7月4日

・雨のなかを走るのも気持ちいいかもしれないと思って走ってみると気持ちよくはなかったけど、晴れている日には見れないものがたくさん見れてよかった。

川の水の量に驚く

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こんなにカッコよく見えるカラスは久しぶりに見た

 

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これは近距離で撮ったハト

 

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これは雨降る鎖

 

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・雨が降っているときに走ると疲れにくい気がする。サッカーやっていた時も雨が降っているときは、それが錯覚なのか実際に疲れていないのかはわからないけど疲れにくかった気がする。そんなわけでいつもより遠くまで走った。走りながらイヤホンでオサカナの曲を聴いていたのだけど、雨とオサカナの曲がびっくりするくらい合う。オサカナの楽曲は、聴いているとこの場にいながらどこか別の場所に行けるような気がしてくる曲がたくさんある。濃い霧のなかを雨に濡れながら走って、曲を聴いているとほんとうにいつもと全然違う場所に来ているような感覚がしてきたのだった。線路沿いでイヤホンをしながら走っていると、電車が近くを通る音を、雷が落ちる音に聞き間違えた。

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・ここ三日間くらい読んでいた『小説の誕生』が読み終わってしまった。そのままシームレスに三作目の『小説、世界の奏でる音楽』を読み始めた。もともと最初にこの本を買ってこの本が三部作になっていることを知ってしばらく放置していたのだった。面白いに決まってるし、なるべくゆっくり読みたい。読んでいて思うのは、小説論三部作を小説を実際に書いてから読んでよかったということ。五月に十五枚の短編、六月に七十枚の短編を書いた。実際に小説を書いたからこそ腑に落ちる部分がとても多かったと思う。三月、四月に最初に書こうとしていた小説は途中でつまらないと思ってしまったのと、いまこの小説を書いている必然性みたいなものを見失ってしまったから途中で投げてしまった。とにかく、いまこれらの本を読めてよかった。

・『この世界の片隅に』(片淵須直)をDVDで見た。昨日の『マイマイ新子と千年の魔法』と続けて見ると、割と類似点が多い。両方ともとても良い作品なのだけど、同時に強く現実を突き付けてくる厳しい作家なのだとも思った。まず主人公のすずと新子はふたりとも夢ーうつつを生きる(夢うつつな性格はすずのほうが強調されていて、彼女のそれは自分がかつて生きていた広島と嫁ぎ先の呉を混同してしまうほど)。彼女たちの夢と現を混同し、ときに現実を無化してしまうようなしぐさはとても魅力的だった。新子はマイマイによって、すずは自身の右腕によって夢と現が相互浸透する世界を生きる。これが一つ目の共通点だとすると二つ目は二人の夢-うつつ世界が最後まで保たれることはないこと。彼の作品世界では新子とすずが生きる夢-うつつ世界の裏に、厳しい現実が新子とすずの世界と拮抗する強度で張られている(新子の場合は、ひづる先生への絶望、タツヨシの父の自殺、すずの場合は言うまでもなく戦争)。どちらの作品でも終盤になるにつれて裏に存在している現実が強く現れてくるようになる。すずにとって夢ー現を媒介するものであった自身の右腕は爆弾によって義姉の娘であるハルミとともに吹き飛ばされる(このシーン以降はほんとうに見るのがつらかった)。新子においては物語の最後で、彼女に空想を供給する存在であったおじいちゃんが死に、引っ越しによって新子の夢が展開する世界の地であった麦畑からも離れることになる。つまりどちらの作品も、新子とすずの魅力的な世界は最後まで保たれることがない。正直、このことについてはかなり受け止めかねているところがある。端的に言って両方とも終盤を見るのがつらかった(とくに『この世界の片隅に』はきつい)。よい作品なのは間違いないのだけど。