11月12日(「ハイポジション」)

・さっき『響け!ユーフォニアム』の一話と二話をDVDで見返していた。ぼくはこのアニメがとても好きなのだけど、一回目に観たときよりも物語や展開を知っている分、入ってくる情報が多くてとても感動した。ここまで仕掛けられていたのか、という感じ。これはどの作品でも言えることなんだろうけど、初めて触れる作品で手探りで集中しながら観たり読んだりする経験と、二回目以降の、すでにこれから何が起こるのかを(まるで未来からやって来たかのように)知っていて、余裕をもって作品に触れる経験は全く別物だと思った。どうしても一度目の経験は、物語の時間の流れに不可避的に巻き込まれて、時間の外で俯瞰的に分析することが難しい。展開や物語を知っていて、時間の外に立つことができるからこそ、生き生きとした細部を改めて発見することができるのだと思う。もちろん、一度目の先の見えない時間の中でしか得ることのできない経験もあるのだけど、ぼくは結構二回目以降に観たときの方が感動したり凄さを発見することが多い(一回観ただけで気づくことができないぼくの経験不足もあるのだと思う)。

 

・今日、読むのが三回目の柴崎友香ハイポジション」(『ドリーマーズ』所収)もそうだった。前回までの読みだと、この作品がここまで作り込まれたものだと気付いていなかった。『ドリーマーズ』の一作目のこの作品は、タイトル通り夢に関する短編なのだが、この連作において夢は「向こう側」への通路となっている(「ドリーマーズ」で、<わたし>の夢に死んだはずの父が出てくるように)。そしてこの小説を駆動するひとつの大きなモチーフが<わたし>の「向こう側」に対する好奇心と恐怖が混淆した感情であると思われる。そして、この作品で「向こう側」に行ってしまった人物が、最初の非現実感が漂う場面に登場する川口くんであり、「向こう側」に対する<わたし>の好奇心は彼と別れたあともしばらくの間持続する川口くんへの好奇心として現れている。

・この小説で<わたし>は周りにいる人が笑っているか笑っていないかを常に気にしているような描写がみられる。なぜ<わたし>は他人の表情をそこまで気にするのか。それは、この小説では、「笑い」が<わたし>と同じ側にいるかどうかのマーカーになっているからだ。川口くんは「笑顔を作らない」、「やっぱりにこりともしない」と、決して笑わないことを強調されているが、これは川口くんがすでに「向こう側」の人であり、<わたし>の手の届かないところにいる人物であるということを示している。そのあと、川口くんのことを喜市とアイちゃんに話すシーンで、二人がゲラゲラ笑っているときに、「笑っていられるのは喜市もアイちゃんもお金を貸すほどの知り合いじゃないから」と冷めた感じで見ているのは、ここで<わたし>が「向こう側」に思いを馳せているからだ。そして、シーンが進むと、アイちゃんも<わたし>の側に来る。<わたし>が下に落ちたラッシーに触発されて夢について語り始めたとき、アイちゃんは興味を示すが喜市はそうではない。<わたし>とアイちゃんが「向こう側」である夢について話し合っているとき喜市は「笑いもしない」のだ。しかし、<わたし>、喜市、アイちゃんの関係は容易に変化する。<わたし>がNHKのラジオの話をしたとき、逆に喜市は興味を示すが、アイちゃんはそうではない。そして、喜市が関心を示してくれたことに<わたし>は嬉しくなる。だが、喜市とアイちゃんが音楽の話を始めると、わたしは二人から弾かれ、窓を見上げる。このように、三人の関係が流動的でつねに変化していくのだが、<わたし>が「ここではないどこか」を志向しているのだけは一貫している。それはさっきまでいた地上だったり、ずっと働いている13階のビルだったり、川口くんのいる「向こう側」だったりしていて、この小説の「見上げ」たり「見下ろし」たりする行為はそのことに関わっている。見下ろしたり、見上げたりする行為は、「ここ」にいる<わたし>を相対化し、見るだけではなく誰かによって見られる<わたし>を出現させる。この<わたし>の位置の相対化を経ることで、最後に「ハワイなんて、簡単に行けるんやから。」という思いに到達する。

・最後の岡崎くんの登場のオチも俊逸すぎる。このオチは途中のラッシーで起きた夢の現実化の反復でもあるけれど、たぶん̪志賀ちゃんという人物の赤ちゃんへの<わたし>の思いとも関わっている。<わたし>は「名前が決まる前」の赤ちゃんのこれからどのようにでもあり得る、潜在的な可能性のようなことを語るが、これは<わたし>の記憶の中にいて、夢のなかに登場した中学生のときの岡崎くんにも当てはまるだろう。アイちゃんに「そういうのって中学生のままなの?」と聞かれて「多分見た目は前のままやった」と答えるのだが、最後のオチで「かっこいいどころか、しけしけ」だったと里奈に明かされるまでは、<わたし>にとって岡崎くんはどのようでもあり得たわけだ。あそこでは<わたし>が上手く言語化できなかった「感じ」が、岡崎くんによってある意味直接的に与えられる。このようなたくさんちりばめられて、絡み合っている細部を最後にうまく収めるオチはとても完成されてるし、すごすぎる。

・こんなふうにじっくり読んでいくと、この作品が相当練られて作られていることが分かる。「ドリーマーズ」も「ハイポジション」も「黄色の日」も、どれもあっけらかんと雑作に書かれているように見えて、一文一文かなり考えられている。そうでなければ上のような芸当はできないだろう。柴崎友香は本当にすごい作家だと思う。

 

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