11月25日(「ピーターとジャニス」「火花1・2」『ビリジアン』)

・バイトの行きと帰りの電車のなかで『ビリジアン』(柴崎友香)のつづきを読む。この前に読み返したときは一作目の「黄色の日」に打ちのめされて、あまりの充実感に先に進めなくなってしまった。この日読んだのは、「ピーターとジャニス」、「火花1」、「火花2」。この作品のすごさ、おもしろさを言語化するのは結構難しい。例えば、一回目に読んだときに全然面白さが分からなかった過去のぼくに現在のぼくがそれを説明しても過去のぼくは納得しないのだと思う。それはたぶん、この「面白さ」が個人が他者と切り離された場所で作品と触れ、自分だけの力で経験するしかないものだから。ぼくはこの作品に自分なりのよい仕方で触れることで、小説を読んでいてはじめて芸術の力に触れた気がしている。いぬのせなか座の山本浩貴さんが雑誌の座談会のなかでたしか『ビリジアン』を2ヶ月かけて読んだという話をしていたのだけど、ようやくその意味が分かった。

・「ピーターとジャニス」も「黄色の日」と同様、語りを支えているフレームが目まぐるしく変化する。一文めは《京都の大学を受験した帰り道だから二月だった。阪急電車の急行だった。》と「想起」(時間の外)で始まるが、次の段落からはすでに語り手の<わたし>は語られる出来事の時間の中にいる。このくらいのフレームの操作は小説なら普通に行われるが、これらの連作では度を越えて現在と過去が混同される。この作品で混同されるのはそれだけではない。「ピーターとジャニス」では、タイトル通りにピーター・ジャクソンジャニス・ジョプリンという、現実に固有名をもって存在する人物の名前をもった登場人物が二人登場するのだが、ピーターは実在の人物とは明らかに異なる人物として描かれるのに対し、ジャニスは実在した「ジャニス・ジョプリン」という名に含まれている確定記述をいくつか共有している。にもかかわらず、作中において彼女は大阪駅のバスで<わたし>の知り合いとして登場する。この作品では、「ジャニス」という人物によって現実(43年生まれで70年没の歌手)とフィクション(大阪駅のバスに乗る<わたし>の知り合い)の次元の本来ならば不可能であるはずの混同が実現している。そして、現在と過去のフレームの混同と現実とフィクションのフレームの混同はまったく別のものではない。すでに起こった出来事を<わたし>が思いだすという形式が、過去の<わたし>が経験している現実にフィクションの次元を呼び寄せる。これらの連作において漂う独特の非現実感、浮遊感(図)は、語りの部分でいくつもの異なる次元が拮抗している(地)ことによって成立しているのだ。その現実との微妙な距離感がこの作品をとても魅力的なものにしている。

・次の「火花1・2」もとても面白い。なめらかに引っ掛かりなく読めるように見えて、明らかにヘンな文が唐突に挟まれたりする。そして、「黄色の日」にも登場(?)した愛子がここでも登場するのだけど、ぼくにとってあの作品における愛子はほとんど幽霊だから、「火花」でも愛子が何かを言ったり何をしたりするとすべてがあやしく見えてしまう。実際、遠くの港の方にある公園に行くのを提案するのは愛子だし、<わたし>たちは愛子によって異界に連れていかれているんじゃないかと。もちろん、愛子は<わたし>にとって実在した(している)人物かもしれないし、公園のある港も現実に存在する場所かもしれないのだが(というよりそちらの可能性の方が高い)、やはり愛子によって連れてこられる場所の描写の閉塞感はどこか現実離れしていて、異界に迷い込んでしまっているのではないかという気持ちもぬぐい切れない(この拭いきれない、否定しきることができないというのがとても重要なのだ)。現実と非現実、具体と抽象の微妙な匙加減が本当に素晴らしい。

 

・早朝の京都駅

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