9月17日

実家に帰省してから、ずっと家にあるスピーカーで音楽をかけている

一回サブスクの便利さを経験しちゃうと、もう前時代には戻れないって思う

ずっと聴いちゃう

今日は聴いてたというより流していたに近いけれど

スティーリー・ダン『The Royal Scam』

コリーヌ・ベイリー・レイ『The Sea』

オリビア・ニュートン・ジョン『Have You Never Been Mellow』

ドナルド・フェイゲン『The Nightfly』

トレインチャ・オーステルハウス『Sundays In New York』

最後のアルバムは、オランダの歌手のものだけど、このアルバムのリード曲の「Everything Has Changed」がめっちゃ好きでずっと聴いている

インスト版も最高

 

『この人の閾』(保坂和志)を読んだ

表題作+「東京画」、「夏の終わりの林の中」、「夢のあと」の四作品(解説が大貫妙子でおおっ、て思った)

表題作以外の三作は、ただひたすらその辺りを歩くだけの小説

(作品を読めば、近所を歩き、眺めるという行為には「ただ~だけ」では決して済まない情報量があることがわかる)

これらの作品を読みながらどうしても思い出してしまうのが永井荷風の『日和下駄』

一人称でただ歩きながら何かを語るという形式上の一致だけではなく、開発によって周りの景色がだんだんと変化していくその最中で書いているという部分も同じだ

保坂和志の小説は、本人も言っているように、人間だけのときはとことん軽いが、猫が登場するととたんにシリアスになる傾向がある。それは、「外部」が存在しないとよく言われる保坂的世界においてまるで猫がその閾を引いているかのよう

おそらく、このときの保坂和志にとっては、猫こそが死や意味などの世界の「外部」への通路になっている

「東京画」はこれまでの中で最も暗い(もちろんその暗さはできるだけ抑制されている)

「夏の終わりの林の中」は二人で歩き、「夢のあと」は三人で歩き、「東京画」は一人で歩いている(3人のときもあり)

『プレーンソング』、『猫に時間の流れる』と読んできて、まさか保坂和志の小説で「死」が描かれるなんて思いもしなかった。予想できなかった分だけ読んでいる側もかなりダメージを負ってしまう(「猫に時間の流れる」の時点で、若干その影はちらついていたけど)

猫に時間の流れる」と「東京画」はそういう意味で異色の作品とも言えるが、この二つが他の作品と異なるのは、(猫の)死の影がちらついているということと、死の影が文体に波及することで、より語りは内省的になり、思弁的な考察が前面に出てくる

(それは上手くいっている場合とそうでない場合がはっきりしていて、そんなんいまさら言われなくてもわかってるよ、ってこともあればおーっと思うときもある)

《ここにはそれが望んだものであるとないとに関係なくこの外観のとおりに生活している人たちの意志とでもいうようなものが働いているとこちらに感じさせるのだし、こういう家と庭の様子をよく知っていた過ぎ去った時間というものをぼくが短い時間でも再び経験したように感じたのは場所の持つある種の作用ともいえるもののはずで、場所と時間という二つが切り離されたものではないということをここは示していた。》(「東京画」)

《建物がそこに人の住むもので、建物自体に時間や記憶を住む者に喚起させる何かがあるのだとして、そしてそれが直接住んでいないでその建物を見るだけの者にもある種共通の時間や記憶を喚起させるのだとしても、ここに住むようになりこのあたりを歩きながら意識して見るようになった構えの大きな日本家屋にはもっと純粋に視覚的なおもしろさがあると思った》(同前)

(小説において、一人称による一人語りは何人かでの会話に比べてどうしたって暗く見えてしまうということもあるかもしれないと思った)

読みながら考えていたのは、日常を再発見するための一つの方法に「言語化」があり、小説があるということ。保坂和志の小説を読んでいるとすごくそれを感じる

(ぼくが好きな作曲家の照井順政の言葉で言うと「世界と出会いなおす」)

「夏の終わりの林の中」と「夢のあと」は、文句なしの傑作だと思う

ひろ子のセリフが良い

《「季節っていいうか、季節の記憶っていうか、それがこの年になると心の中にけっこう厚い層になってて、その厚みだけで何かがあるような気がしてくる、——問題はその厚みの方だったって――」》(「夏の終わりの林の中」)

あと、特に意味はないけれど次の箇所が好き

《ぼくはきっとだらしなく頬を弛ませていただろう。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ」という和歌を思い出した。ぼくはこの歌が好きでたまに思い出す。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」まで、つまり上の句全体が「長々し」を導く枕詞になっている。意味だけで言うならじつに空疎な歌だと思う。ひろ子の解釈では、一年も気にかかっていた夢がそれ以上空疎なものになった。ぼくはそれが不満なのではない。がっかりしてもいなかった。そういう無意味さが好きなのだ。》

こういう無意味に惹かれる傾向にはぼくにもある(それは「無意味」という意味に堕落しないようにつねに注意が必要なのだけど)

 

そのあと『モンキー・ビジネス』(ハワード・ホークス)を観た

最近小説を一冊読んで映画を一本観るのがルーティン化しつつある

赤ちゃん教育』も最高だったけど、ホークスのコメディはマジで面白い

ぼくなんかが何かを言うまでもなく傑作

 

夜に散歩していると黒猫かホテルに入ろうとしてた

姫路駅周辺猫多いね

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