3月8日

 快晴。窓を見るとよく晴れていて、散歩日和だと思ったけど、筋肉痛でからだが痛すぎて外を歩く気にならなかった。夕方になると、わりと痛みに慣れてきてちょっと外に出た。外の空間全体がこれでもかというくらい青かった。夜になる少し前の、深い青、藍色。

 『音楽談義』(保坂和志×湯浅学)をすこし読んだ。小説の話もしてる。

湯浅「俺はなんにも音のしない文章がいいと思うな。さっきのマークじゃないけど、これを読むとこういう音っていうのが反応としてあるじゃない。言葉でもそうだけど。そういうものが全然ないものを書いてみたいとは思うね。イメージがこっちにあるものじゃないものでできた文章が書けるものだったら書きたいなと思う」

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の1〜7話をNetflixで観た。感情をもたない少女が愛を知る、という物語や設定で、なんでこんな紋切り型でベタなものをいまさら…という気持ちはやっぱりあって、どうしてこの作品がやたらと評価が高いのか前半を見ただけではまだわかっていない。さすがの京アニだから、3話の鐘楼のシーンとか、7話の川を渡るシーンとか冴えてるなあというところは随所にある、けど演出や表現にしても「ユーフォ」を観た後だともっとやれるんじゃないか、とも思ってしまう。ここまで基本的に1話完結だったのだけど、演出はともかくお話のヴァリエーションがあまりにも乏しいんじゃないかと思った。愛を知らない少女が愛を知る、という物語の制約があるからだろうけど、どれも似たような、そして見覚えのある紋切り型の展開、テーマが続く。たとえば、3.4.6.7話は同じ展開のヴァリエーションだ、とか(トラウマを抱える人物→主人公と接触することで解決)。いくらなんでも家族絡みのはなしが多すぎるんじゃないか、とか。各話を良い話、泣ける話にまとめようとしすぎじゃないか、とか。あと全体的にずーっと真面目な感じなのも個人的にはイヤだった。例えば「中二病」でも、後半シリアスな展開になるけど、脇役たちが主人公たちのよこでワイワイやっているから単調にならない、とかがあるのだけど(物語の主軸のシーンでは青、サブのシーンでは黄を貴重とした画面で統一されるなど)、この作品ではそういう起伏がなくて平板な印象(いまのところ、この作品では脇役たちがほとんど使い捨てのように扱われている感じがある)。これは『境界の彼方』の劇場版でも感じたことだけど。この作品における「愛」の専制に、水を差すキャラでもいれば、たとえば「ユーフォ」における久美子やあすか先輩みたいな屈折を抱えた人がいればなあ、と思ってしまう。6話では、愛に対する疑問がすこし描かれるけど。なんか、全体的にまっすぐすぎるんだよな、「中二病」や「ユーフォ」に比べると。勝手に余計な期待をして、無理な注文をしているだけなんだろうけど。まあ、ここまで書いたのは前半までを見ての印象だから、後半でどうなるか、という感じ。第7話でようやく物語が動き始めた感じがあったけど、似たような展開の連続ですこし疲れてしまったので今日は観るのを中断した。いろいろとくどくどと文句を言ったけど、作画や表現は相変わらず他を寄せ付けないクオリティだと思うし、それだけ期待が大きすぎるということで。後半はまた日を改めて観ようかな。

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