1月30日

・レポートのネタを探しで『縁食論 孤食と共食のあいだ』(藤原辰史)を読んだ。縁側について書いているところがとても良かった。縁側の内と外が一体となった特殊な空間性。人がフィクションで縁側を描きたくなる理由がわかる気がする。

≪玄関や勝手口と比べると、縁側というのはなんとも絶妙な空間である。オフィシャルでもプライベートでもない。縁側は、庭に面している。けっして大きな庭ではないが、庭からは斐伊川の源流である船通山が借景となって眺められるので、縁側の戸をはずすと、客間から庭にかけて風が入り、内と外が一体となる。昼寝にも最高だ。座布団を並べてゴロンとなれば、あっという間に夢の世界にトリップできる。その間に風だけでなく、ハチやアブやハエやアリもわざわざ入ってきてくれる。ハエは私のお腹の上を乱舞し、蚊は寝ている私の血を吸う。虫との仁義なき戦いが繰り広げられる舞台も、やはり縁側である。≫

≪家の縁にある、家の外となかをつなぐ空間である縁側。ここで繰り広げられた食の風景は、いまもなぜか鮮明に記憶に残っている。庭に入ってくる人たちは、縁側に吸い寄せられるように座り、お茶を飲み、ウリの漬物をかじり、スイカの種を庭に飛ばした。≫

≪庭の手入れをお願いしていた近所のおじさんは、私の母親の葬式が終わり最後の挨拶で「庭の手入れをしちょーとね、縁側にいっつもお茶を持ってごしなはった」と言って、そのまま泣き崩れた。その頃社会人になりたての私は、そこが涙腺の緩むポイントなのか、と驚き、感涙の秘話として受け取っていいのか戸惑った。

 でも、いまなら、なんとなくおじさんの気持ちがわからんでもない。母の葬式から一〇年以上経って、夏に帰省したときのことだ。かんかん照りの太陽の下、庭で草取りをしていた。ふと部屋のなかを眺めると、太陽の光になれた目には暗く感じた。あの奥の暗がりからもしも足音が聞こえたら、縁側でちょうど陽の光がその足音の主を照らすだろう。それが毎回生きている人間とは限らない。いつか死者に邂逅するとなればそれは縁側かもしれないと、私はそのときようやく気づいたのだった。≫

まあ、レポートは1文字も進まなかった。

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