田かおりを見つけると、再度の切り返しによって視点はようやく小説の登場人物に移る。最初からすごい文章密度。ここの鮮やかさカッコ良すぎる…。このような視点のスイッチングがなめらかに何度も行われるから、文章を読んでいるのに映画を見ているような感じになる。『ビリジアン』が傑作すぎて、次の作品を読むのがなんとなく怖かったけど、やっぱりこの作家の作品は自分にとってまちがいないなと思った。

 夜に『電脳コイル』を見はじめた。1話目からとんでもなく面白くて、すごく興奮している。「古い空間」のシーンがすごくよかった。最初のほう、電脳ペットのデンスケがずっとひどい目に合っているのが犬好きとしてはすこしキツかったけど。続きを見るのが楽しみ。

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