9月25日

母親の運転で行ったツタヤの帰りに、車窓から煙突を見た。煙突の少し上には、濁った色の小さな煙のかたまりがぽつぽつと点在して、動きは止まっていた。煙突から出た煙はゆらゆらと上へと昇っていくものだと思っていたからか、そこに見えた風景だけ時間が止まっているように見えた。

車が走っているときに、窓を開けると、たくさん顔に風が吹いてきて、気持ちよかった。そのときジミヘンの『Are You Experienced』を聴いていた。

DVDは親がいるのをいいことにたくさん借りてしまった・・・京都に帰るまでに見終わるかな。

ジム・ジャームッシュ『デッドマン』、『ブロークン・フラワーズ』、『ミステリー・トレイン』、『コーヒー&シガレッツ

横浜聡子ウルトラミラクルラブストーリー

鈴木清順ツィゴイネルワイゼン

ジャームッシュは、『ナイト・オン・ザ・プラネット』、『パターソン』を観てから、この作家のことが絶対好きだ、っていう確信みたいなものがずっとあって、まとめて観たいと思っていたからたくさん借りれてよかった。

 

保坂和志『残響』を読んだ。

コーリング」も「残響」も、今までの「僕」による一人称小説ではなく、三人称になっていて、主人公といえるような人物がいなくなっている。「コーリング」で新たな形式を準備して、「残響」で今までの保坂スタイルを新しい形式において展開するという風になっている。ぼくは「残響」を読んでいて、最初の方で、またいつものこれか・・・とうんざりしたにもかかわらず、途中で今までで一番好きかもしれないと思い、最後の方でそれを超えて普通に傑作の小説なのではないかと思った。多分、最初の方でうんざりしたのは、俊夫のパートで長々と熱力学第二法則がどうのみたいなのが入ってきて、どうしてこれを「小説」として読まされなければいけないんだ、と思ったのがあったからだと思う。けれど、後半にその違和感は完全に解消された。ああ、この小説はゴルフをしているおじいさんやそれを見ているカラスと同等の資格で、「見ること」や「考えること」を世界に定着させようとしているのだ、ということが理解できるようになるにつれて、俊夫の思考も小説における重要な一要素としてすっと入ってくるようになった。

《「見る」や「考える」ということは物質的に起こっていることとしてすべて物質的な用語で説明しうることで、物質的なことであるかぎり空気中に拡散してしまって、この世界に何も記録されない。もし熱となって拡散した「見る」や「考える」やすべての人間の動きがそれだけを特定して、散乱した米粒を拾い集めるように抽出することができたら、人は誰もいなくなった部屋に入って、かつての住人がしゃべったり笑ったりしている姿を再現することもできる》

三人称が小説の登場人物にもたらしたのは、ある種の欠如だろう。例えば前作の『季節の記憶』の「僕」の一人称によって構成される世界においては、何も欠けることがなく自足していることによって、世界から「僕」に対する感覚の入力を淡々と丁寧に描写することができている。「残響」では、三人称とともに登場人物に欠如が投入されることによって、「登場人物たちはしきりに時間的・空間的に隔てられた者どうしの交歓もしくはコミュニケーション可能性について考える」ようになる(石川忠司の解説より)。人は自足している場合「いま・ここ」だけで、成立するが、欠如を受け取ってしまった人間は(それはほとんどの場合、他人によって与えられる)、「かつて」や「そこ」にいる「だれか」に想いを馳せることで自分を成立させるしかない。

《いま自分が一人だけでいる気持ちをわかってくれる誰かがいるんだと思ったとき(その人と一生会わなくても)、早夜香はいままで感じていたみすぼらしさや心細さで中身が流れ出しそうだった自分のからだが一つにまとまりを取り戻したように感じた。》

 

ここで思い出していたのは、読んだばかりの『水は海に向かって流れる』(田島列島)だった。主人公の一人である榊さんは、母親に駆け落ちによって捨てられた「怒り」を母親に向けて解消することも忘れることもできないままになっている。その感情を自分の中に刻印しておくために決めたルールが「自分は恋愛をしない」なのだが、物語の後半で、母親に対して「怒り」を解消するチャンスが訪れる。が、母親はすでに別に幸せな家庭を築いており、その行動は母親の家庭を破壊することになり、高校生の頃に自分が受けたトラウマを母親の新しい娘にも与えることになりかねない。結局、榊さんは自分のやり場のない感情を抱え続けてこれからも生きなければいけないように思われたのだが、その問題は、もう一人の主人公である、直達が「榊さんが怒っていたことを忘れない」と約束することによって解決される。直達がその榊さんのその感情を覚えている限り、それは確実にこの世界に存在することになる。この解決は作品のなかで最も美しいところだと思う。書きながら思いだしていて、また泣きそうになってきた・・・

いまこの時間に「だれかがだれかのことを考えている」ことが救いになる。そんなことを「残響」を読みながら考えていた。

(いまや、人間にとって根源的であろうそのような欲求も、SNSでお手軽に満たせるようになってしまったけれど、そうではないような「人と人との繋がり方」が確かにある(あった)のだと思う。)

 

おばあちゃんの家で晩御飯を食べているときに、「報道ランナー」のコーナーの、兵動大樹の今昔さんぽを見た。66年前に撮られた写真と同じ場所で写真を撮るという企画で、今回の場所は奈良県と大阪の境にある暗峠兵動大樹がその場所を探しているときに90歳のおばあちゃんが登場して、この場所がどこか分かります?と聞かれた時にすぐにああ、と言って答え始めたのに感動してしまった。90年生きた記憶が、一人の人間に積み重なっているのを初めてこんなに実感した。とてつもないことだと思った。こんなに感動したのは、昨日、柴崎友香の『その街の今は』を読んだことも関係している。

 

月見バーガーを食べた

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