11月16日

『Detroit Become Human』というゲームの実況動画をずっと観ていた。前にも別の人が実況していたのを観たことがあるのだけど、久しぶりにこのゲームの映像を観ていると、改めてクオリティの高さに驚かされるのだった。アンドロイドを主人公として、人間が操作するというのがおもしろい。ただ、そのことが容易に人間→アンドロイドへの転移を促し、展開上仕方ないのだけどわりと呆気なく、プレイヤーが操作するアンドロイドは人間化してしまう。人間とアンドロイドの同一性の部分はともかく、差異についての体験というか学習の要素が足りないんじゃないかと思う(コナーが一応その要素を担っているのかもしれないけど、たしかこのキャラも終盤人間化する。プレイヤーの選択によってはしないのかもしれないけど)。例えば、『涼宮ハルヒの消失』でも同じように、感情を持たないはずの長門に感情が発生し、それが世界改編につながってしまうのだけど、「長門の感情の発生」という出来事が一定の説得力を持つのは、テレビシリーズでエンドレスエイト(15532回の僅かに差異を伴ったほとんど同一の情報の入力によるストレス)のような事件や、キョンたちと過ごしていた時間の流れがあるからだろう。それに比べると、このゲームのアンドロイドはあまりにも簡単に人間化してしまうのだが、ゲームだからある程度は仕方ないのかもしれない。そうだとしても、人間とアンドロイドの対立軸を立てて、最終的に感情(人間側)の価値を称揚するっていうのはディックの時代から見ても後退ではないか。まあ、ゲームの映像は素晴らしいからそれだけで観てしまうのだけど。

 

f:id:moko0908:20201117082742j:image