10月25日(『消しゴム畑』@ロームシアター京都について)

ロームシアター京都で行われていた金氏徹平×チェルフィッシュの展示、『消しゴム畑』が今日までだったので、慌てて見に行った。ロームスクエアとピロティの二つのバージョンがあって、先にロームスクエアの方を観たのだけど、最初観始めたとき、屋外で映像作品を観るという経験になかなか慣れることができなかった。というか、ぶっちゃけ通行人にめちゃくちゃ見られているのが落ち着かなかった(ほとんどの時間ぼくしか観ていなかったから目立っていた。しばらくしたら慣れたけど)。

(でも、この人に見られることの落ち着かなさ、慣れなさがこの作品を受容する際にとても重要なものなのではないかと観ているうちに思うようになった。だだっ広い広場の中にテレビが二つぽつんとあって、一見まったく意味をなさない映像が延々と流れ続けているのだけど、そのテレビの前にある椅子に座るということは、その明らかに違和感のある空間に強制的に参入させられるのであり、まさに鑑賞者は通行人という普段の安全な空間にいる人々の視線によって、映像作品と共犯関係を結ぶというのかな・・・。うまく言えているかはわからないけど。)

(実際、ピロティの方の作品では、六つのフレームが平面上に並置されていて、この作品にはナレーションがついているのだけど(またこのナレーションの語り口が素晴らしい)、「自分が七つ目の画面の中にいると想像しながら見るのがおすすめです」(不正確)というセリフがある。)

(ぼくはほとんど今日一日中ロームスクエアかピロティのどちらかにいたけど、映像を最後まで見た人は一人もいなかった。ぼくみたいにわざわざこの作品のためにそこにいる人以外、つまり偶々気になって観てみたというような人は全員(おそらくだけど、流れている映像の不可解さに耐えられらくなって)、五分もしないうちに立ち去って行った。)

ロームスクエアの方の『消しゴム畑』では、左側のテレビでは「モノ」としか呼べないようなさまざまな物体が机の上で積み重ねられたり、ただ単に並べられたり、落とされたりという映像がひたすら続く。一方、右側のテレビではフレーム内にいる人が、左側のテレビの映像を観ながら机の上の状態を自分の部屋にある物で再現?しようとしているような映像が流れている。でも実際には、再現といえるほど二つの映像に強固な結びつきを読み取ることも難しい。一応、左の映像が原因で右の映像が結果、あるいは左の映像(入力)→右の映像(出力)といえるくらいの関係はあるけど、両者が入れ替わる時もあるし、同時展開しているように見える時もある。なので、だいたい左の映像で何が起こるかを観る→右の映像で何が起こるかを観るというような見方をすることになるのだけど、真剣に見れば見るほど、入力に対する出力の結果、すなわち左の映像に対する右のフレームにいる人の応答の仕方がおかしくて笑えてくる。もちろん、片方の画面を独立した映像としてみてもかなりおもしろい。そもそも二つの映像には何の関連性がないのかもしれない(と、言うことはさすがに難しいか)。

ピロティの『消しゴム畑』は、フレームは6つもあり、それぞれの映像を何らかの仕方で結び付けることはロームスクエアの作品よりも困難になっている(注意してみればそれなりに見つけられるのだけど)。しかし、その分こちら側の作品にはナレーションがついていて、それなりに見方を提示してくれる(さっき言った「自分のいる空間を七つ目のフレームとして想像する」のような)。

とくに、「人間が、にんげんにんげんしないでこの世界に、もっと今よりもしかるべき感じで生きていくにはどうしたらいいのか、結構真面目に考えています」(不正確)とうような語りは、『消しゴム畑』という作品が実現しようとしていることを直接的に言っているのだと思う。そしてさっきも言った通り、まさにこの映像作品が屋外の、しかも人通りが多い場所での展示であることによって、日常が脱臼してしまったようなおかしな映像も、それを観ている鑑賞者も、異質な=非人間的な空間として立ち現れる。この作品の最も素晴らしいところは、チェルフィッシュのこの非人間的な実践に、鑑賞者もリアルな形で参加し、真剣にそれを感じ、共犯関係を結ぶことが可能な点にあるのではないか、と思う。これは家のような安全な場所で観ていると難しいんじゃないかと思う。ぼくは普段引きこもりなのだけど、実際に作品を外に鑑賞しに行くということの重要性が分かった気がした。

『消しゴム畑』の映像を観ながら、三好銀の漫画を思い出していた。チェルフィッシュがやろうとしていることを漫画で高度に実現しているのが、三好銀なのではないか。日常から半歩ずれ落ちていまっているようなのだけど、どこかにありそうで、ちょっとクスッと笑えるような抽象的な空間・・・。それに関連して、「笑い」というものについてもうちょっと考えてみようと思った。西川アサキの『魂のレイヤー』で引用されている、片岡聡一の短歌、「シナプスの火花が散ってセロトニン図解のビデオみてる明け方」の面白さ。たしか、早稲田文学に「笑いはどこから来るのか」という特集があったはず・・・。

 

あと、岡田利規の本になっている戯曲を読んでみようと思った。もしかしたらわりと近いことを考えているのかもしれないと勝手に感じたので、この人の作品を追い続けなければと思った。

 

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