朝起きたらやっぱり昨日の心地よい涼しさとは打って変わって、夏のジメジメした生ぬるい暖かさがあった
ほんと、はやく秋になってほしい
昼間、空は曇りはじめて雨が降り、しばらくすると雷の音
昨日、力尽きて書けなかった西川アサキの本についてあともう少し
人は、誰にとっても必ず訪れる死のような、頑強に存在するリアルなものが存在する限り、中途半端な相対主義者であることしかできない(そして、象徴的なものの「外部」にリアルなものがあるがゆえに、むしろ最終審級として「常識的なもの」を温存する)
『魂と体、脳——計算機とドゥルーズで考える心身問題』より
《つまり、この場合の「現実」は、結局の所、生活や利害調整=主体の生き死にをめぐる競争からは逃れられない、という常識を意味する。それが「常識」なのは、この「リアル=生死」というのは、その裏面として、「(一つの体に)唯一の主体が存在し、それが生き死にする」という世界観=常識を前提しているからだ。この意味での「リアリズム」というのは、常識であり、頑健だと思う。もちろん、唯一の主体など見せかけだ、と主張するのは簡単だ。しかし、その主張は多くの場合、そのような主張をしながら、裏では生活のための生存競争に明け暮れるという「中途半端な相対主義者」と、同じ二重構造をもつ振る舞いに帰着する。生存競争と複数の主体は両立できない。主体が一貫性を持たないと、自分の作った戦略や契約すら忘れてしまうからだ。》
ドゥルーズやガタリはあまりにもかんたんに「リアル=生死」を自分たちの理論から、遠ざけてしまった。しかし、最も重要なのはいかにして「リアル=生死」なものから逃れ、リアリズムから逃れるか、そこについての精緻な理論化、あるいは芸術などによる実験、そして万人が使えるような技術であり、西川アサキは、そこのドゥルーズ&ガタリがおろそかにしてしまった部分をやろうとしているように、この部分以降は読むことができる
『魂のレイヤー——社会システムから心身問題へ』も基本的に同じ問題意識が貫かれており、「形ある生命からの逃走」のための理論、実験(小説)が詰め込まれている
こんな貴重な本世界中探してもほとんどないよ、もう圧倒されるしかない
一度でもこういう問いに捕まったことがない人にとっては、なにそんなことでマジになってんだよ、って思うかもしれないけど、ぼくからすれば、こういう死をめぐる問いと比べたら他のどんな問題だって、ささいでちっぽけな問題だ
パウル・ツェランの詩(「フランスの思い出」)について述べられていることが面白い
お前 僕と一緒に想い出しておくれ——パリの空、大きなイヌサフラン・・・
ぼくたちは 花売り娘から いくつもの心を買った——
それは青く そして 水のなかで咲きほころんだ。
ぼくたちの小部屋には 雨が降り始めた、
そしてぼくたちの隣人がやって来た、ムッシュー・ル・ソンジュ(「夢、空想(Le songe)」)が、やせこけた小男が。
ぼくたちはカードをした、ぼくは瞳を失った、
お前はお前の髪を僕に貸し、ぼくはそれを失い、かれはぼくたちを打ち倒した。
かれは戸口からでていった、雨はかれの後をついていった。
ぼくたちは死んでいて 息をすることができた。
《「ムッシュ―・ル・ソンジュ」は、普通に考えれば、夢や空想が「ぼくたち」に対し及ぼす、破滅的影響のメタファーと解釈できるだろう。しかし、それでは、わざわざ詩にする必要はなく、説明すればよい。「ムッシュ―・ル・ソンジュ」が何か未知の「カテゴリー」への名前としても使われて、それは「誰にとってもまだ未知」だと想定できるから、詩である意義があるわけだ。別の言葉で言えば、「雨がかれの後をついていった」り「死んでいて、息をすることができた」というような細部が、メタファーとしての解釈に抵抗し、「未知」であることを維持する。》
詩に対して何らかの「意味」を求めたがる人は、メタファーによる解釈の水準で満足するかもしれないが、当たり前だけど詩を詩として成り立たせているのはそこから逃れていく部分だ
コンビニで買った朝ごはんを食べてから、『青春感傷ツアー』(柴崎友香)
この小説も、何気ない細部の記述がとてつもなくおもしろい。例えば、次のようなところ
《無人駅の前の小さな広場に置かれたベンチに座ると、空からプロペラの音がした。見上げると、雲は一つもなく、淡い青色の穏やかな冬の空が広がっていた。遠ざかっていくパラパラという音の源を探して、頭を動かしても空には動くものは何も見つからず、さまよう目線は、すぐに山並みに行き当たる。どっちを見ても、視線は連なる山に遮られる。手前にある低い山の急な斜面には、右から左、左から右と、交互に道路が斜めに走っているのが木の隙間に覗く。頂上近くまで水溜まりほどの広さの段々畑が重なり、斜面にしがみつくように立っている家が、昼下がりの暖かい太陽を全身で受けようとしている。落ちてきそう、をわたしは思った。
「どっちみてんの?あっちやで」
音生がわたしの頭を掴んでぐりっと反対側に向けた。太陽を背にして陰になった山の向こうへと消えていく、白っぽいヘリコプターの小さな後ろ姿が見えた。》
何気ない一場面ではあるけど、この冴えた記述によって、読者は文字を追う自らの視線を主人公の視線に同一化させる。柴崎友香の「眼の文体」(豊崎由美)
この小説にもパウル・ツェランの詩について言われていたことと同じことが言える
このような何気ない細部が「あらすじ」をまとめたらほとんど何も書くことのないこの小説を面白くしている
おそらく「意味」を求めたがる頭でっかちな人は、「この小説で作者は何を伝えたいのか?」なんてことを言い、こんな小説を読んでも何も得ることがなかったなどと言って勝手に腹を立てるんだろう
たぶんそういう人は小説を読むのに向いてないし、映画を観るのにも向いてない(過激)
確かに、この小説には、読んで得られる意味もないし教訓もないし、わかりやすい感情的使用「価値」(泣ける、笑える、共感できる・・・)もない
けれど、そういう分かりやすくて共有可能な「価値」に還元できない、良さがこの小説には間違いなくある
夜、夕飯を食べに外に出る。ドアを開けて外に出ると廊下の先の方でネコが階段を登ってきたところだった。僕と目が合うと、すぐにそのまままた階段を駆け上がって、そっちのほうに行くと階段の中腹でネコがこっちを見つめてた
なにしにきてたんだろ、アパートに入ってきたのをみたのは初めて
隣の隣くらいのアパートのところで見かけたことのあるサバ猫?だった
階段を降りて、なんかいつもより空間がひらけていると思ったら、唐突に自動販売機が姿を消していた
外、深くて鮮やかな青色の空に灰色で若干赤みがかった雲
帰って来てから『パターソン』(ジム・ジャームッシュ)
もう、本当に最高
こんなに素晴らしい映画があっていいのか
いいんだな・・・
ジャームッシュに一生ついていこうと思った
とりあえず今あるやつ全部見よう
あ、二万したイヤホンは最高、買ってよかった
最初に、聴いたのはSmells Like Teen Sprit(安直)
ぶちあがったな・・・
今日の写真