11月10日(「黄色の日」『ビリジアン』)

『ドリーマーズ』がすごすぎたから、同じく連作の『ビリジアン』を読み返そうと思って、一つ目の「黄色の日」を読んだのだけど、この作品、何度読んでもすごすぎる。最初から最後まで完成されすぎていて、一つの場面、一文、もはや単語一つ一つのレベルですべてが替えの効かない必然性を持っている。色々な仕掛けが最初からめちゃくちゃに詰め込まれてるから、読むのに集中力を要求されるし、短い文章なはずなのにとても時間がかかる。初読時に10分程度でなんの違和感もなくスッと読めてしまったのに驚く。この作品は明らかにとんでもないことをやっているのに、素朴な読者には普通の小説として読めるように構成されているのだ。そこがまたすごいのだけど。

この小説は最初、すでに過去に起こった出来事を<わたし>が回想として語るという形式ではじまる。すなわち、語っている<わたし>は語られる出来事のなかで流れている時間の外に立っている。しかし、その語られ方に妙なところがたくさんある。まず、最初の一文は《朝は普通の曇りの日で、白い日ではあったけれど、黄色の日になるとは誰も知らなかった。》と始まり、ここで<わたし>によって《誰も知らなかった》と断言されていることの違和感。それだけでなく、なぜ一人で登校していたのか《思いだせない》、《季節もわからない》と、そのときの記憶がかなりあいまいであるにもかかわらず、最後に《たぶん、七時四五分だった。》と書かれており、記憶の解像度がわりとヘンなこと。ここまでは序の口で、四つ角の真ん中に男が座り込んでいるシーン(この場面自体がけっこう非現実的なのだが)の《わたしは立ち止まって、手前の家の植木の陰からその人を見た。》という一文あたりから、<わたし>と起こっている出来事の距離が急に縮減され始める。つまり、この場面以降、<わたし>はそこで起きている出来事をまるで今、その場で受け取っているかのようでもあり、いつのまにか<わたし>は流れている時間の内部にいるのである。つまり、「語りの遠近法」とも言うべきものが序盤からかなり狂っている。決定的なのは男が二回目に「おおー」と声を出すシーンである。

《また声が聞こえた。わたしは頭を戻してその人を見た。さっきはその人の手に隠れていて見えなかったけれど、缶ビールが道路にあった。》

ここで、一度目に男を見たのは過去に起こったことを語る時間の外の<わたし>ではない。その出来事を<かつてーいま>経験した時間の中にいる<わたし>が《さっき》見たのである。ここでこっそりと、<わたし>が二重化したのだ(「さっき」という言葉を使って明示するあたり、上手すぎると思うのだけど)。主にこれまでの柴崎友香の小説で登場していたのは後者の<わたし>であろう。しかし、この小説では回想というかたちで<時間の外のわたし>が導入されている。そして、ここがこの小説のもっとも特異である点であると思われるが、この<時間の外のわたし>は時間の外にいて、当時の状況を正確に描写する役割を当てられているにもかかわらず、恐ろしいほどにその語りが曖昧でテキトーなのである。だから、<時間の外のわたし>によって過去の出来事が平気で途中で書き換えられるし、<時間の中のわたし>はその変化に平然と対応する(愛子が急に登場したり、急に消えたりする。この小説の愛子はほとんど幽霊のようだ)。これは、ミステリなどでよく言われる「信頼できない語り手」などとは異なる。それら、多くの「信頼できない語り手」は時間の中にいるはずだ。その人物が信用できなかったことは、物語の概要が大方明らかになり、読者が時間の外でそれを把握した後はじめて、事後的に明らかになるものだ。しかし、ここでは時間(物語)の外にいる語り手が信頼できず、言うことがコロコロ変わるということによって、世界を成り立たせている地が一文ごとに変化し、読みながらその地殻変動を経験することになる。それは現実世界で言えば一秒ごとに物理法則が書き換えられてしまうようなものではないだろうか。そんなとんでもないことがこの小説では静かに(!)起こっている。<時間の外のわたし>が遠い記憶の中の<時間の中のわたし>に引っ張られ、巻き込まれることで、過去に起こった「確定した現実」が宙吊りにされ、現実からだんだんと離陸していく。黄色の日で次々と起こる非現実的で夢のような不思議な出来事は、こうした記述のレベルで準備され、それによって各場面に異様な説得力を与えている。《小学校への通路を、わたしは一人で歩いていた。》と一度確定された事実が、(本当に)唐突な愛子の登場(「楽しそうやな」)によって揺るがされ(《愛子がいたということは、朝七時に待ち合わせして商店街でスケートボードの練習をしていたときのことだったんだろうか。》)、そして結局、愛子がそこにいたのかいなかったのか不確定のまま(!)夢のような描写が続く。

《愛子は、私の肩越しにビールの人を見ていた。》のあと、愛子は<わたし>の鞄から水筒を取りだして勝手に飲むが、そのあと《やっぱりそのときに愛子はいなかったかもしれない。》の一文以降は、愛子は唐突に登場しなくなる。さっきも言ったけれど、ここの場面での愛子の振る舞いは、特に<時間の中のわたし>にとってはほとんど幽霊だろう。急な登場と消滅、肩越しに男を見、勝手に水筒を取りだして飲む。実際、愛子が消えたあと、男は、《なぜかびっくりしたような顔で、誰もいない道の真ん中を、中空を見ていた。》と書かれる。もし仮に愛子が幽霊であるとするならば、こんなに画期的な幽霊の描写が今まであったろうか。描かれるべきは幽霊それ自体ではなく、「幽霊がいる」という感触そのものなのだ。そういう意味で、『ドリーマーズ』と近いことをやっているとも言える。こうして、記述のレベルで非現実感、浮遊感を演出することができているために、なにが起こっても、説得力がある。黄色の日、中川のでかすぎる消しゴム、朝から四つ角に坐ってビールを飲む男、幽霊のような愛子・・・。すべての場面が替えの効かない説得力を有してしまうのはそのためであろう。書けば書くほど、この作品がヤバすぎることがわかる。本当の傑作に触れてしまった、という気がする。今日は「黄色の日」だけでもうおなか一杯に堪能させてもらった。この作品については、もっと考えたいし語りたいけどそれはまた今度。

 

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