9月17日

実家に帰省してから、ずっと家にあるスピーカーで音楽をかけている

一回サブスクの便利さを経験しちゃうと、もう前時代には戻れないって思う

ずっと聴いちゃう

今日は聴いてたというより流していたに近いけれど

スティーリー・ダン『The Royal Scam』

コリーヌ・ベイリー・レイ『The Sea』

オリビア・ニュートン・ジョン『Have You Never Been Mellow』

ドナルド・フェイゲン『The Nightfly』

トレインチャ・オーステルハウス『Sundays In New York』

最後のアルバムは、オランダの歌手のものだけど、このアルバムのリード曲の「Everything Has Changed」がめっちゃ好きでずっと聴いている

インスト版も最高

 

『この人の閾』(保坂和志)を読んだ

表題作+「東京画」、「夏の終わりの林の中」、「夢のあと」の四作品(解説が大貫妙子でおおっ、て思った)

表題作以外の三作は、ただひたすらその辺りを歩くだけの小説

(作品を読めば、近所を歩き、眺めるという行為には「ただ~だけ」では決して済まない情報量があることがわかる)

これらの作品を読みながらどうしても思い出してしまうのが永井荷風の『日和下駄』

一人称でただ歩きながら何かを語るという形式上の一致だけではなく、開発によって周りの景色がだんだんと変化していくその最中で書いているという部分も同じだ

保坂和志の小説は、本人も言っているように、人間だけのときはとことん軽いが、猫が登場するととたんにシリアスになる傾向がある。それは、「外部」が存在しないとよく言われる保坂的世界においてまるで猫がその閾を引いているかのよう

おそらく、このときの保坂和志にとっては、猫こそが死や意味などの世界の「外部」への通路になっている

「東京画」はこれまでの中で最も暗い(もちろんその暗さはできるだけ抑制されている)

「夏の終わりの林の中」は二人で歩き、「夢のあと」は三人で歩き、「東京画」は一人で歩いている(3人のときもあり)

『プレーンソング』、『猫に時間の流れる』と読んできて、まさか保坂和志の小説で「死」が描かれるなんて思いもしなかった。予想できなかった分だけ読んでいる側もかなりダメージを負ってしまう(「猫に時間の流れる」の時点で、若干その影はちらついていたけど)

猫に時間の流れる」と「東京画」はそういう意味で異色の作品とも言えるが、この二つが他の作品と異なるのは、(猫の)死の影がちらついているということと、死の影が文体に波及することで、より語りは内省的になり、思弁的な考察が前面に出てくる

(それは上手くいっている場合とそうでない場合がはっきりしていて、そんなんいまさら言われなくてもわかってるよ、ってこともあればおーっと思うときもある)

《ここにはそれが望んだものであるとないとに関係なくこの外観のとおりに生活している人たちの意志とでもいうようなものが働いているとこちらに感じさせるのだし、こういう家と庭の様子をよく知っていた過ぎ去った時間というものをぼくが短い時間でも再び経験したように感じたのは場所の持つある種の作用ともいえるもののはずで、場所と時間という二つが切り離されたものではないということをここは示していた。》(「東京画」)

《建物がそこに人の住むもので、建物自体に時間や記憶を住む者に喚起させる何かがあるのだとして、そしてそれが直接住んでいないでその建物を見るだけの者にもある種共通の時間や記憶を喚起させるのだとしても、ここに住むようになりこのあたりを歩きながら意識して見るようになった構えの大きな日本家屋にはもっと純粋に視覚的なおもしろさがあると思った》(同前)

(小説において、一人称による一人語りは何人かでの会話に比べてどうしたって暗く見えてしまうということもあるかもしれないと思った)

読みながら考えていたのは、日常を再発見するための一つの方法に「言語化」があり、小説があるということ。保坂和志の小説を読んでいるとすごくそれを感じる

(ぼくが好きな作曲家の照井順政の言葉で言うと「世界と出会いなおす」)

「夏の終わりの林の中」と「夢のあと」は、文句なしの傑作だと思う

ひろ子のセリフが良い

《「季節っていいうか、季節の記憶っていうか、それがこの年になると心の中にけっこう厚い層になってて、その厚みだけで何かがあるような気がしてくる、——問題はその厚みの方だったって――」》(「夏の終わりの林の中」)

あと、特に意味はないけれど次の箇所が好き

《ぼくはきっとだらしなく頬を弛ませていただろう。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ」という和歌を思い出した。ぼくはこの歌が好きでたまに思い出す。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」まで、つまり上の句全体が「長々し」を導く枕詞になっている。意味だけで言うならじつに空疎な歌だと思う。ひろ子の解釈では、一年も気にかかっていた夢がそれ以上空疎なものになった。ぼくはそれが不満なのではない。がっかりしてもいなかった。そういう無意味さが好きなのだ。》

こういう無意味に惹かれる傾向にはぼくにもある(それは「無意味」という意味に堕落しないようにつねに注意が必要なのだけど)

 

そのあと『モンキー・ビジネス』(ハワード・ホークス)を観た

最近小説を一冊読んで映画を一本観るのがルーティン化しつつある

赤ちゃん教育』も最高だったけど、ホークスのコメディはマジで面白い

ぼくなんかが何かを言うまでもなく傑作

 

夜に散歩していると黒猫かホテルに入ろうとしてた

姫路駅周辺猫多いね

f:id:moko0908:20200917224011j:image
f:id:moko0908:20200917224002j:image
f:id:moko0908:20200917224007j:image

 

(9月12日と)9月13日

今日はずっと眠すぎて、夕方4時くらいまではずっと寝ていた

一昨日?の夜全然寝つけなくて、そのツケが一気に回ってきた感じ

そのとき夜11時くらいから、宮野玄士が配信を始めて、それを見ていた

いろいろ面白い話が聞けて良かった。宮野玄士が初めて曲提供したのが21歳のときで、フィロのスの「すききらいアンチノミー」が処女作

21歳!!!!同い年やん・・・やば

ぼくがフィロのス好きになったのは、Youtubeで「ライブ・ライフ」の動画見たときで、それも宮野玄士作曲だった

それで、2時くらいにそろそろ寝ようと思って、ベットに入ったけど全然寝付けないから、とりあえず配信をつけたままにしていたら、3時くらいに7セグメントの曲に合わせてギターの生演奏をし始めて、それがめちゃくちゃよかった

7セグメントの曲はサブスクで四曲しか配信されてないけど、全部めっちゃいい。というか、宮野玄士が作った曲はだいたい好きです

「シアワセの末路」のカッティングと間奏のベースソロカッコよすぎる・・・

結局、4時くらいに一回寝落ちして、次に起きたのが5時で、スマホ見たらまだ配信してたからさすがに笑った。一時間に一回くらいもうすぐ終わりますって言ってたけど・・・

そこから、配信終わるまで見て、終わった後なぜかまた寝れなくなったからもうその日は寝るのを諦めた

もう外も明るくなってきてて、5時くらいの窓から見える景色は結構よかった。黒から青に移っていく途中の深くて濃い空

 

配信がとてもよかったから、そのまま宮野玄士のチャンネルで、影響を受けた洋楽について100曲語る動画を見た

youtu.be

 

宮野玄士の曲の解説を聞いてから、その曲を聴くというのの繰り返し。めっちゃ贅沢な時間だった。part2まで見て、50曲聞いたことになる

マジで全部いいな・・・よすぎた・・・

たった5歳しか違わない人のプレイリストとはとても思えないな

個人的にめっちゃ好きだったやつ10曲

 

フィリップ・ベイリーフィル・コリンズ Easy Lover

シスター・スレッジ Thinking of You

シック Le Freak

スティーリー・ダン Kid Charlemagne

マリーナ・ショウ Feel Like Making Love

デニース・ウィリアムズ It's Important To Me

セローン Move Me (feat. Brendan Reilly)

ブラン・ニュー・ヘヴィーズ You Are The Universe

ジャミロクワイ Canned Heat

コリーヌ・ベイリー・レイ Closer

 

いや、こんなことする必要ないくらい全部いいんだけどな

ナイル・ロジャース絡んでると、だいたいめっちゃ好きだった

 

このあとは昼からバイト行って、バ先でご飯食べさせてもらって、おわり

で、今日にいたる

8時、12時くらいに一回ずつ起きたけど、マジで眠すぎて起きれなかった

出町座で『れいこいるか』の上映のあと、舞台挨拶もあったらしくて行きたかったけど起きたときには手遅れだった

 

このまま何もせずに終わるのもなんかあれだから映画を観ることにした。プライムビデオで『クーリンチェ少年殺人事件』(エドワード・ヤン

大傑作だと言われているけど、なんせ4時間もあるからなかなか手が出せなかった

こんな日で逆に良かったかもしれない

これ一回観ただけで理解するの無理くないか・・・登場人物めちゃくちゃ多くて、マジで誰が誰だかわからなくなる

ロングショットが多用されて、普通にそこにいるのが誰なのかわからないときあるし、重大な事件はほとんど何の説明もなく、暗闇のなかで起こることが多い

でも、それがこの作品のなかで必然性があるものとしてあるということもわかる

殺人事件が主題なのにもかかわらず、4時間観ても「これがこうなったから殺人が起こった」という因果の線を結ぶことができない、というより作品自体がそれをそもそも拒んでいる感じ

たぶんもう何回か観ないとだな・・・・

 

夜、外に出るとめちゃくちゃ涼しくて気持ちいい

 

昨日、今日の写真

f:id:moko0908:20200913235647j:image
f:id:moko0908:20200913235657j:image
f:id:moko0908:20200913235651j:image
f:id:moko0908:20200913235654j:image
f:id:moko0908:20200913235701j:image

 

9月11日

朝起きたらやっぱり昨日の心地よい涼しさとは打って変わって、夏のジメジメした生ぬるい暖かさがあった

ほんと、はやく秋になってほしい

昼間、空は曇りはじめて雨が降り、しばらくすると雷の音

 

昨日、力尽きて書けなかった西川アサキの本についてあともう少し

人は、誰にとっても必ず訪れる死のような、頑強に存在するリアルなものが存在する限り、中途半端な相対主義者であることしかできない(そして、象徴的なものの「外部」にリアルなものがあるがゆえに、むしろ最終審級として「常識的なもの」を温存する)

『魂と体、脳——計算機とドゥルーズで考える心身問題』より

《つまり、この場合の「現実」は、結局の所、生活や利害調整=主体の生き死にをめぐる競争からは逃れられない、という常識を意味する。それが「常識」なのは、この「リアル=生死」というのは、その裏面として、「(一つの体に)唯一の主体が存在し、それが生き死にする」という世界観=常識を前提しているからだ。この意味での「リアリズム」というのは、常識であり、頑健だと思う。もちろん、唯一の主体など見せかけだ、と主張するのは簡単だ。しかし、その主張は多くの場合、そのような主張をしながら、裏では生活のための生存競争に明け暮れるという「中途半端な相対主義者」と、同じ二重構造をもつ振る舞いに帰着する。生存競争と複数の主体は両立できない。主体が一貫性を持たないと、自分の作った戦略や契約すら忘れてしまうからだ。》

ドゥルーズガタリはあまりにもかんたんに「リアル=生死」を自分たちの理論から、遠ざけてしまった。しかし、最も重要なのはいかにして「リアル=生死」なものから逃れ、リアリズムから逃れるか、そこについての精緻な理論化、あるいは芸術などによる実験、そして万人が使えるような技術であり、西川アサキは、そこのドゥルーズガタリがおろそかにしてしまった部分をやろうとしているように、この部分以降は読むことができる

『魂のレイヤー——社会システムから心身問題へ』も基本的に同じ問題意識が貫かれており、「形ある生命からの逃走」のための理論、実験(小説)が詰め込まれている

こんな貴重な本世界中探してもほとんどないよ、もう圧倒されるしかない

一度でもこういう問いに捕まったことがない人にとっては、なにそんなことでマジになってんだよ、って思うかもしれないけど、ぼくからすれば、こういう死をめぐる問いと比べたら他のどんな問題だって、ささいでちっぽけな問題だ

パウル・ツェランの詩(「フランスの思い出」)について述べられていることが面白い

 

お前 僕と一緒に想い出しておくれ——パリの空、大きなイヌサフラン・・・

ぼくたちは 花売り娘から いくつもの心を買った——

それは青く そして 水のなかで咲きほころんだ。

ぼくたちの小部屋には 雨が降り始めた、

そしてぼくたちの隣人がやって来た、ムッシュー・ル・ソンジュ(「夢、空想(Le songe)」)が、やせこけた小男が。

ぼくたちはカードをした、ぼくは瞳を失った、

お前はお前の髪を僕に貸し、ぼくはそれを失い、かれはぼくたちを打ち倒した。

かれは戸口からでていった、雨はかれの後をついていった。

ぼくたちは死んでいて 息をすることができた。

 

《「ムッシュ―・ル・ソンジュ」は、普通に考えれば、夢や空想が「ぼくたち」に対し及ぼす、破滅的影響のメタファーと解釈できるだろう。しかし、それでは、わざわざ詩にする必要はなく、説明すればよい。「ムッシュ―・ル・ソンジュ」が何か未知の「カテゴリー」への名前としても使われて、それは「誰にとってもまだ未知」だと想定できるから、詩である意義があるわけだ。別の言葉で言えば、「雨がかれの後をついていった」り「死んでいて、息をすることができた」というような細部が、メタファーとしての解釈に抵抗し、「未知」であることを維持する。》

詩に対して何らかの「意味」を求めたがる人は、メタファーによる解釈の水準で満足するかもしれないが、当たり前だけど詩を詩として成り立たせているのはそこから逃れていく部分だ

 

コンビニで買った朝ごはんを食べてから、『青春感傷ツアー』(柴崎友香

この小説も、何気ない細部の記述がとてつもなくおもしろい。例えば、次のようなところ

無人駅の前の小さな広場に置かれたベンチに座ると、空からプロペラの音がした。見上げると、雲は一つもなく、淡い青色の穏やかな冬の空が広がっていた。遠ざかっていくパラパラという音の源を探して、頭を動かしても空には動くものは何も見つからず、さまよう目線は、すぐに山並みに行き当たる。どっちを見ても、視線は連なる山に遮られる。手前にある低い山の急な斜面には、右から左、左から右と、交互に道路が斜めに走っているのが木の隙間に覗く。頂上近くまで水溜まりほどの広さの段々畑が重なり、斜面にしがみつくように立っている家が、昼下がりの暖かい太陽を全身で受けようとしている。落ちてきそう、をわたしは思った。

「どっちみてんの?あっちやで」

 音生がわたしの頭を掴んでぐりっと反対側に向けた。太陽を背にして陰になった山の向こうへと消えていく、白っぽいヘリコプターの小さな後ろ姿が見えた。》

何気ない一場面ではあるけど、この冴えた記述によって、読者は文字を追う自らの視線を主人公の視線に同一化させる。柴崎友香の「眼の文体」(豊崎由美

この小説にもパウル・ツェランの詩について言われていたことと同じことが言える

このような何気ない細部が「あらすじ」をまとめたらほとんど何も書くことのないこの小説を面白くしている

おそらく「意味」を求めたがる頭でっかちな人は、「この小説で作者は何を伝えたいのか?」なんてことを言い、こんな小説を読んでも何も得ることがなかったなどと言って勝手に腹を立てるんだろう

たぶんそういう人は小説を読むのに向いてないし、映画を観るのにも向いてない(過激)

確かに、この小説には、読んで得られる意味もないし教訓もないし、わかりやすい感情的使用「価値」(泣ける、笑える、共感できる・・・)もない

けれど、そういう分かりやすくて共有可能な「価値」に還元できない、良さがこの小説には間違いなくある

 

夜、夕飯を食べに外に出る。ドアを開けて外に出ると廊下の先の方でネコが階段を登ってきたところだった。僕と目が合うと、すぐにそのまままた階段を駆け上がって、そっちのほうに行くと階段の中腹でネコがこっちを見つめてた

なにしにきてたんだろ、アパートに入ってきたのをみたのは初めて

隣の隣くらいのアパートのところで見かけたことのあるサバ猫?だった

階段を降りて、なんかいつもより空間がひらけていると思ったら、唐突に自動販売機が姿を消していた

外、深くて鮮やかな青色の空に灰色で若干赤みがかった雲

 

帰って来てから『パターソン』(ジム・ジャームッシュ

もう、本当に最高

こんなに素晴らしい映画があっていいのか

いいんだな・・・

ジャームッシュに一生ついていこうと思った

とりあえず今あるやつ全部見よう

 

あ、二万したイヤホンは最高、買ってよかった

最初に、聴いたのはSmells Like Teen Sprit(安直)

ぶちあがったな・・・

 

今日の写真

f:id:moko0908:20200911224100j:image
f:id:moko0908:20200911224053j:image
f:id:moko0908:20200911224056j:image

 

9月10日

毎日一回8時くらいに目が覚めてしまって、今日もそうだったのだけど、この時間に起きると絶対昼間に眠くなるって分かってたからあえて二度寝

で、次に起きたのが10時過ぎ

起きたら、曇ってたからか気温はやっぱり秋の気温になっててうれしかった

このままスムーズに夏が終わって、秋になってくれたらうれしいけどそうもいかないんだろうな

 

起きたあと、カナートにいってなんとなくジョーシンに入って、イヤホンのコーナーをしばらく眺めていた

やっぱり欲しくなっちゃう

二か月前もここで3000円の安めのやつ買って、先週くらいに洗濯して壊してしまった

ぼくって働くの嫌いでお金稼ぐのも嫌いなくせに、金づかいも荒いっていう典型的なダメ人間で(物欲がそんなにない代わりに欲しいと思ったらわりとためらいなく出してしまう)

結局、買っちゃった

二万くらいのやつ(ソニー)!!!!!!!

うだうだ悩んでる時間もったいないもんね!

アマゾンの方が安く買えたからアマゾンで買った

明日届くの楽しみ

 

北部食堂に向かっている途中に、めっちゃ雨が降ってきた。濡れたせいで食堂の中でずっと凍えていた。夏どこいった・・・

北部食堂で『分解の哲学』(藤原辰史)をパラパラと読む

この先生には、わりとお世話になってて

現代史の授業受けて、読書レポート用に『ナチスドイツの有機農業』も読んだ

この本途中までだけどめっちゃ面白くて、いろいろ刺激をうける

近代的な思考においては「生産」があくまでも中心であり、それを裏で支えているはずの「分解」が無視されてきた。この本では「分解」の側に立って論が進められる

例えば「積み木の哲学——フレーベルの幼稚園について」

《積み木は、日本語の語感からしても積むおもちゃであると思われがちである。しかし、実のところ積み木遊びには、崩すこと、ばらばらにすること、あちこちに散らばること、偶然にできた散らばりの様子を見ること、そして音を鳴らすことも含まれている。いわば崩し木である。仮に積み木が糊で接着させる遊びであったとすれば、バラバラと崩れる積み木にあのひびきは出ない。》

読みながらティンゲリーのことを思い出すなど

「生産」から逃れ、「分解」の側に立つ芸術は可能であろうか?

ヒントになりそうなのはベケットだろうか(ただの思い付き)

 

夕方、涼しくて空がいい感じだったから二か月ぶりくらい?に走りに出た

川沿いでは普段とは違って、立ち止まって空を眺めている人が何人もいた。そのうちの何人かはカメラをもっていた

まあ、あの空の色は見るよな

どうでもいいことだけど、普段から立ち止まって景色を見て写真を撮っているぼくは、なんだよこういう時だけ、と思ったりもするのだった

走って北上しつつ、久しぶりにシカ見れないかな~とか思っていると本当に現れた

最初は二匹が同じスピードで息を合わせて走っているのが見えて、あとからそれまで草むらに隠れていた二匹も見えて合計四匹になった

シカの走るスピードに追い付こうとして、ダッシュしていたら、その四匹のシカをカメラに収めようとしているおじさんとすれ違った

 

帰って来てから、西川アサキ『魂のレイヤー——社会システムから心身問題へ』

この人の文章は何を読んでも興奮する

第一章は、前著の『魂と体、脳——計算機とドゥルーズで考える心身問題』を復習しつつ、展開していくという感じ

あの本との出会いはぼくにとって、一つの事件で、あれを読む以前、以後とではぼくの立っている世界の土台が異なっている

あの本が優れているのは、こっそりドゥルーズガタリ的な問題系、「革命」「外部」「形から逃げ出す生命」を引き継ぎつつ、そこに纏わる概念群をシュミレーションなどを用いつつ、精密にスケッチし、明確に整理することで彼らの限界点をも示してしまい、さらにその先へと進んでいこうとする点にある

そこで皮肉にも示されてしまったのは、絶対的な価値の不在、すなわち現実に存在する不確実性、あるシステムが「外」に開かれていることが、かえって「貨幣」や「国家」のような、全体を統制し、「ほとんど」グローバルな価値尺度を出現させてしまうという事実だった

中途半端な相対主義者こそが、この強固な現実を支えている

お金で買えないものがあることは希望でもなんでもなく、お金が重宝される条件でしかない

ちょっと今日はここまで・・・疲れちゃった

 

今日は一日中ビートルズを聴いていた

というか今も聴いてる

https://open.spotify.com/track/50xwQXPtfNZFKFeZ0XePWc?si=EYOdeVfRSG2c9FgJpqPpWQ

 

f:id:moko0908:20200911010426j:image
f:id:moko0908:20200911010423j:image
f:id:moko0908:20200911010433j:image
f:id:moko0908:20200911010429j:image
f:id:moko0908:20200911010436j:image

 

9月9日

今日朝起きて窓開けたら、なんか空気が秋っぽくなってた

曇ってたからかもしれないけど、外出たら空気が若干カラッとしてて8月のじめっとした感じはなくなってた

一年の中で一番好きなのが、夏が終わって涼しくなってくる時期(9月末から10月にかけてくらい)

春よりも、秋の下降していく感じがとてもいい

窓から涼しい風入ってくるのめっちゃ好きなんだよな

 

群像の9月号で、樫村晴香「美しいもの——表象、欲望、メタモルフォーゼ」を読んだ

ぼくのなかで、人生20週くらいしても追いつけないと個人的に思っている三大頭よすぎる人が、樫村晴香、郡司ぺギオ幸夫、西川アサキの3人

もう読むたびに圧倒されてしまうな

適当に引用してみる

《美しさは非常に速いが、しかし有限の時間で出現し、そののち消失する。その一瞬の挙措は欲望よりずっと速く、欲望の手前で美しさは現れるが、しかしそれが現れる時、それは期待の感情の軌跡ー痕跡のようなもの、いわば欲望の微分を伴っている。》

《美しいものは不吉でも不気味でもないが、時にそれが不穏なのは、美は物質から浮かび上がり、区画され、はぎとられた「表象」だからだ。これは物質の変態であり、そこで隆起するのは私の身体と欲望である。》

《美しいものは空間の裂け目が、欲望の輻射を受け、励起する瞬間だが、それはアガトンが言うようには、自分自身では逃げ去れない。美しい対象が、震える斑紋、震える羽毛、震え鬱血する表皮として、空間から分離し立ち上がる時、欲望は同様に隆起して、息をのみ目を見開き発汗するが、しかし表象から身体への、この同期と支配は、身体の更に深い動き、すなわち美しいものに驚嘆し、捕捉・称賛したいという感情ー思考、そして対象を撃ち取り、性交し、この称揚全体を何ものかに伝達しようとする運動に引き継がれる。賛嘆と隷属、性交と制覇を経て、移転、伝達、共有され美は立ち去る。そして正確に言えば、この、出現し消失する欲望の輪の一極点としてのみ美は現れる。美しいものは私を驚かせるが、しかしそれを私は予め知っている。》

《美しさは、説得や証明や理解と異なり、世界の励起が直接に伝播、憑依し、あれこれの対象を欲望する日常的な時間を止める。それゆえ倫理に近い圏域にあるが、同情や義憤のような理解の工程を要しない。理解や思考は、むしろ空間が隆起し美を手招きをする瞬間、それを遠ざけ、自分の欲望をそこに打ち立て、美を対象の場に下がらせて、美から人間を防衛する。》

《日常の中でたまたま出会う美しいもの。岩肌、液状の水、空中の水、樹木、動物、人間など。それは素朴に美しく、穏やかな一瞬を与え、やがて去る。しかしそれを狭義の表象として留めようとする作品は、むしろ苦痛に満ち、とりわけ十九世紀以来の作品は、知覚を真理に競わせ、表象を真理に押し上げ——そこには知覚を真理の準則とみなす現象学的思想も多少作用した——、美しさは逃げることも、欲望に追われることもなく、鑑賞の対象から、網膜に張り付く原光景へと変貌しだす。しかし美しいものとは、その発生においてそもそもそのようなもので、作家たちの創作の苦難の歴史が、この事実を今日私たちに教授する。》

《岩山や海面の一瞬の表皮を描いたセザンヌの絵が、膨大な時間を内包するのは、彼の画布が、世界が隆起する瞬間を捉えつつ、それに対する長大な防衛を闘っているからだろう。》

 

夕方、外に出る。曇り空と涼しい気候。東の山の上の濃いめの青と白のグラデーション

テキトーに路地裏に入って歩こうとしたら、5分もたたないうちに元の場所に戻ってきてしまって、自分の方向感覚のなさに少しへこむ

 

吉田喜重小津安二郎の反映画』

見たことがある『晩春』と『東京物語』の章を読む

ぼくは『晩春』の方が面白かったけれど、この本では『東京物語』が特に力を入れて論じられていた

なるほどーと思いながら読んでいたけれど、ここで言われていたことがどれくらいの正当性があるのかはもう一度映画を見ないとわからない

論自体はおもしろかった

 

赤ちゃん教育』(ハワード・ホークス

これはね、マジで面白かった

映画でこんなに笑ったの初めてかも

もうずっと画面に釘付け

ほんとにすごかったな

f:id:moko0908:20200909233214j:image
f:id:moko0908:20200909233206j:image
f:id:moko0908:20200909233210j:image

9月3日

今日はたまにある一日中眠い日だった。こういう日が来て初めて、こういう日がないとダメだよなあとふと思う。いつもすこし気付くのが遅い。マイルス・デイヴィス『ダーク・メイガス』を聴いている。あまり詳しくジャズのことを知らない僕でもカッコいいと思うキャッチーさ。昼間に小津安二郎東京物語』観た。正直に言うと、途中で眠すぎて一時停止して仮眠をとってしまった。夕方に『リズと青い鳥』を観た。本編では出せなかった別の感じ。なかなか良い。今日は早めに寝る。窓から見える向かいのマンションの電灯が、白、淡い橙色、白とバラバラについている。昨日、今日とあまり天気が良くなくて、濃い灰色の雲が昼間も空を覆っていた。雨雲の重さと夏の空気の軽さが混ざって、なんか変な感じ。寝ます、おやすみなさい。