11月26日

・土曜日に名古屋に小鷹研理研究室の展示会を観に行くことにした。名古屋までの交通費は全然安くないけど学割使えばまぁなんとか、という感じ。少し立て込んでいる時期なので、どうしようか迷ったけど予告動画とかを観ているうちに我慢できなくなってしまった。

http://lab.kenrikodaka.com/exhibition/2020/

 

・例えばこの動画、根本的な不安や気持ち悪さに触れてくる。

「bodiject-oriented(ボディジェクト指向)」

https://vimeo.com/293061994

 

・小鷹研理の研究や作品についての予習。すごくおもしろい。このリンクで言われている、「ナラティブなセルフ」(物語的な自分)と「ミニマルなセルフ」という区別でいうと、ぼくも二つ目のレベルに介入できるような作品に興味があるし、できるならそんな作品を作りたいと考えている。

http://sozoplatform.org/body_illusion/

「からだの錯覚」から引用。

≪僕は身体にまつわるもので人間一般が抱えている拘束が二つあると思っていて、一つは最初に思考実験してもらったもので、身体をモノとして体感することができないこと、モノの上に貼られた「身体」という名のラベルをどう頑張っても剥がせない、という話ですね。これを僕は「身体によるモノの隠蔽」と呼んでいます。

もう一つが、これから話す幽体離脱の話になるんだけど、視点というものが、この頭部の中に閉じ込められているという話です。これを僕は「身体による視点の拘束」と呼んでいます。例えば、空想上の視点を身体の外側へと飛ばして、天井辺りから周囲を眺めたらどのように見えるか、僕たちの持ってる脳の計算能力をもってすれば、それなりの精度で想像できるように思うわけですね。情報処理的には、例えば、3DCG系のソフトウェアでカメラのトランスフォームをいじっているときと同じ要領で、周囲から見たときにどのような視点を構成できるのか、ある程度のレベルで予測し再構成できるはずなのに、なぜだが、僕たちの視点はココ(頭部)の中に閉じ込められている。想像はあくまでも想像の位相に留まり、本当の意味での意識の基点となる視点を、その想像に乗せるかたちで頭部から切り離すことができない。この辺のよくわからないアンタッチャブルな制約が、多分、僕が最初に言ってた「ギリギリの自分」の位相と関係していて、おそらく、何らかの方法でその過保護的に守られた敏感な場所を触ってあげること、揺さぶってあげることによって「ギリギリの自分」が騒ぎ出すのではないか、、そのような予感が僕にはある。≫

 

・わたしが「ここ」だけでなく「そこ」にも存在する(した)というリアリティ。「Recursive Function Space」について。

https://youtu.be/dqqdUnp4PSU

http://labrec.kenrikodaka.com/2017/04/03/bfield2017acv/

≪僕の考えでは、この種のリアリティーを、「鏡の手前にいる本当の自分」と「鏡の側にある虚像」というような二項関係として捉えるのは、問題を極めて矮小化しているような気がしてならない。というのは、鏡やらモニタを通して自分を見ているような状況において、「自分がこちら側にいる」という手応えは決して崩れることがない。鏡を見るという行為によって、「いま・ここ・わたし」の基盤は、いささかも動揺しないばかりか、むしろ、「自分が現実にここに存在する」ということに対する現状の揺るぎなさをより強化してしまうようなところがある(その基盤は、むしろ鏡に自分が映らない場合にこそ、致命的なダメージを被るだろう)。こういった二項関係においては、虚像が、現実の身体に絶対的に従属してしまっているのだ。≫

≪「自分がここにいると同時に、虚像の側にもあるというような同時性」にかかわる感覚。この深遠なるリアリティーを解く鍵は、やはり、主客の方向性が極めて錯綜する幽体離脱にこそ求められるべきである。そのような状況では、幽体する視点だけを借りて、オリジナルの自分の肉体を眺める経験(客体→主体)と、肉体は相変わらず視点の側にありつつも、モニタ上の自分を眺めるような経験(主体→客体)とが、ないまぜに共存するような事態が発生している(にちがいない)。こういう事態に際してはじめて、自分の<自分性>を深いところで支えている何かしらにメスが入り、その副作用として、あるいはその補償として「不安」が生じる。≫

≪自己言及性の問題は、当然ながら認知の問題(ホムンクルス無限後退)とも強く絡んでいる。したがって、美術の領域で、しかし徹底的に形式的なやり方で、「展示する空間」と「展示される空間」の階層性を無化するような表現を志向することは、結果的に、「イメージする自分」と「イメージされた自分」とが入れ子的に構成されてしまう宿命を負った、意識を持った僕たちが、普段どうやって離人症的な不安を回避できているのか、あるいは、どのような条件で明晰夢が発生するのか、といった認知システムに特有な問題を解くための手がかりを与えてくる可能性がある。と、まぁ、この話は、結構な広がりを持っているはずなのだ。≫

≪虚構が現実に擬態することで、目の前にある現実が括弧つきの現実へと後退する作用を、『擬態と後退の法則』と名付けてみた。≫

 

・ここで語られているようなことは『ビリジアン』(柴崎友香)を読むときの経験を的確に言語化しているのではないかと思う。あの小説では、過去の出来事を「語るわたし」と「語られるわたし」の階層性が意図的に無視される。あの作品を「語るわたし」によって新たに生成された虚構が「語られるわたし」の現実に擬態していく小説だとひとまず考えると、かなりしっくりくる。

・小鷹研理さんが挙げているジャルジャルの「1人漫才」も似たような視点から興味深い。

https://youtu.be/tArKtvTDQMs