3月17日

 晴れ。塾のバイト。ぼくは多くのことを無意識にとどめたまま思考したり生活することが多いタイプで、だから意識化ー言語化を求められる場面ではあたふたしてしまうことが多いなあ、と勉強を教えるなかで思い知らされる。自分だけで完結する場合は、無理に多くのことを意識に持ってくる必要はないけど、人に教えたりする場合にはそうもいかない。

 たとえば、ぼくにとって-5+8のような計算は無意識が勝手に処理してくれるけど、習いたての子にはまだそういう無意識が発達していないから、頭をフルに使って解くしかない。オセロや将棋などの多くのゲームに「セオリー」があるように、あれも要は思考の節約の道具で、そういったものが完成していない場合、こんな簡単な計算も大変な作業になる。-5+8の解を導くまでのプロセスが「セオリー」化していない子を相手にする場合、-5+8=3となるのを理屈で説明(言語化)する必要がある。無意識を使用できないということはつまり思考停止であることを許されないというわけで、何かを教えるというのは、自分がすでに無意識で解いてしまっている問題に対して、再度そのプロセスを意識が検証し、それを説明するという大変な作業になる。簡単にできてしまうことをできない状態に分解して再構築するというのは難しい。一度歩けるようになってしまったら、自力で歩くことができなかったときの感覚を思い出すことが不可能なように、不可逆的な変化がほとんどだ。成長過程で人はあまりに多くのことを無意識に自動的に処理させるようになるため、できないということができなくなる。だからこそ勉強を教えるなかで、自分が当たり前にできてしまうことが他人には全然できない、その「できない」という感触は自分にとっても新鮮で、大事にしたいと思っている。無意識が発達しきっていないというのは、常識や臆見に毒されていないということでもあるし、その段階は大切な時期だと思う。何かを教える人として、相手がなるべく使い勝手の良い、できるだけ「正しい」(より良い?)無意識を構築できるように導いてやる責務があるが、精神分析に習うなら、この教えるプロセスで、教える側の人間の無意識も再構築されなければならない。理想的な教育とは、意識化可能なものをただ伝授するのではなく、そのプロセスで無意識を上手く構築するーされるようなものなんだろう。

 それで、ぼく自身があまり理屈っぽい人間ではなく、普段から思考するときもイメージや感覚とかの無意識に多くを頼っている(象徴界よりも想像界が優位の、まあダメ人間)から、その教育がとても苦手だという話なんだけど、こういう個人の性質はどうしようもないことだから無理に鍛えようとはべつに思わない、少なくとも他人と接する場面以外ではなんの弊害もない、とか言って割り切っちゃうところがぼくの社会性のなさというか自閉的なところなんだろうか。誰かといる時間より一人でいる時間の方が圧倒的に長い人間だとそうなってしまうのも仕方がない。まあでも、日記を書くことは訓練ではあるか。日記を書くの向いてないなあと思うこともあるけど、続けてるとなにかあるかもしれないしなにもないかもしれない。いまのところ読み返すこともあまりなく、ただ書き散らしているだけなんだけど。

 『猫のお化けは怖くない』(武田花)より。

≪ どんよりした空の下、暗く灰色がかった景色の中に、派手な真紫色の、変な物体がひとつ。なんだ、あれは。猫に似ているけれど。近づいてみたら、土佐犬ぐらい大きい、ぬいぐるみ。

 地べたの上で前肢を揃え、クナッと木の幹に凭れかかる様子、首の傾け具合、背中からお尻にかけての太い線など、まるで生きているみたいだ。ふっくらした背中を指で押してみたら、生暖かい水がしみ出てきた。≫

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