11月29日(小鷹研の展覧会へ)

・名古屋で小鷹研の『注文の多い「からだの錯覚」の研究室展』。最初に体験したのが「Elastic Legs Illsion」と「腕凧」。何気にVRは初体験だった。めちゃくちゃ酔った。まず何よりも強い感覚でやって来るのは酔いだった。VRの作品が展示されている部屋ではずっとフラフラしていた気がする。というか、この酔いの感覚は今日ずっと尾を引くことになった。視覚だけの世界に没入することで、身体の存在が希薄になっていくのだけど酔いによって現実の身体に絶えず引き戻されていく感じだった。「ROOM TLIT STICK」では、杖のようなものを押すと連動してVR映像のなかで室内の壁が90°傾いて、床が壁になる。現実との接点はつねにあることが小鷹研究室のVR作品で重要なのだと思うのだけど、この作品で1番面白かったのはさっきまで自分が操作していた杖が映像のなかで、手を離した瞬間からくるくる空中で浮遊し始めて急に<向こう側>に行ってしまったところだった。VR映像の世界で自分にとって唯一の親しいものであったはずの杖が、離してからはモノの世界の住人になってしまったことに自分がショックを受けているのが可笑しかった。

・「胴体ゴムゴム新感覚」、これは本当にすごかった。幽体離脱をリアルに感じることができたと思った。自分の頭部がバスケットボール、からだがバネになり、最終的に自分の頭部=バスケットボールを吹っ飛ばすのだけど、ボールが飛んだ瞬間、自分のからだごとバスケットボールに乗り移りってからだ全身でネットにぶつかる感覚があった。もしこのボールがもっと勢いよく飛んで、なかなか壁にぶつからないまま長い時間で飛んでいたりなんかすると本気でヤバかったんじゃないかと思う。現実のボールはネットにぶつかって落ちているのにVR映像のなかでは浮遊したまま謎の空間に飛ばされる、みたいな。この作品では一応、バスケットボールがネットにぶつかることによってぼくは自分の身体に返ってくる気がした。もしバスケットボールがどこかに辿り着かないまま飛び続けていたらぼくはボールに乗り移ったまま<こちら側>に帰って来れなかったんじゃないかという好奇心と恐怖がリアルだ。

・たぶん今回の目玉である「ボディジェクト闘争」を体験した。これはすごかった。作品としてとてもおもしろい。左の鏡のなかでは手の骨が換喩的にじゃがりこになり歯ブラシになり、ボールペンになり、そこで形成された交換関係によって、右側のモノが配置された机の上にそこにないはずの手が擬似的に浮かび上がってくる。左手はモノが置かれたのと逆側に置いているのだけど、右手でモノに触れながら、左手の指と右手と触れ合っているモノを同時に触られると、モノがほんとうに指と化してしまったかのような錯覚を感じた。手の指がモノになり、モノが手の指になる。右側でボールペンやじゃがりこや歯ブラシを持ち上げられたり引き抜かれたりすると、そんなところに触らないで、みたいな気持ち悪さが生じた。余談だけど、もしこの作品を『海辺へ行く道』を作った三好銀が見ていたら…ということを考えてしまった。

・古典的なものなのだろうけど、「軟体生物ハンド」もすごく面白かった。自分のからだの表面というか、身体の領域のようなものが極めて可塑的でちょっとしたことで揺らいでしまうことに素朴に驚いた。入力された触覚に対して、視覚がその感覚と同期させようとするときに誤って構成してしまうバグなのだろうけど、改めて人間にとっての視覚の強さを感じた。

・アーティストトークの前に、昼ごはんを食べた。近くにあったチーズ専門店?みたいなところでピザを食べた。店員が会計のときに変な呪文みたいなものを唱えていて困惑した。たぶん店員同士でしか通じないやつなんだろう。あとで、会場でもらった「即席錯覚のレシピ」を店内に忘れていったことに気づく。

・昼食後に小鷹研理×水野勝仁×谷口暁彦のアーティストトーク。小鷹さんは、<向こう側>に没入することで多量の感覚の入力を受け、感覚によって主体が分裂したまま快感を得るだけみたいな作品はダメで、<向こう側>を経験する、あるいは<向こう側>のモノたちが<こちら側>に侵入してくることによって、実際にわたしを支えている根底的な何かが組み替えられるような体験がなければならないということや、同じことだと思うけど「気持ちいい」だけじゃなくて「気持ち悪い」(谷口さんの言葉で言えば「同期」と「ズレ」)が必要、というようなことを言っていた。このことは、小鷹さんが二次元(向こう側、バーチャル)と三次元(こちら側、「現実」)が拮抗する作品にこだわることや、幽体離脱を科学的に追求していることと関係があるのだと思う。谷口さんは小鷹さんの話を受けて、「似ている」ということについて話していた。たとえば、家族のような自分に似ている人物には、あるアスペクトで見れば自分と同じ見た目や性質が「そこ」にも発見することができ(同期)、別のアスペクトで見れば自分とはまったく異質なものを発見できる(そのズレが小鷹さんの言う、「そういえばなんでこの人と一緒に暮らしているんだ?」のような違和感や恐怖にもつながる)。谷口さんは作品のなかで自分に「似ている」アバターを登場させるのだけど、そういうことだったのかと納得した。自分がここだけではなく、そこにも存在して、明らかにそこに存在しているのにここにいる自分とは確実にどこかが違う。そして、その「ズレ」の発見は、ここにいる自分にも否応なく反照してきて、なんらかの変容をもたらすことになる。東浩紀も最近、哲学的に家族にかなりこだわっていて、考えていることもかなり似ていそうだと思った。あと、サッカーゲームの「ヤバさ」についての話もとてもおもしろかった。通常のサッカーゲームでは、1番ボールに近い、いわゆるフィールドで主役になっている人物を自動的に操作することになるけれど、ボールが別の場所に移動した途端、さっきまでわたしに操作されていた人物は急にAIによって自立して動き出すようになり、逆に主役に躍り出た人物はついさっきまで自立して動いていたのに、この瞬間からはわたしによって身体を乗っ取られることになる。たしかに言われてみればかなり不気味だし、最近のゲームは人物もリアルだから余計にヤバさがある。水野さんも、自分によって操作されているiPhoneの画面の動きはよくよく見るととても不気味だ、だけど商品になっている時点でインターフェースに触れるときの不気味さは可能な限り縮減されているから、わたしたちはその気持ち悪さをスルーできてしまう、ということを話してくれた。そして、小鷹さんの話の文脈で、商品には気持ちよさしかないけれど、アートは気持ち悪さにも直面するし、両方の感覚を行き来する、と。水野さんはトーク時のプレゼン資料をTwitterにアップしてくれている。

https://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/1332675449315500033?s=20

 

・撮った写真

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