2月16日

・『西荻窪シネマ銀光座』(三好銀角田光代)を読みながら、映画を見る。一つ目は『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー)。最後の記者会見のシーンでちょっと感動した。三好銀の漫画もよかった。「ローマの休日」ならぬ「西荻の休日」。

・「『空間へ』再読 エリー・デューリングの「プロトタイプ論」の視点からみた磯崎新の「プロセス・プランニング論」」(柄沢祐輔)

https://ekrits.jp/2019/06/3068/

・引用。デューリングのプロトタイプ論。現代において創作とは何か。

≪そこではまずフランスの科学人類学者、ブルーノ・ラトゥールの定義したハイブリッドと純粋化という議論の枠組みが前提とされている。ブルーノ・ラトゥールは世の中のあらゆるものが複雑なネットワークを構成しており、この複雑なネットワークは「ハイブリッド」と名付けられ、同時に近代という時代においてはその複雑なネットワークが絶えず隠蔽されてきたことを指摘する。この隠蔽化の作業は「純粋化」と呼ばれ、近代という時代においてはこのハイブリッドが純粋化のメカニズムによって単純化され、今日私たちが一般的に見るような社会の諸制度の数々が生み出されてきたと語る。このような近代の社会のあり方を解きほぐし、物事の実体を再び複雑なネットワークとして、つまりはハイブリッドなものとして世界を捉え返すパラダイムをブルーノ・ラトゥールは提示する。そのような世界のあらゆる物事を複雑なネットワークとして眺める視点は今日の哲学・人類学の世界においては「存在論的転回(オントロジカル・ターン)」と呼ばれる。≫

≪しかしこのような観点は、主に2000年代以降さまざまな分野に浸透し、芸術・美学の世界においては「関係性の美学」と呼ばれる立場が広く浸透し、リレーショナル・アートに代表されるような、主にコミュニケーションそのものを題材とし、作品自体を極度に軽視する流れが生み出されることとなる。エリー・デューリングの「プロトタイプ論」が批判するのは、まさに芸術と美学の分野におけるこのような傾向についてである。エリー・デューリングは世界そのものが複雑なネットワークであることは認めながらも、そのネットワークを無際限に拡張し、作品としては最後に何も物理的な実体が残らないリレーショナル・アートの動向を「ロマン主義」と名付けて批判し、攻撃を加える。対して、複雑なネットワークのあり方を、その動的に変化を遂げてゆく無限の流動的なネットワークのあり方を一時的に「切断」し、作品が物質的な安定性を保持する状態を「プロトタイプ」と名付ける。この「プロトタイプ」は作者の観念が一時的に視覚化されたものであるとされ、その後に続く無数のバリエーションの存在や、その後の絶えざる変容の可能性を示唆するものとされる。いわば、近代の芸術の完結したオブジェクトでもなく、また無限のネットワークを指し示すことを主眼としたリレーショナル・アートのようなオブジェクトの不在のプロジェクトとしての芸術でもなく、そのどちらでもない中間の状態を指し示す芸術のあり方を指し示すものであると言える。ここでは、オブジェクトとしての作品の意義が「プロトタイプ」として新しい位相のもとで照射され、全く新たな形で指し示されていると言ってよい。≫

≪重要なのは、この「プロトタイプ」としての芸術のあり方が、今日の、そしてこれからの芸術のあり方を模索するための大きな方途を指し示しているという点である。というのも、あらゆる表現がコンピューターを介して制作される情報の時代においては、制作とは、そして創造とは、旧来の意味での制作や創造とは異なり、無数のバリエーションの中からとりもなおさずひとつのバリエーションの選択を意味することになるからである。このバリエーションの選択という作業が、エリー・デューリングの「プロトタイプ論」における「切断」の概念の内実となる。コンピューター上での表現は、変数を無数に入力することによってほぼ無限ともいえる表現のバリエーションを即座に生成することが可能となる。そのために、制作とは、創造とは、この無限のバリエーションの中から、ひとつの変数を選択するという行為、いわば流動しかつ無限の変動の可能性を示唆するコンピューター・アルゴリズムの織りなす関数のネットワークの中にひとつのパラメーター(=変数)を投じてそのネットワークを「切断」するという行為に、その重要な力点が移行することになるのである。ここで「切断」された変数が、すなわち実際の作品として、オブジェクトとして立ち上がることになるのだ。建築の場合では、コンピューターのモニター上で変数の投入に従って刻々と多様に変化を遂げてゆくヴァーチュアルな形態のあり方から、ひとつの変数を選び出す作業が、「切断」に相当することになる。この「切断」の経緯を経なければ、コンピューターのモデル上で多様に変化を遂げてゆく建築の姿は、物質として、現実の空間として私たちの前に立ち現れることは、決してない。≫

≪設計とは、とどのつまり無限に変化を遂げてゆく流動的なネットワークを、「切断」するという行為に他ならないのではないか。さらにこの「切断」という行為を突き詰めるならば、その根拠は、おそらくは自らの身体感覚のみを頼りにして、多様に変化を遂げてゆく流動的な状況の中で、その無限ともいえる膨大な可能な選択肢の中からたった一つの可能性を、選び出す作業に他ならなくなる。私たちは、磯崎新の「プロセス・プランニング論」に、その創作の最も重要な契機として、そのような自らの身体感覚を介しての「切断」の瞬間が、生々しく刻印されているのを、読み解くことが可能だろう。そして情報化がさらに進展を遂げ、創作のあり方が根本的な変容を被りつつある現在、この「切断」についての先鋭的な思考が封じ込まれたこの『空間へ』という書物は、今後のあらゆる建築家、都市計画家、のみならずおよそ芸術とあらゆる表現を志す全ての人間にとって、創作とは何か、その表現の根拠は何かについて思考をするための、巨大な導きの糸となり続けることだろう。≫

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